第九話 命令――オリゾン
戦争は、戦術壁を横切る一本の赤線として届いた。
**ORISON SYSTEM - CONTESTED**
**EMPIRE CRUSADE ELEMENTS CONFIRMED**
**HEARTH VESPER : MOBILIZE**
**HALCYON : EMBARK LONG MEMORY 0200**
**PRIMARY TASKING : COURIER SEIZURE / NAVIGATION KEY RECOVERY**
トーマが最後の行を二度読む。
「生け捕り?」
ソレンが頷く。
トーマは不満そうな顔をした。
「面倒だな」
イランが卓へ寄りかかる。
「君の尋問方法が大気圏再突入だからでしょ」
「分かりやすい」
「書類が増える」
アリはブリーフィングの端で、ハルシオンが変わるのを感じた。
家族が消えるわけではない。
折り畳まれて、武器になる。
ダインは生活用機器の修理をやめ、戦闘用の封止材を並べ始めた。
レンの愚痴は通信確認になる。
マレクは無言で弾倉を数える。
ケイドは命令文を一度見ただけで、他の全員が次に何を必要とするか知ったように動く。
ブラムの圧力は鋭くなる。
不安定ではない。
期待に近い。
昨日の赤域が少し理解できた。
戦争は、彼の攻撃性へ社会的に正しい行き先を与える。
ソレンが航路を拡大する。
「帝国の伝令艦は《ロング・メモリー》離床十七時間後にヘリックス回廊を通る。ヴェスパーが阻止窓を作る。乗り込む。指揮系を隔離。伝令を生存確保。航法認証キーを抜く。護衛が何を奪われたか理解する前に離脱」
アリが訊く。
「私の仕事は?」
十人が見る。
ソレン。
「俺たちを使える状態にしておけ」
少なくとも、もう簡単な仕事みたいには言わなかった。
オリンの手首端末が鳴る。
顔をしかめる。
「その前に問題」
「いくつかあるけど」
イラン。
「五つ」
壁へ適性表示。
**SOREN - DEEP BOND REINFORCEMENT REQUIRED**
**BRAM - DEEP BOND REINFORCEMENT REQUIRED**
**REN - DEEP BOND REINFORCEMENT REQUIRED**
**DAIN - DEEP BOND REINFORCEMENT REQUIRED**
**ILAN - DEEP BOND REINFORCEMENT REQUIRED**
トーマが口笛を吹く。
マレクの名前はその下。
**REFUSED**
アリは彼を見る。
マレクは弾倉を数え続ける。
「五人」
オリンが頷く。
「通常リリースで他は生理基準内。この五人は心理配備基準外」
「出発は二時間後」
「一時間四十三分」
アリはソレンを見る。
「計画的ね」
「帝国がこっちの喪中に合わせて十字軍を組まなかった」
「失礼だね」
ジョリンが表示へ近づく。
「一人ずつやれば」
オリンが首を振る。
「時間が足りない。アリの回復間隔も足りない」
「じゃあ?」
扉からタヴィア。
「多重化」
アリは見た。
タヴィアは退屈そうだ。
「C級をハルシオンへ入れるのがどれほど馬鹿げているか知りたかったでしょう。実践編」
オリンはタヴィアを見る。
「アリはまだ医療停止中だ」
「なら再評価」
オリンは、今度はアリを見てから検査を走らせた。
「予備力は停止線より上。微細運動は使用可能。血管負荷はまだ高い」
「基準値ではない」
「違う」
タヴィアが手を出す。
オリンは数値を送った。
「条件付き上書き。最初は三人。記録済み停止線の内側にいる間だけ追加。越えたら全閉鎖。作戦上の反論は認めない」
オリンは、以前の停止命令の隣へその権限を保存した。
「最初は三人」
ソレン。
「五人」
ジョリンが振り向く。
「駄目だ」
その言い方に部屋が止まった。
ジョリンがこんなふうに拒否することは少ないらしい。
ソレンの目が細くなる。
「理由」
「ブラム一人で基準七一パーセント超えた。荷造りしながら五人?」
「五人の配備可能なセンチネルが必要だ」
「俺は出発まで生きてるガイドが欲しい」
ブラムの顎が固くなる。
レンが目を逸らす。
アリには分かった。
ジョリンの一言で、五人全員が同じ事実を意識した。
自分たちの稼働率には、身体が一つ付いている。
アリの身体。
「三人」
アリが言う。
ソレンを見る。
「終わったあと、まだあなたの性格が悪いって言えたら、残り二人追加」
トーマが笑う。
「素晴らしい診断基準」
オリンは笑わない。
「医療的に反論しにくいのが腹立たしい」
*
普通の椅子に座るという発想が、もう楽観的になったらしい。
アリは回復椅子へ固定された。
周囲にソレン、ブラム、レン。
誰も触れない。
三つの扉を開く。
世界が三つに割れた。
ソレンの世界。
白い指揮回廊。
静かな戦術床を見下ろす高所。
アリの髪は、したこともないほど厳格にまとめられている。
制服は完璧。
右手には砂糖のない茶。
ソレンは黒い礼装甲。徽章なし。
「ブリーフィング姿勢」
アリは自分を見る。
「そういう姿勢まであるんだ」
「イリアは即応確認中に冗談を言わなかった」
「なら二人とも勉強になるね」
回廊が震える。
違う反応。
アリは押さえる。
同時に、ブラムの駅。
雨。
黒い狼が赤灯の下を歩き回る。
また突入ジャケット。
編み髪。
苦い柑橘。
手袋。
「遅い」
「今、別の場所にも二人いるの。基準下げて」
「イリアはそんなこと言わない」
「私の身元について悲しいお知らせがある」
爪がホームから火花を出す。
三つ目。
レンの世界。
花の咲く木。
細い川。
一見、一番楽そうだった。
違った。
アリは淡い青の服。
髪は腰まで。
手首に銀鎖。
二人の間には、小さな赤い果実を正確に四等分した皿。
レンの内側の姿は現実より細い。
狐の耳。
長い黒尾。
本人はそれを気にする様子がない。
果実を見る。
「塩がない」
アリは瞬く。
「あるって知らなかった」
「イリアは知ってた」
三語。
ブラムが壁を壊すより重い。
アリは小皿に塩を作った。
レンは触らない。
「そうじゃない」
川が逆向きに流れ始める。
外からオリン。
「四二パーセント」
三つの世界すべてに聞こえる。
分けろ。
白い回廊。
雨の駅。
花の木。
ソレンの回廊は、言葉の順番がずれるたび揺れた。
ブラムの駅は、アリが従順になるほど赤くなった。
レンの川は、彼が期待した細部を見落とすたび逆流した。
三人とも、自分だけが知っていたイリアを返せと言っている。
「ダイン追加」
外でジョリンが悪態をついた。
四つ目。
台所。
小さく、温かい。
窓がない。
アリは濃いスープを混ぜている。
袖は二回だけ折られている。
髪は短く、片耳へかけられている。
香水なし。
親指に油汚れ。
ダインは卓で野戦ラッチを直している。
内面の姿もほぼ同じ。
当然だと思った。
「塩、多い」
アリは鍋を見る。
「レンは足りないって言ってる」
ダインが顔を上げた。
台所の明かりが揺れる。
混線。
胃が沈む。
別の男の私的領域へ、別の男の細部を持ち込んだ。
レンの小川の塩皿がダインの卓へ出る前に切る。
四つの世界が震える。
オリンの声が鋭くなる。
「混線。アリ、停止」
「嫌」
白い回廊でソレン。
「撤退しろ」
駅でブラム。
「やめるな」
レンは黙る。
一番怖い。
ダインがラッチを置く。
「過負荷だ」
「らしいね」
「なら、スープを作るな」
その馬鹿らしさで、笑いが出た。
台所が安定する。
ダインが少し不服そう。
「何だ」
「何でもない」
「笑った」
「私、四つの私的精神世界を維持しながら、塩加減を倫理問題にする男へ架空のスープ作ってる。笑う権利ある」
ダインは考える。
「ある」
世界が少し軽くなる。
外でオリン。
「負荷、三パーセント低下」
アリは五つ目を開いた。
イランの世界は劇場だった。
もちろん。
黒いドレス。
唇の中央だけ赤。
イリアの香りが衣装のように肌へ重なる。
空席が闇へ続く。
最前列にイラン。
銀の半面。
「遅いよ」
「みんなそれ言う」
「台詞が違う」
アリの手に台本が現れる。
見る。
イリアの言葉。
一つではない。
何ページも。
「絶対いや」
イランが笑う。
外で見せる、何も気にしていないふりの笑い方と同じ。
「イリアはいつも場面を知ってた」
「リハーサルしてたんじゃない?」
「俺がいた」
半面に亀裂が入る。
一拍だけ、中が見えた。
パニック。
イリアを失ったことだけではない。
自分を知っていた人間が、もう自分を知れないことへの恐怖。
劇場が膨張する。
五つの世界。
五つの「イリア」。
現実のアリの心臓が一度跳ね損ねた。
オリンが何か言った。
聞き取れない。
白い回廊へブラムの雨の匂い。
レンの花の木へ劇場照明。
ダインのスープへ柑橘の苦み。
アリは、五つを一度に正そうとするのをやめた。
白い回廊。
ソレンを見る。
「今必要な指示を、一つだけ」
彼の口元が硬くなる。
それでも、不安定な標識を一つ指した。
雨の駅。
アリは空の手を出す。
「隣と、向かい。どっち?」
ブラムは鉤爪で自分の隣のホームを一度引っかいた。
アリはそこへ座る。
花の木。
塩皿を消す。
「レン。『気にしてない』って決める前に、私が何を見落としたか言って」
黒い尾が止まる。
「俺が答えてる途中で、別のほうを見た」
アリは正面から彼を見る。
最初の棘のある一文を越えて、その下の言葉が出るまで待った。
ダインの台所。
アリは匙を置く。
ダインは自分で火を弱める。
劇場。
アリは台本を閉じた。
「これを置いても、私に残ってほしい?」
イランは、いつもの笑みを用意して口を開く。
アリは待つ。
笑みは使われなかった。
「うん」
演じていない一語のほうが、劇場全部より重かった。
アリは舞台の縁へ座る。
拍手はいらない。
五つの小さな選択。
負荷は残る。
でも混線が止まった。
外の警告音が一斉に鳴る。
次の瞬間、静まる。
アリは目を開けた。
共用室が部分ごとに戻る。
ソレンはすでに立っている。
ブラムの手は握られているが安定。
レンは青白い。
ダインはアリをまっすぐ見ている。
イランから笑みが消えている。
立とうとする。
脚が拒否した。
ジョリンはアリではなく椅子をつかんだ。
ダインが濃縮栄養液を開け、アリの手へ押しつける。
「飲め」
「親密行為のあとに綺麗なこと言うね」
ダインの耳が赤くなる。
廊下からトーマが歓声を上げた。
ダインはアリから目を離さず、指だけトーマへ向ける。
「出ろ」
トーマは笑いながら消えた。
オリンは最終波形を見つめている。
「同時五件」
ソレン。
「C級上限」
「協力的な条件なら」
五人は互いを見ない。
ケイドが境界グラフを拡大する。
「補正後の交差汚染、最小」
オリンがアリを見る。
「混線後に精度を戻せるはずがない」
アリはダインが見ているので栄養液を飲む。
「一覧に追加して」
戦術壁が鳴った。
**LONG MEMORY - BOARDING WINDOW OPEN**
**DEPARTURE : 00:41:12**
ソレンが時計を見る。
アリを見る。
「歩けるか」
最初の朝を思い出す。
「たぶん」
初めて、ソレンが笑いかけたように見えた。
「まだ作戦回答じゃない」
アリは足を床へつける。
今度は持った。
搭乗警報。
十の鼓動が一緒に立ち上がる。
戦術壁で《ORISON》が赤く燃えている。
四十一分後。
十の鼓動を、銃火の中で聞き分けなければならない。




