第十一話 試験一――C
マレクの申請は九時間、未回答のままだった。
オリンが端末から手を離したのは、アリがその手の下へ伸ばすのをやめてからだった。
「今夜、もう一つ深層構造を開くのは禁止」
アリは彼を見る。
「それ、あなたがずっと『本人の選択だ』って言ってるものを、今決めたよね」
オリンの視線がアリの手へ落ちる。
端末の縁に置いた指が震えていた。
「医療的に枯渇している」
「じゃあ、どこからが『駄目』になるのか見せて」
オリンは読取器を二人の間へ出した。
怒っているせいで、一度目は違う波形を強く押しすぎる。
やり直す。
「回復間隔が伸びてる。微細運動が基準へ戻ってない。五件同時のとき、不整脈が一回。ここ」
印をつける。
次に停止基準を開く。
「再評価前に深層をもう一件開けば、医療限界を越える。申請が嫌だからじゃない。これが戻ってないから」
「何が変われば答えが変わる?」
「休息。再測定。安定回復。数値が許せば短いセッション」
アリは基準を二度読んだ。
手で画面を塞がれるより、これは反論も理解もできる。
「次から先にこれ見せて」
「時間があれば」
「今夜はあった」
オリンは端末から自分の側へ手を引いた。
「分かった」
その後、医療区画の入口にマレクが現れた。
腕を組んでいる。
「適性回復を求めた」
「五件同時の深層ボンド、その後に単独一件。その直後だ」
「何を求めたかは分かってる」
「なら、なぜ駄目かも分かる」
マレクはオリンではなくアリを見る。
アリは医療寝台へ横になり、喉へ三つのセンサー、脚に保温布。
「明日」
彼の表情が閉じる。
「明日って言う人間は、大抵『永遠にやらない』って意味だ」
その言葉の形は、別の誰かのものだった。
たぶんイリア。
記憶はない。
でも失った形だけは分かる。
「じゃあ明日、私を嘘つきって呼べばいい」
マレクは視線を外さない。
少しして、一度だけ頷き、出ていった。
オリンが扉を見る。
「神経枯渇中に約束するな」
「葬式みたいな申請をするほうにも言って」
「それも正しい」
アリは目を閉じる。
「明日、何するの?」
オリンがセンサーを直す。
「おまえがC級だと証明する」
目を開ける。
「必要以上に失礼な予定ね」
「科学はそういうものだ」
*
評価官メラ・アークトは0600、黒いケースを持って現れた。
ハルシオンの感情には興味がない顔。
アリはすぐ好きになった。
小柄。
銀髪を短く刈っている。
手首にガイド用接続点。
そして朝からすでに他人の特別事情にうんざりしている表情。
《ロング・メモリー》の評価卓へケースを置く。
「アリ・ヴェイ。C級認定について、コンコード・ハルシオン、医官オリン・ケイル、フューリー・タヴィア・ヴェンから異議」
「異議ではなく、不完全です」
オリン。
メラが見る。
「私が一文言い終わる前にもう一度割り込んだら、あなたを家具として認定します」
トーマがジョリンへ囁く。
「好き」
ソレン。
「静かに」
メラがケースを開く。
四つの神経カフ。
喉用センサー。
黒いプローブ二本。
細い導電メッシュの冠。
アリは見る。
「どれくらい付けるの?」
「全部」
「最高」
「楽観性は試験項目ではありません」
「よかった。地上に置いてきた」
メラの口元が、ほんの少し動く。
評価室は十人全員が入るには狭い。
ハルシオンは観察室を占領することで解決した。
八人がガラスの向こう。
ソレンだけが生体協力者として室内。
オリンも医官として残る。
マレクは窓から一番遠い位置で無言。
アリはメッシュ冠の下へ座る。
メラが第一試験を起動。
「標準ガイド階級は、管理された経路への最大安定出力で測定します。コンコードが感情的に満足するかどうかは採点しません」
アリがオリンを見る。
彼は両手を上げる。
「何も言ってない」
「顔が言った」
標準試験が順に走った。
痛覚抑制。
**C**
交感神経抑制。報酬調整。広域愛着刺激。最大安全出力。
全部、**C**。
メラは最大出力だけをもう一度測った。
二パーセントも動かない。
**C**
ガラスの向こうでトーマの笑みが消え、レンが表示へ近づく。ブラムは「ほら見ろ」という顔をしながら、その結果自体には怒っていた。
メラが背もたれへ寄る。
「抑制された予備力なし。損傷マスクなし。偽リミッターなし。行政上の誤登録なし」
アリを見る。
「アリ・ヴェイはC級です」
沈黙。
目覚めた朝、十人は全員、知らない男だった。
今は沈黙にすら、それぞれ癖がある。
アリはソレンを見る。
「よかった。軍は無能じゃなかった」
ソレンは答えない。
オリンが言った。
「次は精度を」
メラはプローブをケースへ戻しかける。
「精度は階級ではありません」
「だからです」
手が止まる。
観察室の向こうでタヴィアが両手を後ろに組んでいる。
メラはオリンを見る。
次にフューリー。
「何をしたんです?」
オリンが昨夜の記録を送る。
五本の色線。
評価卓へ浮かぶ。
メラの顔が変わった。
「同時?」
「そう」
「同一ガイド?」
「そう」
「深層ダイアド五件?」
「そう」
「感情条件は?」
オリンが五人を見る。
「悪い」
イランが胸へ手を当てる。
「ひどい」
ダイン。
「正確」
メラは線を拡大する。
一度だけ交差。
その後、五本は綺麗に分かれている。
「この出力で、これは成立しない」
アリが冠の下で手を上げる。
「現場にいました。不便だったけど、成立しました」
無視された。
「生体閉ループ。センチネル一人」
誰かが立候補する前に、ソレンが二脚目を引いた。
当然。
アリを見る。
「志願?」
「変数管理」
「そっちのほうがあなたらしい」
座る。
メラがソレンの手首へ二つのセンサー。
「最小ボンド空間。複雑な構造は禁止。調整と相互帰還のみ。反応遅延、補正誤差、信号漏れ、エネルギーコストを見る」
ソレン。
「了解」
アリは絆を開く。
部屋が出た。
昨日の白い指揮回廊ではない。
小さい。
簡素な卓。
椅子二つ。
何も映っていない戦術画面一枚。
アリの髪は、また厳格にまとめられている。
制服も同じ。
今回は茶がない。
ソレンは向かい。
人間の姿。
制御された顔。
腹が立つほど落ち着いている。
「回廊を消した」
「不要だった」
「進歩」
「効率」
彼には違いがある。
アリは、その違いをそのまま置いた。
外からメラの声。
「鎮静を五パーセント」
ソレンの交感神経基準へ触れる。
変化が即座に返る。
行き過ぎる前に補正。
「報酬、プラス三」
調整。
返り。
補正。
安定。
「痛覚閾値ばらつき低減」
安定。
「愛着刺激、低」
ソレンの目が硬くなる。
アリは止まった。
彼も気づく。
「やれ」
アリは動かない。
「そこ嫌いでしょ」
「試験には関係ない」
「絆には関係ある」
初めて、背後の空の戦術画面がちらつく。
数字ではない。
一人の女。
背を向けて立っている。
アリの代理髪と同じ黒髪。
イリア。
いや、ソレンの記憶のイリア。
一秒もない。
ソレンが消した。
画面は無地へ戻る。
「続行」
アリは、まだ触れない。
「配備責任がなかったら、ここに座った?」
「座らない」
即答だった。
綺麗な《ノー》だからこそ痛い。
ソレンは、アリの顔が動いたことに気づく。
「だからといって、今の選択がなくなるわけではない」
「なら、何を選んだか聞かせて」
ソレンは、イリアがいた空の画面を見る。
「最小試験量。一回。直後に基準へ戻す。延長は、もう一度訊いてから」
外でメラが同じ条件を確認する。
ソレンはアリを見る。
「それに同意する」
責任は消えていない。
アリは、それを欲望として読み替えるのをやめた。
最小量だけ愛着刺激を入れる。
温かい返り。
意味は決めない。
すぐ基準へ戻す。
ソレンの顔も変えない。
返りは綺麗だった。
外でメラが何か言う。
聞こえない。
ソレンには聞こえた。
表情が動く。
「何?」
「何でもない」
「あなた、何でもないが下手」
「試験を終えろ」
終える。
部屋が消える。
メラは立っていた。
数字を見ている。
**RAW OUTPUT : C**
**BROADCAST AMPLITUDE : C**
**RESPONSE LATENCY : 0.18**
**CORRECTION LOSS : BELOW STANDARD RANGE**
**RECIPROCAL FIDELITY : OUTLIER**
アリは最後の単語を二度読む。
「OUTLIERって階級?」
「違います」
メラ。
オリンが腕を組む。
「そこが問題」
メラが閉ループを再生する。
「強く押しているわけではない」
「はい」
「ほとんど無駄がない」
メラは、その隣へアリの予備力線を拡大した。
線は下がり続けている。
「精度が容量を作るわけではない。使っているのはC級の供給量。この効率でも、無限には続かない」
アリは卓へ指先を置く。
震えてはいない。
震えさせないことに、少し意識が要る。
「気づいてる」
「なら、計器より先に気づき続けて」
壁からケイド。
「元の命令が解決し切る前に、返りから補正している」
メラが彼を見る。
「そこまで見えた?」
「見えるものは見る」
イランがため息。
「不幸な才能」
メラはアリへ戻る。
「C級認定は正しい」
ソレンの顎が硬くなる。
メラは続けた。
「ただし、あなたたちが訊いている質問には答えていません」
全員が黙る。
アリはガラス越しにタヴィアを見る。
フューリーは驚いていない。
それが結果より気になった。
メラが診断表示を閉じる。
「試験一、完了。標準階級Cを確認」
トーマが眉を寄せる。
「試験一?」
メラはガラス越しにトーマ、そしてハルシオンを見る。
「相互ダイアド一件では、ほとんど何も証明できません」
オリンが、アリと会ってから初めてはっきり笑った。
「素晴らしい」
メラがゆっくり彼を見る。
「励ましたわけではありません」
「方法論として」
オリンが観察室の扉を開く。
「残りを入れる」
アリが見る。
「全員?」
メラの首がオリンへ飛ぶ。
「深層十件は却下」
「深層じゃない。閉じた相互経路だけ。段階負荷。精度崩壊の最初の兆候で終了」
「昨夜、深層五件の記録がある」
「高負荷五件。欲しいのは十件の分離された戻り」
メラはアリを見る。
「最小深度。短い観測。維持試験ではない。やりたい?」
アリは、オリンではなく自分の予備力表示を見る。
「どちらかの停止線へ触れたら閉じる。波形がどれだけ面白くても」
「特に面白いときほど閉じる」
メラ。
オリンが二つの停止線を入力した。
一人ずつ、調整のみの経路に同意する。
マレクの確認が最後。
彼のPRIVATE申請は、別のまま残る。
アリはガラスを見る。
ブラムがもう壁を離れている。
レンが通信卓から姿勢を正す。
ダインが持ってきた栄養パックを置く。
イランの笑みが消える。
トーマが動きを止める。
マレクがようやく、まっすぐアリを見る。
ソレンが扉制御へ手を伸ばす。
ケイドの目は波形から離れない。
ジョリンが観察用カフを外し、立つ。
背後の戦術壁が鳴った。
**EMPIRE COURIER INTERCEPT WINDOW : 08:14:33**
誰も一秒以上見ない。
そのことが、試験より少し怖い。
アリはまだ光っている二つの結果を見る。
**GUIDE OUTPUT : C-RANGE**
**RECIPROCAL FIDELITY : OUTLIER**
オリンがアリを見る。
「全員が同時に喋ったときでも、『聞く』ことが武器になるか確かめよう」
扉が開く。
十の鼓動が意識の縁へ押し寄せた。
アリは一つずつ拾う。
ソレン。
ジョリン。
ブラム。
ダイン。
レン。
ケイド。
トーマ。
イラン。
オリン。
マレク。
世界は作らない。
イリアもいない。
最小深度。
アリは相互経路を一本ずつ開いた。
二。
四。
六。
メラが波形を見る。
「保持」
保持する。
八。
普通なら、ここで信号は濁るはずだった。
逆に、一人ずつの返りが鋭くなる。
メラが画面へ寄る。
「……おかしい」
十。
表示が更新される。
**ACTIVE DYADS : 10**
**GUIDE OUTPUT : C-RANGE**
**RECIPROCAL FIDELITY : RISING**
四行目が追加された。
**LOAD MODEL : INVALID**
実測予備力は下がり続けている。
壊れたのは予測欄だけ。
メラの声が鋭くなる。
「無効なのはコストモデル。センサーは生きてる。予測不能を『続けていい』と読み替えないで」
誰も喋らない。
背後では帝国伝令艦の迎撃時計が減り続けている。
初めてだった。
アリより先に、機械のほうが音を上げた。




