第四話 彼らは私を望んでいない
ソレンが最初に教えたルールは、一番怖いものだった。
「絆は、おまえに支配力を与える」
共用室。
アリはソファの端へ座り、イリアのスレートを膝に載せている。
ハルシオンの大半が、偶然を装って周囲に残っていた。
ケイドは二つの出口を同時に見られる角。
レンは通信卓で何かを直すふり。
イランは反対側のソファ。
トーマは窓と扉の間を往復。
ダインは分解した作動器へ工具を入れながら、一言も聞き逃していない。
ブラムは廊下。
マレクはもっと遠い。
ジョリンはアリに一番近い壁へ寄りかかっている。近いことを選んだようには見せない。
オリンは医療卓で注射器を並べていた。
ソレンは続ける。
「だが、支配力は許可じゃない」
アリは彼を見る。
「何を支配できるの?」
「戦闘時、フューリーは必要な状態か目的をガイドへ与える。ガイドはコンコードを、その目的を実行できる状態にする」
冷たい断片が頭を横切った。
上げられる手。
二本指。
十二の身体が一斉に振り返る。
つかもうとすると消えた。
「命令を受けるのはあなたたちじゃない?」
「情報は受ける。だがガイダンスは、その情報に神経がどう反応するかを変える」
ソレンの声は平坦だった。
「恐怖。攻撃性。痛み。注意。報酬。集団同調。武器へ触れずに、ガイドは全部へ手を入れられる」
アリは、隔壁をへこませたブラムの手を思い出した。
「じゃあ、フューリーが『持ちこたえろ』って言えば……」
ソレンの表情は動かない。
「ガイドは、持ちこたえられる身体にする」
他の男たちは反応しない。
彼らには普通の話なのだ。
その事実が一番怖い。
「戦闘以外は?」
「手順。合意。医療上の必要。緊急権限。条件が違う」
オリンが注射器から顔を上げた。
「だから、誰かへ触れる前に覚えるべきことがある」
「安心する言い方ね」
「努力している」
彼はケースを閉じた。
「調整は速い。痛覚遮断。交感神経制御。報酬放出。パニック抑制。攻撃性調節。相手の体内にすでにある化学反応を動かして、戻りを見る」
アリはトーマを見る。
「朝食の話も?」
トーマがオリンを指す。
「こいつが変な説明をした」
「生物学が変なんだ」
「格納庫にも責任がある」
ダインが作業したまま言う。
「格納庫には弁護士をつけた」
トーマが歩き出した。
アリはオリンへ戻る。
「PRIVATEは、それとは違う?」
部屋が静まった。
「《ボンド・ライフ》だ」
「だから何?」
「一人のガイドと一人のセンチネルの間に維持される、継続的な精神構造。化学反応を一度調整するだけじゃない。関係そのものが場所になる」
「台所……」
言葉が勝手に出た。
ジョリンが壁から身体を起こした。
ケイドの視線が鋭くなる。
「何の台所だ」
雨。
カップ。
男の両手。
消える。
「分からない」
誰も喋らない。
オリンの目だけが医師のものになる。
「中では何ができるの?」
「二つの神経系が安定して維持できるものなら、ほぼ何でも。部屋。景色。記憶。外の身体とは違う姿。成熟した絆には、近道や習慣ができる」
「幻覚?」
「違う」
ケイドが答えた。
アリは彼を見る。
「何が違うの?」
「幻覚は、別の神経系がなくても成立する」
「見た目も変わる?」
「変わる」
「服も?」
「変わる」
「香りも?」
「変わる」
「声は?」
「話し方。間。よく使う言葉」
「……性行為も?」
「場合による」
オリン。
「朝食のリリース調整は?」
「保守。PRIVATEは、私的領域だ」
十人を見る。
十の扉。
「イリアは一人ずつ別に持ってた」
ジョリンが頷く。
「互いの場所は見えない?」
「招かれなければ」
ソレン。
その瞬間、《TEN IS NOT ONE》が予定表ではなくなった。
十は、一ではない。
アリは親指で手書きの文字を撫でた。
「C級のガイドって、深いボンドを何人まで維持できるの?」
オリンが一拍黙る。
嫌な間だった。
「悪条件なら三人。通常の実用上限は四。効率がよく、センチネル側が協力的なら五」
アリは数えた。
十。
レンが言う。
「こっちも数えられる」
「イリアは?」
誰もすぐには答えない。
オリンが答えた。
「SSS級」
C。
自分の部屋に表示されていた一文字が、妙に鮮明に蘇る。
「それで、あなたたち十人と私が組めって?」
ソレンが言う。
「十人が作戦行動可能でいろ、というのが軍の要求だ」
「質問と違う」
「軍の答えはそれだ」
遠くでマレクが笑う。
乾いていた。
「歓迎品だな」
アリはオリンを見る。
「協力的じゃなかったら?」
「抵抗する神経は、毎回同じ平衡へ戻すのに余計なコストがかかる。成熟した絆は少ない入力で戻る。敵対的な絆は、何度も探し直さなきゃならない」
「嫌われてると、高くつく」
「そうだ」
廊下からブラム。
「よかったな」
オリンは無視した。
「イリアとおまえたちの経路は成熟していた。アリのは違う。しかもイリアなら力で吸収できた非効率を、C級は吸収できない」
「敵意で私が壊れる?」
「あり得る」
「後遺症も?」
一拍。
「あり得る」
ジョリンが壁から離れた。
ブラムは動かない。
アリは十人を見る。
五つの席が消え、イリアの席だけが残っていた朝食卓を思い出す。
「私、愛着を変えられる?」
オリンは答えを丸めなかった。
「できる」
「欲望は?」
「関与する神経化学へ影響できる」
「信頼は?」
「できる」
「腹が立つ人を、私が嫌だから落ち着かせるとか?」
「できる」
部屋が完全に止まった。
アリはソレンを見る。
「それ、合法?」
「許可された作戦条件なら。フューリーは戦闘状態を命じられる。医療は緊急調整を許可できる」
ソレンの目が冷たくなる。
「だからといって、俺たちの神経がおまえの私物になるわけじゃない」
アリは一度、十人を見回した。
「じゃあ、私のルールも決める」
ソレンの眉がほんの少し動く。
「言え」
「邪魔だからって神経を触らない。口論に勝つために絆を使わない。報酬、愛着、信頼、欲望は、緊急時か、明確な合意があるときだけ」
一度息を吸う。
「合意そのものを作らない」
トーマが指を上げた。
「確認。これでオリンは診察を楽しく感じさせることが禁止に?」
「俺は一度もおまえに楽しさを与えたことがない」
「証拠がない」
アリは続ける。
「それから、PRIVATEで私の見た目を変えられるとしても、誰かが楽だからってイリアにはならない」
最初に動いたのはマレクの悲しみ。
次にブラムの怒り。
レンが固まる。
ケイドが部屋を見るのをやめて、アリだけを見る。
ジョリンは目を伏せた。
ソレンだけが言った。
「同意する」
ブラムが笑う。
嫌な音だった。
「訊けば綺麗になると思ってる」
アリは彼を見る。
「思ってない。訊けば、少しだけ汚くなくなると思ってる」
トーマが歩くのを止めた。
イランが一瞬、本当に笑った。
ブラムが壁から離れる。
「俺たちに手伝わせて、おまえがあいつになるつもりか?」
アリはスレートを見る。
五つの黒。
十の生存。
「違う」
顔を上げた。
「私は、イリアにはならない」
ブラムの怒りが一度だけ強くなった。
マレクは何も言わなかった。
誰も返せなかった。
ダインの工具だけが小さく鳴った。
数秒後、レンが沈黙を壊す。
「ジョリンとは、他より長く話している」
全員が彼を見る。
レンの耳が赤くなる。
「分布を記録している」
ジョリンが笑う。
「注意力に表をつけるタイプ」
「データだ」
「嫉妬データ」
レンは工具を卓へ置いた。
妙に丁寧に。
「彼女の時間が俺の配備可否に関係するなら、いつか表の価値が分かる」
ジョリンの笑みが少し薄くなる。
「俺がアリを独占してるわけじゃない」
「そんなことは言ってない。だから記録してる」
オリンが顔を上げる。
「おまえたち、診療予定を恋愛競技にしたら殺すぞ」
ジョリン。
「ほら、関係構築」
アリは思わず笑った。
自分の笑い声に、自分が一番驚いた。
数秒だけ、ハルシオンは普通の家みたいになった。
*
ジョリンが居住区を案内した。
訓練室。
医療区画。
整備室。
装備庫。
狭い調理室。
共用区画の一番奥に、黒い追悼壁。
名前が刻まれている。
「以前のコンコード?」
ジョリンが頷く。
「退役後はどこへ行ったの?」
彼は答えなかった。
後ろからソレン。
「退役後はない」
アリは続きを待った。
ない。
オリンが追いつく。
「ガイド負荷は蓄積する。センチネルの過剰強化も蓄積する。一つのコンコードは、ばらつきはあっても、一緒に劣化していく」
「退役制度は?」
トーマが変な声を出す。
「何に退役するんだ。動かない椅子?」
ダインが整備台から言う。
「四時間で壊す」
「動く椅子なら五時間」
ジョリンは追悼壁へ二本指を触れた。
「家族。仕事。寿命。全部、同じ構造だ」
床から消えた五脚。
残された一脚。
マレクがあの席を動かさなかった理由だけは、少し分かった。
それでも、彼の言葉が優しくなるわけではない。
レンが訊く。
「どこまで感じる?」
「レン」
ソレン。
「必要な情報だ」
ジョリンが横から言う。
「自分を感じてるか知りたいだけ」
「人生で一番知りたくない」
「練習したな、その返し」
イラン。
レンがアリを指した。
「答えろ」
アリは目を閉じる。
十の圧力。
薄いもの。
分かりやすいもの。
一つだけ、熱すぎて周囲を歪めるもの。
「方向。強さ。圧力。誰か分かるときもある。思考は読めない」
「誰が怒ってる?」
「ブラム」
速すぎた。
目を開ける。
ブラムが見ていた。
包帯の手が丸まる。
オリンの端末が鳴る。
「やめろ」
ブラムの呼吸が変わった。
トーマが止まる。
ケイドが壁を離れる。
ソレンが一歩だけ近づく。
それ以上は行かない。
絆の熱が上がり、アリの視界の端が白む。
ブラムが扉枠へ背を押しつける。
金属が手の中で鳴る。
「全員、俺を見るな」
誰も動かない。
さらに一センチ、扉枠が曲がる。
アリには怒りの中が見え始めた。
痛み。
恐怖。
攻撃性。
離れたい衝動。
それと同時に、アリを近づけたがっている何か。
別々の経路。
身体が、頭より先に理解する。
ブラムはアリの顔に浮かんだ理解を見た。
初めて、怒りの中に恐怖が混ざった。
「俺の頭へ入るな」
アリは立つ。
「入らない」
手が締まる。
オリンの端末。
「境界を越える」
ソレンが重心を変えた。
ブラムが唸る。
「誰も来るな」
ソレンが止まる。
誰も動かない。
アリだけが一歩進む。
ブラムの目が飛んでくる。
「来るなって言った」
「触らないって言った」
もう一歩。
「何してる」
「待ってる」
「何を」
「あなたを」
「答えになってない」
「今はこれしかない」
アリには、触れる場所だけは分かる。
どう触れれば安全かは分からない。
攻撃性。
痛み。
恐怖。
報酬。
信頼。
全部に届く。
だからこそ、触らない。
ブラムの膝が沈む。
扉枠がさらに潰れる。
オリンが言う。
「あと三十秒このままなら自律制御が落ちる」
アリはブラムから目を離さない。
「聞こえてる?」
「聞こえてる」
「次に何が起きるか分かる?」
「分からない」
その答えに、ブラムが一瞬止まる。
「今日、目を覚ましたばかりだから」
彼の怒りが揺らぐ。
「俺を調整する方法も知らない?」
「知らない」
「C級」
「らしいね」
壊れた笑いが漏れる。
「軍は初心者を寄越したのか」
「そうみたい」
ジョリンが小さな息を飲んだ。
ブラムの呼吸が詰まる。
痛みが絆を打つ。
アリの神経は、そこへ手を伸ばしたがる。
動かない。
ブラムが睨む。
「感じるんだろ」
「うん」
「全部?」
「必要なだけ」
「なのに立ってるだけか」
「触るなって言ったから」
腕が震える。
「止められなかったら?」
「分からない」
「悪化させたら?」
「するかも」
「俺がおまえを傷つけたら?」
アリは、敵対的な絆はガイドを傷つけるという言葉を思い出す。
「傷つくかもね」
ブラムの顔が一瞬、空白になった。
それも怖かったのだろう。
アリは言う。
「でも、あなたが嫌だと言ったら、嫌で終わり」
熱の向きが変わった。
弱くはない。
ただ、恐怖と怒りが同じ方向を向かなくなる。
ブラムはソレンを見る。
オリン。
ジョリン。
最後にアリ。
他の全員は知っている。
イリアなら何をしたか。
それが問題なのだ。
アリは知らない。
ブラムが目を閉じた。
額を曲がった金属へつける。
声は聞き取れないほど小さかった。
「……やれ」




