触れない選択
夕暮れの屋敷。
庭に落ちる影が長く伸び、冷たい空気が屋敷を包む。
紗夜は窓辺で書き物をしていた。
昼間の出来事を整理し、村での小さな収穫を記録する。
心は静かだが、指先の震えは隠せなかった。
「……奥様」
低い声が背後から響く。
振り返ると、久遠が立っていた。
夕陽に照らされ、輪郭が柔らかく見える。
「……久遠様」
挨拶だけが交わされる。
言葉はそれ以上要らないことを、お互いに知っている。
久遠が、そっと書類を手に取る。
「村での報告を、まとめておいた」
紗夜は手を止め、少し顔を上げる。
視線が重なる。
言葉にはできない何かが、そこにあった。
「ありがとうございます」
小さく答えただけで、紗夜は再び書き物に戻る。
触れたい気持ちもあった。
でも、踏み込めばすべて壊れそうな気がして、言葉にできなかった。
久遠はそっと距離を置く。
「……無理に近づくな」
彼の言葉は命令ではない。
自分を守るため、紗夜を守るための、静かな選択だった。
紗夜は微かに頷く。
理解した。
今は、互いの距離を尊重することが必要だと。
夕陽が庭を赤く染める。
雪解けの山茶花が、風に揺れ、まだ凍った枝にしっかりと咲いていた。
「……触れなくても、近くにいることはできる」
紗夜はそう呟いた。
心は確かに久遠の側にある。
触れられないけれど、離れたくもない。
久遠は黙ったまま、ただ屋敷の奥へ歩いていく。
その背中に、紗夜は微かに視線を残した。
冬の庭は静かだった。
だが、二人の距離は、確かに縮まっていた。
雪も落ち、春の気配が、まだ小さく揺れている。




