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山茶花の嫁  作者: 櫻木サヱ
沈黙に触れる

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15/25

夜の気配

夜の屋敷は、昼とは別の顔を持っている。

灯りが落とされると、柱も壁も輪郭を失い、音だけが残る。


紗夜は部屋で針仕事をしていた。

指先の感覚だけを頼りに、布と糸を進める。

灯りは弱く、影が揺れるたびに、縫い目が曖昧になる。


それでも、止めなかった。

不確かな状態に身を置くことに、いつの間にか慣れていた。


遠くで、戸の開く音がする。

続いて、控えめな足音。

久遠だと分かるまで、そう時間はかからなかった。


夜になると、屋敷の音は数が減る。

だからこそ、残った音がはっきりと浮かび上がる。


紗夜は針を置き、耳を澄ませた。

足音は一定の間隔で進み、やがて止まる。

書斎の前だろう。


紙の擦れる音。

それから、しばらくして、低く息を吐く気配。


働きすぎだ、とは思わなかった。

それは久遠の生き方で、紗夜が口を出す領域ではない。

けれど、なぜか胸の奥が静かに痛んだ。


針仕事を再開しようとして、手が止まる。

糸が絡まり、思うように進まない。


この夜は、落ち着かない。

理由は分からない。

分からないまま、落ち着かない。


紗夜は立ち上がり、廊下へ出た。

灯りは持たない。

闇に目が慣れていることを、自分でも知っていた。


一歩、また一歩。

足音は、できるだけ立てない。


書斎の前で、立ち止まる。

中から、気配はするが、声はない。

戸を叩く理由も、叩かない理由も、同じだけあった。


そのとき、中で紙を置く音がした。

続いて、椅子がわずかに軋む。


「……誰だ」


久遠の声は低く、しかし鋭くなかった。


紗夜は一瞬迷い、それから答える。


「私です」


沈黙。

ほんの数秒。

だが、その間に、呼吸の速さが変わるのを感じた。


「……入れ」


戸を開けると、灯りの中に久遠がいた。

書類は整えられ、机の上はすでに片づけられている。


「何かあったか」


問いは短い。

責める色はない。


「いいえ。ただ……」


言葉が続かない。

続けてしまえば、何かが形になってしまう気がした。


久遠は立ち上がり、一歩近づく。

距離は、思っていたより近い。


「眠れないのか」


「……少し」


嘘ではなかった。

すべてを語っていないだけで。


久遠は、それ以上踏み込まなかった。

「無理をするな」


いつもと同じ言葉。

だが、この夜は、違って聞こえた。


二人は、しばらく向かい合ったまま立っていた。

触れられる距離。

だが、どちらも動かない。


久遠の視線が、紗夜の手元に落ちる。

針と糸を持ったままの指。


「……細いな」


それだけ言って、視線を逸らす。

それ以上を言わないことが、彼の選択だった。


「おやすみなさい」


紗夜は一礼し、書斎を出る。

背中に視線を感じながら、振り返らずに歩いた。


部屋に戻り、灯りを落とす。

胸の奥が、静かに熱を持っている。


夜の気配は、

言葉にならないものを、確かに運んでいた。


沈黙は、もう冷たくはなかった。

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