第七話 同じ身体、違う触れ方
ブラムは十一時間、深層ボンドを拒否した。
オリンは十時間、何も言わなかった。
十一時間目に、ブラムの回復グラフを共用室の壁へ出した。
説明なし。
三本の線は正常に下がっている。
四本は下がっていない。
アリにも悪い線が分かるようになっていた。
脅威識別が不安定。
報酬回復は、アリがブラムの意識へ入るだけでまた上がる。
身体はもう部屋を破壊しようとはしていない。
代わりに静かな学習が残った。
《新しいガイドは、安堵であり、危険でもある》
ブラムが壁を見る。
「消せ」
オリンはスープを飲む。
「嫌だ」
「動ける」
「アリが洗面所の前を通っただけで、扉のラッチを潰した」
「粗悪品だった」
ダインが作動器から顔も上げず言う。
「耐圧扉用」
ブラムが睨む。
ダインはネジを回した。
ソレンが戦術壁の前に立つ。
「明日、配備評価だ。ガイド脅威ループを残したまま入るな」
ブラムの目がアリへ向く。
まただ。
判断より先に身体が認識する。
防御的で、同時に所有的。
「こいつは俺のガイドじゃない」
誰も即答しなかった。
アリが言う。
「よかった」
ブラムが眉をひそめる。
「私も、まだどうやればいいか知らないから。でも構造材を食べるのを止めるくらいはできるらしい」
トーマが手で口を覆った。
ソレンが見る。
「建築的な懸念だ」
ブラムは無視した。
「ボンド・ライフはしない」
オリンがグラフを指す。
「ならこれは残る」
「薬を使え」
「鎮静剤では、おまえの神経に『アリは生存可能な相手だ』と学習させられない」
「好きになる必要はない」
「その通り。おまえを生かしている人間を、競合捕食者として扱わなければいい」
沈黙。
ブラムはアリを見る。
「俺の場所、嫌いだと思うぞ」
「外のあなたも特に好きじゃない。公平ね」
ジョリンが変な声で笑いを殺した。
ブラムの口元がほんの少し動く。
すぐ消えた。
「……いい」
*
個室へは行かなかった。
それがアリには意外だった。
共用室に椅子を二脚、三メートル離して置く。
ブラムが一脚。
アリが一脚。
ケイドが壁際で、アリの手首の接続点へ監視線をつなぐ。
ソレンは扉。
他は退室命令。
ほとんどは従った。
トーマだけ二度言われた。
オリンが最後の線を接続する。
「物理的な個室は意味がない。構造は二者間。俺たちは身体は見られるが、中身は見られない。後でどちらかが話さない限り」
「安心した」
「安心させるために言ってない」
ブラムが椅子へ背を預ける。
アリは言った。
「ルール一つ」
「朝も演説を聞いた」
「短い。私はアリのまま」
ブラムの目が固くなる。
「あなたの世界が、イリアを覚えてる服を着せてもいい。髪型を変えても、香りを乗せてもいい。でも顔は私のまま。私自身にイリアだと思わせようとしたら、出る」
ブラムが先に目を逸らした。
「あいつじゃないことは知ってる」
怒りがあるぶん、優しい言い方より信じられた。
アリは絆を開いた。
共用室が消える。
雨がコンクリートを打っていた。
壊れた駅。
黒い空。
非常灯が赤く点滅している。
ホームの向こうで、巨大な何かが呼吸していた。
アリは自分を見る。
知らない黒い突入用ジャケット。
腰へ沿い、肩だけ厚い。
短い髪はない。
重い黒髪が一本の長い編み込みになり、肩へ落ちている。
口の中に柑橘の苦み。
襟には杉、金属、奥に花の香り。
アリではない。
でも、完全なイリアでもない。
死んだ時刻表の黒いガラスに映るのは、自分の顔だった。
顔だけを残して、周囲全部を遺品で組んだみたいだった。
編み髪へ触れる。
「触るな」
背後。
振り返る。
ブラムは人間ではなかった。
現実の身体も戦争用に大きい。
ここでは、それすら抑制形に見える。
灰黒の狼獣。
二本脚。
駅の扉より高い。
肩に粗い毛と傷。
手は黒い鉤爪。
頭部は狼に似ているが、獣ではない。
目はブラム。
表情もブラム。
見られたことに腹を立てている。
アリは上から下まで見る。
「そこは先に教えてほしかった」
「なぜ」
「外では、だいたい機嫌の悪い壁だから」
三歩で距離を詰める。
世界が彼に反応する。
雨が強くなる。
赤い光が鋭くなる。
細部が増えるたび、負荷が上がる。
ブラムが近くで止まる。
息で濡れた編み髪が動いた。
「真っすぐ立て」
アリは動かない。
「ここで、あいつは真っすぐ立ってた」
そこだ。
ブラムからアリへの命令ではない。
代用品へ向けた修正。
その違いが分かったから、余計に嫌だった。
「なら、イリアが立ってたことを覚えてればいい」
鉤爪が頭の横の壁へ突き刺さる。
コンクリートが割れる。
現実の身体には触れていない。
分かっている。
神経は分かってくれない。
脅威は脅威として届く。
心拍が上がる。
遠い現実で、手首の銀点が熱い。
ブラムが覗き込む。
「あいつは怯まなかった」
「あなたの性格に何年も慣れてたからじゃない?」
歯が見える。
「間が違う」
「は?」
「もっと短く言った」
駅が変わる。
襟が締まり、編み髪が背中へ移る。
柑橘の香りが強くなる。
また周囲を書き換えている。
「ブラム」
「違う」
「私の声よ」
「違う」
彼が欲しいのは音ではない。
イリアが怒りへ触れたときの間。
姿勢。
長年「ここで下ろしていい」と教えた角度。
アリには、真似できる。
身体が断片を知っている。
それが怖い。
「嫌」
駅の照明が全部消えた。
雨とブラムの呼吸だけになる。
壁を殴る。
アリではない。
それでも壁が崩れ、精神負荷が目の奥へ刺さる。
遠くで機械音。
オリンの声。
「負荷上昇」
ブラムには外が聞こえない。
「助けるんだろ」
「助けてる」
「なら正しくやれ」
「イリアみたいに?」
沈黙が答えだった。
アリは初めて理解する。
巨大な狼の姿なんて、怖いものの中では軽いほうだ。
本当に危険なのは、世界を一つ作れるほどの機械を与えられた悲しみ。
「イリアは返せない」
ブラムがジャケットの胸元をつかむ。
幻想の身体が持ち上がる。
現実の喉は無傷。
それでも恐怖は本物。
世界が揺れる。
「頼んでない」
「イリアの服を着せてる」
爪が締まる。
「あいつじゃないって知ってる」
「なら、証明するたび私を罰するのやめて」
全部が止まった。
雨さえ半拍、空中に残った。
ブラムがアリを下ろす。
鉤爪が開く。
足がホームへつく。
狼獣は背を向けた。
声が低くなる。
「あいつは、突入の後ここへ連れてきた」
アリは駅を見る。
「これが落ち着く場所?」
「最初はもっと酷かった。あいつが直した」
少し笑いそうになる。
「何をしたの?」
肩が上下する。
「いた」
その一語のほうが、彼が壊した全部より重かった。
アリは赤い照明を少し暗くした。
ジャケットは変えない。
編み髪も。
まだ。
ただ濡れたホームへ座る。
イリアの服を着た、アリの顔で。
しばらくして、巨大な狼も隣へ座った。
何も話さない。
負荷が十二パーセント落ちた。
外でオリンが驚いて数字を読む声がした。
ブラムにもアリ経由で聞こえたらしい。
耳が伏せる。
「その顔やめろ」
「どの顔?」
「何か分かった顔」
「嵐の駅で座るのが好きなんだって分かった」
「何も分かってない」
「順調ね」
世界が切れた。
共用室が一気に戻る。
アリは息を飲んだ。
同じ椅子。
ブラムも同じ椅子。
十一分。
シャツが冷たい汗で背中へ張りついている。
鼻から血が一筋。
オリンが布を持ってくる。
先に立ったのはブラムだった。
安定している。
そして、今の十一分全部を後悔していそうな顔。
「言うなよ」
「狼のこと?」
頭が跳ね上がる。
ケイドが監視画面から顔を上げた。
ブラムがアリを指す。
「特にそれだ」
出ていく。
扉が閉まる。
オリンが負荷線を見る。
「一人にしては高い」
「難しい午前だったから」
「午後だ」
「それなら納得」
ケイドがアリを見ていた。
「何?」
「もう一度やれ」
「嫌」
「それじゃない」
彼はオリンの端末を引き寄せ、二本の波形を拡大した。
最初の波形。
幅が広い。
重い。
乱れている。
「医療観察前」
次。
細い。
精密。
「今」
アリは見る。
「私の?」
「おまえの身体の」
その言い方が引っかかる。
ケイドは気づいた。
「以前のアリ・ヴェイは、ハルシオンと三回、監督下の統合をしている」
顔を動かさないようにする。
「PRIVATEも?」
「二回」
「誰と?」
答えない。
それでいい。
少なくとも、アリが目覚める前にもプライバシーは存在していた。
オリンが近づく。
ケイドが最初の波形を指す。
「以前の接触」
胃が締まる。
「以前の私」
ソレンの視線が鋭くなる。
ケイドは訂正しない。
オリンが二本目を拡大する。
「ブラムの安定化」
同じ身体の波形には見えない。
アリは、自分が知らない人間の身体へ入ったと言わずに済む説明を探す。
「強いショックで人は変わる」
「変わる」
オリン。
ケイド。
「こうは変わらない」
一枚目を指す。
「以前のアリは押した。大入力。遅い補正。返りをほとんど使っていない」
二枚目。
「おまえは小さい入力で、ずっと補正してる。二回外したが、どちらも手順じゃなくブラムの反応に合わせた」
「いいこと?」
「現行の階級測定では非効率と判定される」
「もちろん」
オリンがわずかに笑いそうになる。
ケイドは笑わない。
ソレンが訊く。
「何が言いたい」
「まだ何も」
「なら、そういう声で言うな」
ケイドは無視する。
「同じ神経設備。同じボンド構造。触れ方だけが違う」
アリは腕を組む。
「前が下手だっただけじゃない?」
「下手だった」
即答されて驚く。
ケイドは続ける。
「記録のアリは押す。今のおまえは、聞く」
オリンが付け足す。
「技術的には押しすぎ、引きすぎ、倒れかける」
「それでも聞いている」
ソレンが一歩だけケイドの視線を遮った。
「医療的に不安定だ。尋問は寝かせてからにしろ」
ケイドの目がソレンへ移る。
「守るんだ」
「作戦資産を、おまえの性格から守ってる」
ジョリンが笑った。
「同じ意味を格好よく言っただけだな」
ダインがいつの間にか栄養パックを持ってアリの横にいる。
「食べろ」
受け取る。
「みんな、感情問題を食べ物で解決するの?」
「違う」
ダインが少し考える。
「工具のときもある」
*
後で、医療区画から出たとき。
空になった栄養パックを片手に、アリは廊下へ出る。
ケイドが待っていた。
当然のように。
「寝たら?」
「おまえも」
「なら非効率な会話ね」
彼は横へずれる。
アリが通る。
背後から声。
「身体は、アリ・ヴェイだ」
足が止まる。
ケイドは近づかない。
「記録もアリ・ヴェイ。ボンド登録もアリ・ヴェイ」
包装材を握る指が締まる。
ケイドが、ごく静かに訊いた。
「じゃあ、おまえは誰だ?」
口を開く。
何も出ない。
ケイドより、その答えのなさが怖かった。
---




