第三話 十一の席
食卓には十一の席があった。
そして、かつて席があった場所が五つあった。
アリが最初に見つけたのは、そちらだった。
長い卓の床には、後から塞がれた固定穴が五つ並んでいる。
一時的な椅子ではない。
取り外された、恒久席。
十五人のセンチネル。
一人のガイド。
かつて十六人がここで食事をしていた。
今、座っている男は十人。
卓の上座には十一番目の椅子が空いている。
その前に、黒い修復痕のあるカップ。
イリアのカップ。
一時間前まで部屋にあったのに。
誰かが戻したのだ。
アリは入口で止まった。
最初に気づいたのはジョリンだった。
顔を上げる。
絆から温かさ。
アリの肩が勝手に緩む。
今度は起きている最中に気づいた。
分かったところで、侵入感は減らない。
ジョリンも気づいた。
笑わなかった。
助かった。
親切に処理されたら、たぶん耐えられない。
食料台の前にいたダインが、アリを見る。
卓を見る。
イリアの空席を見る。
そして、象徴問題を工学問題として処理することにしたらしい。
壁の保守収納から折り畳み椅子を出した。
醜い。
頑丈。
家具と重力の両方を信用していない人間が設計したような椅子。
ダインは脚を固定し、自分の体重をかけて一度確認し、ジョリンと壁の間へ置いた。
「これはぐらつかない」
アリはイリアの椅子を見る。
ダインも見る。
動かさない。
分かった。
アリの場所は作る。
イリアの場所は奪わない。
「ありがとう」
ダインは一度だけ頷く。
座ると、アリだけ少し低い。
戦術表示も見えにくい。
象徴的な場所ではない。
必要だから家具は出す。
でも、まだ席はない。
今の自分にはちょうどよかった。
ジョリンが自分の椅子を少しだけ寄せる。
肘の空間を作っただけ。
そのまま栄養ゼリーをアリへ押した。
絆が即座に報酬を返す。
胸の奥が温まる。
脈が落ちる。
アリはゼリーを睨んだ。
向かい側の細い顔の男が、それを見ていた。
整然と並べた食器。
黒髪を後ろへ流し、ゼリー、ジョリン、アリの順に目を動かす。
「レン」
ジョリンが小声で教える。
「聞こえてる」
「進歩だね」
レンは不愉快そうな顔をした。
隣の男が、彼のゼリーを一つ奪う。
レンが手首を叩いた。
「それ、俺のだ」
「戦略的に無防備だった」
「おまえの口の中へ?」
「最適回収」
「トーマ」
ソレンの一声。
トーマはゆっくりゼリーを戻した。
レンから目を逸らさない。
アリは危うく笑いそうになった。
向かいでは、廊下で隔壁をへこませた大男が食事へ触れていない。
ブラム。
両手の包帯には、すでに血が滲んでいる。
彼はアリを見ない。
見る必要もない。
敵意が、閉じた扉の向こうの熱みたいに伝わる。
その隣では医療端末を開いたまま食事している男がいた。
「オリン」
ジョリンが言う。
オリンは顔も上げない。
「部屋の実況をするなら有益な情報にしろ」
「彼はベッドサイドマナーがない」
「いくつかある。朝食用がないだけだ」
二席向こうで、イランがカップを上げる。
「優しいやつ、見たことあるよ」
オリンがようやく顔を上げた。
「ない」
「ほら」
アリは目の前のスープを飲んだ。
塩。
油。
ミネラルの苦み。
胃が、もっと重いものを期待している。
オリンがすぐ気づく。
「少量。前処理済み。代謝負荷がまだ高い」
「つまり?」
「消化にもエネルギーは要る」
ダインが栄養ゼリーをもう一つ寄越す。
「無駄に使えるほど残ってない」
「食べると、食べた以上に消耗することがあるの?」
イランがカップを掲げた。
「星間文明。咀嚼はいまだ未解決」
ジョリンが笑う。
絆が温まる。
アリは必死にゼリーの封を開けた。
周囲でハルシオンの生活が再開する。
レンは通信中継器の故障を愚痴り、ダインが壊れた箇所を訂正する。
トーマは違いは哲学的だと言い、イランは中継器側についた。
ソレンは食べながら手首端末を確認。
オリンはブラムを見ずに「左手を握るな」と言う。
ブラムは「喉を詰まらせろ」と返す。
オリンは食事を続けた。
長年一緒に暮らしてきた人間だけが持つ、効率的な喧嘩だった。
アリは床の五つの蓋へ視線を戻す。
「数えるな」
低い声。
マレクだった。
短く刈った黒髪。
広い肩。
表情を無駄にしない顔。
彼の悲しみはブラムの熱とは違う。
深く、重く、ほとんど動かない。
「もう数えた」
マレクの顎が硬くなる。
ソレンがカップを下ろした。
「同じ戦闘で?」
アリは空席を見る。
五人のセンチネル。
一人のガイド。
一度の作戦で、家族から六人が消えた。
頭のどこかに残る戦術図では、ただの赤と黒だった。
ここでは床の金属に塞がれた穴だ。
オリンの端末が鳴る。
空気が横へずれた。
彼はトーマを見る。
「十九時間遅延」
トーマは食べ続ける。
「何が?」
「分かってるだろ」
「感情的回復に忙しかった」
「整備艇で四十分、同じ場所を周回していた。格納庫が自分を評価していると言って」
「してた」
オリンは端末をソレンへ向けた。
「報酬系飽和上昇。アドレナリン回復遅延。訓練前にリリース調整」
アリはスープを気管へ入れた。
咳き込む。
十人が一斉に見る。
トーマが眉をひそめる。
「何?」
「リリース……調整?」
オリンの顔には、重力の説明を求められたような疲れが浮かんだ。
「ガイドによる自律神経リセット。エンドルフィンと報酬系を短時間で放出させ、その後の反動を監視する。多くの場合、オーガズム反応を伴う」
アリの咳が止まった。
他の誰も恥ずかしそうではない。
トーマだけ別の意味で嫌そうな顔をする。
「朝食中に言うな」
「朝食中にやるとは言っていない」
「俺にも品位がある」
「議論の余地あり」
ダインが言った。
ジョリンがカップで笑いを隠す。
アリはオリンを見る。
「私が、それを?」
「できる」
「触らずに?」
「必要ない」
「じゃあ……」
言葉が止まる。
トーマが身を乗り出した。
「非常に興味深い」
「食べろ」
ソレン。
トーマは座り直した。
「それが普通なの?」
「保守だ」
オリンの一言が、記憶のどこかへ引っかかった。
アリはスレートを見る。
各センチネルの名前に三つの項目。
**REG**
**BOND**
**PRIVATE**
「じゃあ、この《PRIVATE》は?」
食卓が変わった。
ジョリンの笑みが消える。
ソレンが完全に静止する。
ケイドが手首端末から顔を上げる。
ブラムまでアリを見る。
マレクの視線も上がる。
オリンは医療端末を閉じた。
「保守ではない」
「それは分かった」
「私的なボンド・ライフだ」
「意味は?」
「朝食向きではない」
ソレンが言う。
アリの頭の中で、雨が窓を打った。
消える。
雪。
消える。
黒い水。
手がスレートを強く握る。
十の生きた名前。
全部に同じ表示。
**PRIVATE**
「イリアは、あなたたち全員と持ってた?」
「最後は十人」
オリン。
アリは床の五つを見る。
「その前は十五」
誰も答えない。
マレクだけが言った。
「おまえのものじゃない」
「私的領域が?」
「何もかもだ」
ジョリンが動きかける。
アリには、彼が庇おうとした衝動まで分かった。
でも彼は止まった。
マレクに怒る権利を残した。
そのほうが、庇われるより少しだけ信頼できた。
会話はやがて戻った。
小さな喧嘩。
古い習慣。
ダインはマレクのスープを勝手に足す。
オリンはブラムの手を見る。
トーマは人の食事を盗み、脅されて返す。
ソレンは、全員を見ていないふりをしながら全員を確認している。
アリは見ていた。
彼らは、家族と兵站の違いがなくなるほど互いの癖を知っている。
ハルシオンは、生きていくためのほとんどすべてにアリを必要としていない。
必要なのは、一歩間違えば彼らを殺す部分だけ。
「家族の食卓だぞ」
レンがトーマを睨みながら言った。
アリの耳には一語だけ残る。
家族。
誰も説明しない。
必要がないからだ。
マレクが立ち上がった。
部屋が静かになる。
彼はアリではなく、イリアの椅子を見る。
「そこは空けておけ」
アリは頷いた。
「座るつもりはない」
「それで褒められると思うな」
言葉の残酷さより、その裏の悲しみのほうが痛かった。
マレクは出ていく。
ダインは閉まった扉を一秒だけ見た。
そしてマレクの食べかけの器を取り、蓋をし、印をつけ、保温庫へ入れる。
カップも元の位置へ戻した。
アリは訊いた。
「いつも戻って食べるの?」
ダインは保温庫から目を離さない。
「だいたい」
安心させる言葉は付かなかった。
アリは卓を見渡した。
取り外された五脚。
残されたイリアの一脚。
戻ってくるかもしれないマレクの一脚。
保守倉庫から借りた自分の一脚。
ハルシオンには、欠け方ごとに別の家具がある。
アリはスレートへ目を落とす。
十の生きた名前。
その横に全部、
**PRIVATE**
イリアが開いた十の扉。
アリにも開けるらしい十の扉。
でも、スレートのどこにも書いていない。
彼らが、それを望んでいるとは。
顔を上げる。
卓の向こうで、ソレンがすでにアリを見ていた。




