名前のない感情
朝、手を洗う水が少しだけぬるくなっていた。
季節が、ほんのわずか動いたのだと知る。
紗夜はその変化を、言葉にしなかった。
言葉にすると、確かなものになってしまう気がした。
廊下を歩く。
障子の向こうから、紙の擦れる音が聞こえる。
久遠の書斎だと分かる。
足を止める理由はなかったが、歩き出す理由もなかった。
胸の内に、形を持たないものがある。
重さはあるのに、輪郭がない。
不安とも、期待とも違う。
「奥様」
宗一郎の声に、我に返る。
用件は簡単だった。
村からの報告と、明日の予定。
頷きながら聞き、必要なところだけ覚える。
その最中も、心のどこかで、
さきほどの紙の音を引きずっていた。
昼、庭に出る。
風が、以前より柔らかい。
枝の先で、山茶花が揺れている。
咲いている花よりも、落ちた花の方が目に入る。
地に触れ、色を失い始めたそれらは、
役目を終えたというより、静かに場を譲っているようだった。
縁側に、久遠が座っていた。
紗夜は一瞬ためらい、それから同じ縁側の端に腰を下ろす。
距離は、測ったように保たれている。
会話はない。
それでも、背中越しに呼吸の気配が伝わる。
久遠が、ふと視線を動かす。
紗夜と目が合い、すぐに逸らされる。
それだけで、胸の奥が波打つ。
この感覚に、名前はない。
与えられた役目の中に、存在しなかったもの。
夕方、部屋に戻る。
鏡に映る自分は、相変わらず静かな顔をしている。
だが、目の奥に、微かな揺れがある。
それを見つめすぎないように、視線を外す。
夜、灯を落としたあと。
遠くで、戸が閉まる音がした。
久遠が休む合図だと、自然に分かる。
胸に手を当てる。
ここにあるものは、まだ言葉にならない。
言葉にしてはいけないのか、
ただ、まだ早いだけなのか。
名前のない感情は、
静かに、しかし確かに、
沈黙の底で育っていた。
庭の闇の中、
山茶花は、また一つ、音もなく落ちる。




