第六話 C級の手
ブラムの内側について、アリが最初に学んだことがある。
牙がある。
絆が開いた。
最初に来たのは痛み。
アリは慎重に触れる。
室内の光は変わらない。
音もない。
精神世界も開かない。
ただ、ブラムがわずかに身を引いた。
彼自身の鎮痛反応を、ほんの少しだけ上げる。
変化がアリへ返ってきた。
掌が温かい。
驚いて離れそうになる。
痛みそのものを受け取ったのではない。
「何をしたか」が反響している。
相互。
身体の奥から言葉が浮いた。
《レシプロカル》。相互帰還。
オリンの読取器が鳴る。
「痛覚が動いた」
ソレンはブラムから目を離さない。
「アリ?」
「私」
「もう一度できるか」
「たぶん」
ブラムが歯を見せる。
「俺の頭から出ろ」
「頭には入ってない」
「素晴らしい違いだ」
怒りは熱いまま。
アリは触らない。
その下に恐怖。
ブラムの身体は、恐怖を誰にも見せる前に前進へ変えることを覚えている。
アリはパニック経路へ触れた。
強すぎた。
攻撃性が跳ね上がる。
マレクの銃が上がる。
アリは即座に離した。
「何をした」
オリン。
「悪化させた」
「有益な報告だ」
ブラムが息を切らして笑う。
「最高のガイドだな」
その悪口が役に立った。
怒りだけの線が綺麗に見えたから。
恐怖と分ける。
もう一度。
今度は少なく。
パニックだけを薄く落とす。
ブラムの次の呼吸が肺の底まで入った。
アドレナリン。
全部は消さない。
立っているには必要だ。
ブラムでいるにも必要だ。
ピークだけ削る。
心拍が恐怖を作る。
恐怖が攻撃を要求する。
攻撃が報酬を出す。
行動すれば楽になると身体が学ぶ。
そこ。
報酬。
危険な蝶番。
ブラムの神経は、暴力的な解決を思いつくたび自分へ褒美を与え始めている。
アリは報酬の行き先をずらした。
殴ることから、一歩。
動かずに耐えることへ、一歩。
壁を潰していた指が止まった。
金属が一度鳴り、それきり。
オリンの機器が速く鳴る。
「一五二。一四七」
別の線を見る。
「今ならリリース調整が効く。さっきじゃない。今だ」
朝食の話を思い出す。
十人が水分補給みたいに話していたこと。
ブラムにも聞こえている。
目を一秒閉じた。
「やれ」
誰も目を逸らさなかった。
それが、この世界のことを説明していた。
アリは報酬経路をたどり、自律神経の閾値へ触れた。
そこに幻想はない。
イリアの姿もない。
ただ身体が持つ一つの仕組み。
押す。
ブラムの呼吸が途切れた。
全身の筋肉が一拍だけ固まり、一斉に解ける。
その生化学的な戻りが、温かい白い波となってアリへ返る。
エンドルフィン。
オキシトシン。
ドーパミン。
高いところから平衡へ落ちていく。
数秒。
終わる。
ブラムは壁へ寄りかかり、床へ悪態をついた。
トーマが小声で訊く。
「楽になった?」
ブラムが顔も上げず中指を一本立てる。
「有望だ」
オリン。
「一三八」
全員に見えていた。
でも、私的ではなかった。
ブラムが屈辱を感じているのは別の理由だ。
楽になった経路が、アリを通ったから。
ケイドが目を開く。
トーマが息を吐く。
マレクはまだ銃を下ろさない。
アリの脈もブラムにつられて下がり始めた。
部屋が少し傾く。
無視する。
もっと深いところに《信頼》がある。
そこだけは怖かった。
痛みは痛みとして扱える。
アドレナリンには数字がある。
攻撃性には方向がある。
報酬には行動がある。
信頼は、人格へ触れる。
ブラムがためらいを感じる。
「やるな」
声が急に明瞭になった。
「何を?」
「分かってるだろ」
分かっていた。
信頼の隣には愛着がある。
化学的には近すぎる。
中立だと言い張れない。
「触らない」
アリはそこから離れた。
なのに絆が勝手に返した。
数分間、ブラムの神経へ「アリ経由で安堵が来る」と教えてしまった。
その回路は隣へ漏れる。
アリの脳がブラムへ価値をつけた。
生かせ。
近くに置け。
二つ目の衝動のほうが怖い。
これは恋じゃない。
信頼より先に報酬が来ただけ。
アリが内側で後退する。
ブラムも現実で後退した。
「何をした」
「何も」
目が固くなる。
「だから問題なんだ」
羞恥が流れる。
落ち着かされたからではない。
双方が《嫌だ》と言ったあとで、身体の一部が答えてしまったから。
朝決めたルールが、理屈ではなくなった。
ここで怒りまで消せば、安堵を服従へ使うことになる。
自分だけを安全源にすれば、境界を越える。
だからアリは、ブラムを「扱いやすい人間」にするのをやめた。
与えるのは少しだけ。
痛みは、刺激そのものが敵にならない程度。
パニックは、部屋と脅威を区別できる程度。
アドレナリンは、ループが切れる程度。
報酬は、衝撃ではなく静止へ。
信頼は触らない。
愛着も。
ソレン、ダイン、ケイド、オリン。
嫌な銃を持っているマレク。
そこへ向かう経路は、アリが作ったものではない。
簡単に強めることはできる。
でもブラムは、そこも触るなと言った。
「ソレン」
アリは不安定な経路だけを見ながら言う。
「話して。あなたの声で」
ソレンは一度だけアリを見る。
理解した。
「ブラム。左壁。冷却リレー。あの音は知ってる」
ブラムの目が動く。
「知ってる」
「なら俺を見ろ」
反応は、アリが作っていない関係を通って返ってきた。
アリはブラムの家族に属する部分を、家族へ任せる。
怒りは残した。
ブラムには、怒っている権利がある。
肩が一センチ落ちた。
さらに一センチ。
皮膚の下の異常な形が戻っていく。
マレクの銃口が胸から床へ下がる。
オリン。
「一三六」
ブラムはアリを見る。
「出ていけ」
アリは接続を切った。
経路が圧力へ戻る。
膝から力が抜けた。
ジョリンが最初に動く。
でも触れる直前で止まった。
「触っていい?」
数分間、他人の無意識へ入っていたあとだ。
その質問は痛いほど鮮明だった。
アリは頷く。
ジョリンが片腕を支える。
別の身体。
別の信号。
それでも接触で頭の中の音が倍になる。
「多い……」
ジョリンは即座に手を離し、倒れたら拾える距離だけ残る。
ダインが栄養液を持ってきた。
封を切り、口へ運ばずアリの手へ置く。
袋が指の間から滑った。
膝で受け止める。
もう一度。
親指が首の細い部分をうまくつかめない。
ダインはしゃがみ、アリの手を包まず、袋の底だけを支えた。
「持てる」
彼は待った。
袋がまた沈む。
「……一部は」
ダインは底だけを持ったままにした。
アリは自分の手で飲んだ。
向こうではブラムが血の滲む包帯を自分でほどいている。
彼の手はもう水を持てる。
自分の手は、まだ持てない。
オリンがしゃがむ。
「動くな」
「今日そればっかり言われる」
「重力との関係が悪いからだ」
向こうでブラムは自分のリズムで呼吸している。
疲れ切っている。
まだ怒っている。
よかった。
アリは彼を消していない。
ブラムが血の滲む手を開閉した。
「次は、何に触るか先に聞け」
ソレンが二人の間へ入る。
アリは顔を上げる。
「分かった」
その同意のほうが、言い訳よりブラムには戦いにくいらしい。
「次が来る前に、触られたくない場所を決めて」
ブラムは包帯を見る。
答えない。
オリンの読取器が違う音を出した。
眉が寄る。
もう一度見る。
レンが通信卓を離れる。
トーマが身を乗り出す。
ダインが止まる。
イランの笑みも消える。
アリからは数字が見えない。
「何?」
ソレン。
オリンが画面を外へ向けた。
**GUIDE OUTPUT : C-RANGE**
一度もC級の上限を越えていない。
隠れた出力もない。
覚醒もない。
今起きたことを力押しで説明できる数値は、どこにもない。
ブラムが苦く笑った。
「壊れてる」
オリンは再測定した。
「違う」
アリを見る。
医師の顔が、完全に静かになった。
「数字は正しい」
十人が、C級という表示とアリを見比べる。
計器が正しいなら。
今、自分たちが何を見たのか。
誰にも分からなかった。




