第二話 代替統合
アリ・ヴェイが死んだ女から最初に受け継いだものは、十の鼓動だった。
目を覚ましたとき、知らない誰かの手が毛布を握りしめていた。
自分の手だった。
数秒だけ、存在しない窓に雨が打ちつける音がした。
白い草原を渡る風。
頬に触れる雪。
黒い水。
断片はすぐに千切れ、代わりに十の生きた圧力だけが意識の縁に残った。
アリは勢いよく起き上がった。
頭がぐらりと揺れる。
狭い金属製の部屋。
寝台が一つ。机が一つ。開いた収納棚。
棚には、黒い樹脂で修復されたカップが置かれている。
自分の呼吸だけがやけに大きい。
十の鼓動は消えない。
一つは固く制御されている。
一つは落ち着きがない。
一つは、悲しみというものに重さがあるならこうだろう、というほど重い。
一つは熱すぎて、理由も分からないままアリの指が毛布をつかんだ。
自分の心臓を足せば十一。
壁面表示が点灯する。
**GUIDE : ARI VEY**
**CONCORD : HALCYON**
**RANK : C**
**BOND STATUS : ACTIVE**
**HOUSEHOLD STATUS : REPLACEMENT INTEGRATION**
アリは《ACTIVE》を見た。
次に《REPLACEMENT》を見る。
「アリ・ヴェイ」
声に出してみた。
名前は、空洞へぴたりとはまった。
その先がない。
言葉は分かる。
軍用端末の意味も分かる。
脱水時の金属っぽい舌の味も知っている。
両手首に並ぶ銀色の接続痕が何のためにあるかも分かる。
でも、いつ埋め込まれたのかは思い出せない。
昨夜どこで寝たのか。
自分が何を好きだったのか。
自分の顔すら。
収納棚横の鏡が教えてくれた。
短い黒髪。
白い肌。
接続環を外したばかりらしい喉の痣。
二十代に見える女の顔が、アリの恐怖を寸分違わず真似している。
片手を上げる。
鏡の女も上げた。
「最高」
もちろん、最悪という意味だった。
収納棚には、自分には肩幅の広すぎる野戦上着が掛かっている。
修復されたカップの横には、小さな香水瓶。
杉。
柑橘。
その下に青い青葉のような香り。
その隣に、金属製の認識票があった。
**IRIA SORN**
**GUIDE / CONCORD HALCYON**
**STATUS : KILLED IN ACTION**
アリはもう一度、壁の《代替統合》を見る。
死んだ女には名前があった。
この部屋は、彼女の部屋だった。
カップの下から薄い整備用スレートを見つける。
起動。
十五人の名前。
五つが黒い。
**DECEASED / BOND CLOSED**
十人が有効。
アリは数えた。
次に、自分の内側にある圧力を数える。
十。
一覧の一番下に、システム入力ではない手書きの文字があった。
**TEN IS NOT ONE.**
十は、一ではない。
アリは二度読んだ。
ノック。
十のうち一つが近づく。
扉が開くより先に、肩の力が抜けた。
それが気持ち悪くて、アリはすぐに背筋を固めた。
「入っていい?」
知っている声だった。
一度も聞いたことがないのに。
扉から男が顔を出す。
黒髪。片頬に傷。
裸の片手に朝食用のパック。
アリと目が合った瞬間、男は止まった。
内側の温かさが強くなる。
アリの脈が勝手に落ち着く。
知らない男を見て嬉しい、と身体だけが反応した。
男の顔が変わった。
彼にも伝わったのだ。
一拍。
男は、意識して一歩下がった。
距離をくれた。
「ジョリン・ペル。職業、感じのいい同僚」
スレートの一覧で名前が光る。
**JORYN PELL - ACTIVE / PRIVATE**
「アリ・ヴェイ。らしいわ」
彼の軽い表情が消えた。
「本当に、俺たちを覚えてないんだ」
「自分も覚えてない」
言葉より先に、彼の心配が流れ込んでくる。
アリの身体がそちらへ寄ろうとした。
スレートを両手で握る。
「これ、そっちにも伝わるの?」
「ときどき」
「今の、わざとじゃない」
「分かってる」
「みんなそれ言うの?」
彼の視線が、自分の名前の下の《PRIVATE》へ落ちる。
「絆ってのは、自己紹介を待ってくれない」
アリは息を飲んだ。
「なら、自己紹介から始めよう」
ジョリンは朝食パックを持ったまま、少し困ったように立っている。
「その前に、もう少し離れてくれる?」
彼は廊下へ出た。
温かさが薄くなる。
消えはしない。絆は扉を尊重しないらしい。
でも、追いかけたい衝動を観察できるくらいには遠くなった。
「そこ?」
「もう一歩」
ジョリンは冗談を言わず、もう一歩下がった。
アリは三回呼吸した。
四回目が少し楽になる。
「俺、何かした?」
「傷つけたわけじゃない。どこまでが、あなたが近くにいるせいなのか知りたかった」
「で?」
「一部はそうみたい」
ジョリンは朝食パックの折り目を親指で何度も撫でていた。
気づいて、止める。
アリは訊いた。
「私が反応する前から、ここにいたかった?」
「いたかった」
「私が喜んだのを感じたあと、もっといたくなった?」
口が開く。
閉じる。
「分けられない」
否定より悪い答えだった。
でも、ずっと役に立つ。
「じゃあ、私が感じたからって、私の意味を分かったって言わないで」
「分かった」
「私だって分からないかもしれない」
一瞬、彼の顔から守りが消えた。
慰めようとする気配が、言葉より先にアリへ届く。
その慰めを受けたらどれだけ楽になるかという期待まで、自分の中に立ち上がる。
ジョリンは、アリが置いた距離に立ったままだった。
絆は彼を近づけたがっている。
それでも彼は、アリが頼んだから遠くにいる。
欲望は信用できない。
選択なら、暫定的に信用できる。
「朝食、食べる?」
答えられる大きさの質問だった。
「うん。机へ置いて」
ジョリンは部屋へ入り、机へ置き、また廊下へ戻った。
アリは、その全部を見ていた。
身体は知らない男を欲しがれる。
彼の身体も答えられる。
それでも、二人とも別の行動を選べる。
廊下の後ろに、二人目が現れた。
長身。金髪。
静止しているだけで、周囲の動きが雑に見える男。
どの鼓動か分かった。
冷たい制御。
「ジョリン。医療へ連れていけ」
「朝食を届けてたんだけど」
「届いた」
ジョリンがアリを見る。
「ソレン・ヴェイル。好意まで規則違反みたいに言う」
ソレンは無視した。
視線がアリの裸足へ落ちる。
「歩けるか」
「たぶん」
「作戦回答ではない」
「じゃあ、歩ける」
工具箱を持った男が廊下を通り過ぎた。
止まる。
戻る。
アリの足を見る。
「靴」
それだけ言って消えた。
アリがジョリンを見る。
「ダイン。今のは彼にしては長台詞」
ダインはすぐに柔らかい船内靴を持って戻り、部屋の中へ置いた。
アリには近づかない。
「左が少し細い」
去った。
靴を履きながら廊下を見ると、重い戦闘靴が十足並んでいる。
その隣に、小さな靴用の空き枠が一つ。
名札だけ剥がされていた。
訊く前に、廊下の奥で金属が鳴った。
熱い鼓動が跳ね上がる。
ソレンの注意が逸れる。
ジョリンが笑わなくなる。
角から、大柄な男が現れた。
裸足。
両手に新しい包帯。
アリを見た。
憎悪が絆を通ってきた。
あまりにも純粋で、一瞬、痛みと勘違いした。
男の手が隔壁をつかむ。
金属がへこんだ。
「嫌だ」
ソレンへでも、ジョリンへでもない。
アリへ。
男は背を向けた。
安心するべきだった。
なのにアリの神経は、その男を追いかけようとした。
彼は自分を憎んでいる。
それでも身体は、近くにいてほしいと願っている。
そしてその答えまで、絆は向こうへ運んだ。
男が廊下で立ち止まる。
振り返らない。
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