第十話 ロング・メモリー
《ロング・メモリー》は、五つの家族を飲み込んで、それぞれに「自分たちは一時的な存在だ」と思わせるほど巨大だった。
アリは船の構造を理解するより先に、それを理解した。
ハルシオンは二列で搭乗管を渡る。
後ろを装甲ケースが転がる。
母艦内部は何層にも開いていた。
格納庫。
医療甲板。
訓練区画。
機関部。
各コンコードの居住環。
中央の通路は車両がすれ違えるほど広い。
暗いガイド制服の女たちが行き交い、それぞれの周囲をセンチネルが独特の形で囲んでいた。
騒がしい家族。
ほとんど喋らない家族。
四人の男が同時に口論している真ん中を、一度も驚かず歩くガイド。
ハルシオンへ長く目を向ける者はいない。
アリを見るまでは。
一度見て。
もう一度見る。
C級の階級表示は小さい。
小さいだけで、見えないわけではない。
トーマが身を寄せる。
「有名人」
「何で?」
「行政上の冗談として」
ソレン。
「無視しろ」
「無視しにくい」
「試した」
トーマは満足そうだった。
《ハース・ヴェスパー》は、母艦中央作戦井戸を囲む一帯に配置されている。
そこから五本の居住区が放射状に伸びる。
ハルシオンの新しい居住区は地上より狭い。
そのぶん近い。
寝室十一。
共用室一。
調理区一。
食卓一。
席は十一。
イリアの椅子は運ばれていなかった。
アリが最初に気づく。
マレクは、アリが気づいたことに気づく。
何も言わず通り過ぎた。
昨日なら、それを境界線にしただろう。
進歩と呼ぶには薄い。
でもゼロではない。
ダインは扉が完全に開く前から荷解きを始めた。
七分で整備台を占領し、調理区の温度を直し、他の誰にも聞こえない換気振動を見つけた。
「家だね」
ジョリン。
ダインは不愉快そう。
「空気戻しがずれてる」
「だから家なんだよ」
五重ボンドのせいで、アリの脚はまだ頼りない。
オリンは当然気づく。
「椅子」
「もう椅子は十分」
「質問じゃない」
座る。
卓上の医療表示に適性状態が並ぶ。
八人、緑。
一人、黄。
一人、拒否。
マレクは拒否のまま。
トーマは出発時に緑だったはずなのに、なぜかもう黄。
オリンが睨む。
トーマが両手を広げる。
「宇宙は興奮する」
「おまえは宇宙生まれだ」
「それでも興奮する」
オリンがジョリンを指す。
「最初はおまえ。低難度。アリには回復向けのボンドが必要だ。包囲戦はもういらない」
ブラムが顔を上げる。
「難度分類まであるのか」
「何でも分類する。医療に許された唯一の喜びだ」
ジョリンは、少し不安そうにアリへ笑った。
「始める前に」
意識の端で何かが開く。
温かい。
像はない。
私的領域の入口だけ。
招待。
アリが固まる。
決める前に、ジョリンが閉じた。
温かさが消える。
「なんで閉じたの?」
「開けられるって知ってほしかった」
「閉じられるってことも?」
「閉じるって知ってほしかった」
笑みが薄くなる。
「全部、奪わなくていいから」
その言葉が残った。
「まだ断れる」
そう言われると、受けたいと思った。
「じゃあ、あなたの脳が『低難度』だと思ってるものを見よう」
「危険な言い方だな」
二人は向かい合って座る。
後ろでダインが荷解き。
レンは見ていないふり。
アリは絆を開いた。
鋼鉄が日光へ変わる。
大きな木。
丘。
下に青い谷。
しばらくアリは、音を聞くだけだった。
葉の風。
遠い水。
警報なし。
雨なし。
劇場なし。
木の下に毛布。
籠。
自分を見る。
黄色い夏服。
黒髪は腰まで緩く流れている。
両目の下に細い金線。
手首に甘く青い香り。
またイリア。
でも、ブラムのイリアではない。
ソレンのでもない。
ジョリンのイリア。
ジョリンは丘の端に立っている。
外とほとんど同じ姿。
ただし頬の傷がない。
獣の姿より、その細部のほうが痛かった。
アリは目の下の金へ触れる。
ジョリンが顔をしかめた。
「ごめん」
「化粧に?」
「全部」
服。
髪。
香り。
籠。
誰も息を間違えなければ死者が戻るかもしれない、というくらい丁寧に並べられた生活。
「作ったのはあなたでしょ」
「分かってる」
「じゃあ、どうして謝るの?」
ジョリンは毛布へ座った。
「顔を見たから」
アリは立ったまま。
「ブラムは謝らなかった」
「ブラムは謝罪を伝染性神経疾患だと思ってる」
笑ってしまう。
丘が明るくなる。
比喩ではない。
空が一段澄む。
負荷が落ちる。
ジョリンも気づいた。
「今の、いい?」
「私の神経系、ブラムの悪口が好きらしい」
「最高。何年分もある」
籠を開ける。
小さな菓子。
赤い果物。
淡い色の瓶。
ジョリンは長く見た。
「イリアが好きだった」
アリも座る。
「あなたは?」
「嫌い」
「じゃあ、なんであるの?」
恥ずかしそうに目を逸らす。
「ここでは、いつもそうだったから」
アリは菓子を一つ取り、匂いを嗅ぎ、戻した。
「まずそう」
ジョリンが見つめる。
それから笑った。
籠が消える。
黄色い服がちらつく。
目の下の金も消えた。
ジョリンの笑いが止まる。
「今の、やるつもりじゃなかった」
「何を?」
「君を変えた」
アリは髪へ触れる。
まだ長い。
「もう一度」
「何を着るか知らない」
「私も知らない」
言葉が二人の間へ落ちた。
アリ・ヴェイの荷物には、灰色の制服が二着。
それ以外ほとんどない。
この身体に以前いた人間は、好みという証拠をほとんど残していなかった。
ジョリンが長くアリを見る。
「何が好き?」
自動的に答えそうになる。
何もない。
「分からない」
ジョリンは頷いた。
「じゃあ、分からないままでいい」
消えた籠があった場所を見る。
「戻せるよ」
「何を?」
「全部。菓子も、服も、髪も。ここで午後がどう進むか、俺は知ってる」
アリは長い髪を肩から払う。
「あなたの午後はね」
ジョリンは少し黙った。
「君のは知らない」
「私も」
「だから知りたい。君がいいなら」
「趣味が最悪かもしれない」
「それなら、ようやく食べ物の好みが合う」
アリは笑った。
その隙に、ジョリンは昔の午後を戻さなかった。
「じゃあ、やってみよう」
ジョリンは、何かを変える前にアリの顔を見た。
丘は残る。
それ以外が変わる。
長い髪が現実の長さへ戻る。
黄色い服は、主張しない灰色のシャツと黒いパンツへ。
甘い香りも消える。
毛布は残す。
木も。
ジョリンの頬の傷が戻った。
最後のそれに、アリが気づく。
「戻したんだ」
ジョリンが頬へ触れる。
「君は、これがある俺を知ってるから」
何かがほどける。
絆が応える。
外から、遠いオリンの声。
「負荷、予測代理値より二六パーセント低下」
ジョリンの目が丸くなる。
「それ、いい?」
「かなり」
「何した?」
アリは、消えた籠と、自分の短い髪と、戻ったジョリンの傷を見る。
「私をイリアにしようとするのをやめた」
ジョリンの顔が崩れた。
日光が少し暗くなる。
彼は谷を見る。
「愛してた」
「知ってる」
「それが、君を傷つける意味になってほしくない」
うまい返事がなかった。
だから本当のことを言う。
「じゃあ、そういう意味にしなければいい」
ジョリンの指が毛布へ沈む。
「数字を聞く前から、そうしたかった」
「分かる」
「分かるの?」
「選んだのは聞こえた」
安堵が返ってくる。
温かく、即座に。
会話をそこで終わらせたくなるほど気持ちいい。
アリは彼の手の横から伸びている草を見る。
「でも、何がそれを選びやすくしたのかは分からない」
ジョリンも草を見る。
「今は、もっと楽になってる」
「うん」
丘は安全なままだった。
それがかえって難しい。
頭痛が軽い。
自分のために場所を作った男と、ここにいたい。
その欲求を身体が全力で後押ししている。
「その反応を消したら分かる?」
「別の何かを変えたあとに、何が欲しいか分かるだけ」
ジョリンは毛布から手を離した。
「じゃあ、次はまた訊く」
「断るかもしれない」
「まだ自分の意味で言えるうちに聞きたい」
答えかどうかは分からない。
でも、彼が実際にできることではある。
二人は木の下に座った。
台本は出ない。
菓子も戻らない。
ジョリンは何度か何かを言いかけ、全部やめた。
数分後、オリンの遠い声だけが数字を読み上げた。
共用室へ戻る。
先に目を開けたのはジョリン。
レンが監視表示を見ている。
「二六パーセント?」
オリンが頷く。
「予測代理負荷比」
レンがジョリンを見る。
「何した?」
ジョリンは顔をこする。
「木の下に座ってた」
ブラムが嫌そうな音を出す。
「おまえらしい」
ジョリンが顔を上げる。
「どういう意味?」
「俺たちの中には、本当に失ったものがあるやつもいる」
部屋が止まった。
ジョリンが立つ。
絆の温かさが完全に消える。
アリは一瞬、同じ人間だと認識できなかった。
「それは言うな」
ブラムも壁から離れる。
「何を」
「彼女を傷つけることを、イリアを一番愛してた証拠みたいにするな」
ブラムの顔が変わる。
マレクが荷解きを止める。
レンが二人を見る。
ジョリンは止まらない。
「頭の中で壁を壊したいなら壊せ。イリアのジャケットを着せないと何をしていいか分からないなら、今はそれでもいい。でも、代替ガイドを出血させることを追悼式にするな」
ブラムが近づく。
ソレンが二人の間へ入る。
今度はアリではない。
二人の間。
「そこまで」
ブラムの手が開閉する。
「自分のピクニックが安かったから、正解だったと思ってる」
調理区からダイン。
「安かったのは、別人になれと要求するのをやめたからだ」
全員が彼を見る。
ダインは水袋を持っている。
会話へ入ってしまったことを少し迷惑そうに思っている顔。
「二六パーセント」
それだけ言った。
レンが医療表示を見る。
彼の嫉妬が形を変える。
消えない。
羞恥が混ざる。
「じゃあ何?」
声が小さい。
「俺たち、イリアが恋しいからアリを殺してる?」
オリンは医師らしい残酷さで答えた。
「まだ殺してない」
誰も笑わない。
レンが医療表示へ近づいた。
「暫定予定を見せて」
オリンが眉を上げる。
「未完成だ」
「そこが一番まともかもしれない」
最初の回復枠に三つの名前。
その後の予定に、ジョリンが二度ある。
レンは触れない。
指だけがガラスの手前で止まる。
「なんでジョリンがもう一度?」
「低負荷が予測される。難しいセッションの間に、アリが継続できる可能性が上がる」
「そしてジョリンだけ、耐えやすくなる練習をもう一回できる」
ジョリンがゆっくり座る。
レンは自分の橙色の欄を拡大した。
後ろ。
短い。
「俺はアリを知らないから高コスト。高コストだから時間が少ない。どうやって、予定表が払える人間になる?」
オリンはすぐに答えなかった。
ジョリンが自分の二つ目の枠を見る。
「俺のをやれ」
「それでアリがレンを受ける前に止まったら?」
ジョリンが止まる。
安全な相手ほど、より多く安全になる機会を得る。
誰も意図していなくても。
レンは腕を組んだ。
「ジョリンの慈善で予定表に載りたくない」
「私も嫌」
アリが言う。
オリンは自動継続を消した。
後ろの枠が空白になる。
空白になっても、アリの体力は増えない。
「明日、保護された評価時間を先に取る。実際の負荷を見る。全員に同じ深層時間を約束はしない」
レン。
「潰れた枠は?」
「見えるまま残す」
レンはアリを見る。
アリは一度だけ頷いた。
壁が鳴った。
**PRIVATE BOND REQUEST - MAREK QUIN**
アリは向こうを見る。
マレクが端末の横に立っている。
読めない顔。
アリが目覚めてから、彼はイリアの空席を守り続けた。
まるで、アリがいるだけで死者が消えるみたいに。
そのマレクの申請が画面に出ている。
目が合う。
「優しくするつもりはない」
疲労が骨へ沈む。
アリは答えた。
「奇遇ね。私も」
《ACCEPT》へ手を伸ばす。
オリンの手が画面へ落ちた。
「駄目」




