何も起こらない日
朝の光は、まだ冬の名残を含んでいた。
強くもなく、柔らかすぎもしない。
障子越しに差し込むその光が、部屋の輪郭を静かに浮かび上がらせる。
紗夜は机に向かい、筆を置いたまま動かずにいた。
書くべきことは、すでに頭の中で整理されている。
それでも、すぐには手を動かさなかった。
屋敷は、静かだった。
音がないのではない。
人の気配が、必要以上に形を持たないだけだ。
廊下の向こうで、誰かの足音が止まる。
久遠だと、分かった。
理由はない。ただ、そうだと分かる。
襖一枚を隔てて、気配が留まる。
それ以上近づかず、それ以上遠ざからない。
まるで、そこが境界であるかのように。
紗夜は顔を上げなかった。
声をかける理由も、かけない理由も、同じ重さで胸にあった。
やがて足音は、音もなく遠ざかっていく。
それを見送るでもなく、引き止めるでもなく、
紗夜はただ、呼吸の速さが元に戻るのを待った。
昼近く、庭に出る。
山茶花は、いくつかが落ち、いくつかがまだ枝に残っている。
同じ木に咲いていても、終わりの時は揃わない。
風が吹き、花弁が一枚、地に触れた。
音はしない。
だが、確かに「落ちた」という気配だけが残る。
縁側の向こうに、人影が見えた。
久遠が、庭を見ている。
視線は山茶花ではなく、その先の空に向いているようだった。
紗夜は、その横顔を見ないようにした。
見れば、何かが動いてしまう気がした。
午後は、何事もなく過ぎていく。
報告は簡潔に、応答は必要最低限に。
屋敷の者たちは、いつも通りに動き、
いつも通りの一日が、形だけは保たれていた。
夕刻、廊下ですれ違う。
距離は一歩分。
紗夜が頭を下げ、久遠もまた、わずかに首を傾ける。
言葉はない。
だが、その沈黙は、以前のものとは違っていた。
夜。
灯を落とす前、紗夜はしばらく座ったままでいた。
今日一日、何があったのかと問われれば、答えは簡単だ。
何も、起こらなかった。
それでも、胸の奥には、微かな疲労が残っている。
感情を動かした覚えはない。
だが、何も起こらなかった一日を、
これほど意識したことは、これまでなかった。
何も起こらない日。
それを、惜しいと思ってしまった自分に、
紗夜は気づいてしまう。
庭の闇の中で、
山茶花は、まだいくつか咲いている。
沈黙は、冷たい壁ではなく、
二人の間に置かれた、形を持たない時間だった。




