第一話 十の鼓動
第一話 十の鼓動
戦況が崩れるより先に、指揮椅子の女は血を流していた。
それでも誰も手を止めない。
イリア・ソーンの左の鼻孔から流れた血が、唇の弓をなぞり、喉を囲む黒い接続環の下へ消えていく。
《ガイド・ピット》は薄暗かった。
十台の指揮椅子が主甲板より一段低く沈み、そのすべてに細身の人影が横たわっている。手首と喉へ突き刺さった銀色の接続線。身体の上には戦術投影が青白く浮かぶ。
右隣のガイドは、指を止められないほど震えていた。
左隣のガイドは、椅子脇の排水槽へ吐き、口をすすぎ、何事もなかったように操作へ戻った。
誰も見ない。
上階を軍靴が横切る。
《フューリー》たちだ。
彼女たちはガイド・ピットへ降りてこない。
上を歩く。
ガイドは下を見る。
フューリーは世界を見る。
イリアは目を閉じた。
十五の鼓動が返ってきた。
*
地上では、ハルシオンが勝っていた。
最初の塹壕を抜くのに十九秒。
一人のセンチネルが自分の投げた炸裂弾より先に壕へ飛び込み、着地と同時に一人を撃ち抜き、二人目の首を胸壁へ叩きつけ、背後を見もせず銃を逆手に撃った。
三人目が倒れる。
塹壕の上へ二本指が上がった。
クリア。
ハルシオンが進む。
怒鳴り声はない。
拳。
二本指。
三、前へ。
交差。
援護。
進め。
十五の装甲兵が、壊れた市街地を一つの機械のように切り裂いていく。
歩兵が交差点を固めれば、壁ごと抜ける。
五階から機銃が火を噴けば、一人が指を差し、別の一人が建物へ消える。
三秒後、銃声が止まった。
そのとき、一人が空を見た。
黒い傷が雲を裂いている。
航空機ではない。
落下物。
何十も。
「エンジェル、降下」
報告より先に、最初の降下殻が路面へ突き刺さった。
コンクリートが跳ねる。
半街区分の窓が内側へ砕ける。
まだ煙を吐いている外殻が花弁のように開き、その中から何かが立ち上がった。
人型。
だからこそ、人間ではない部分が不快だった。
白い装甲。広すぎる胸郭。肩へ載せられた長銃。
青白い光が通りを横切った。
一人のセンチネルの腰が内側から破裂する。
男の身体が店の残骸へ吹き飛び、片脚だけが道路に残った。
彼は自分の下半身を一度見た。
それから銃を胸へ引き寄せた。
誰も駆け寄らない。
ハルシオンは陣形を広げた。
*
イリアの表示が赤に変わる。
**HALCYON / TERMINAL : 01**
イリアは一度だけ息を吸った。
顎まで達していた血が、一滴、制服へ落ちる。
戦術画面の下へ、新しい表示。
**LAST RITES AVAILABLE**
イリアは触れた。
戦場が消えた。
そこには、小さな台所があった。
古い加熱板の上で薬缶が鳴っている。
窓の向こうでは雨。
男はテーブルに座り、両腕のある自分を見下ろしていた。
胸から下だけは、まだ戦闘装甲のままだ。
「ひどい?」
向かいに座るイリアには、長い黒髪があった。
接続環もない。
血もない。
昔、彼が好きだった濃紺のセーターを着ている。
「ええ」
「どのくらい?」
イリアは答えなかった。
男は理解した。
「そっか」
彼は窓へ目をやる。
外に戦争はない。
ただ雨だけが降っていた。
「いてくれる?」
「いる」
《ラスト・ライト》を開いたまま、イリアは意識の一部を指揮へ戻した。
十四の鼓動は戦っている。
一つは、台所で彼女と死を待っていた。
*
エンジェルは想定より遅かった。
そして、想定より強かった。
装甲同士がぶつかり、店を一軒貫通してもまだ殴り合う。
刃が関節へ滑り込む。
肘が落ちる。
センチネルの装甲が潰れる。
それでも切る。
二つ目の降下殻。
三つ目。
ハルシオンは初めて後退した。
逃げない。
一メートルずつ売る。
ガイドたちは、恐怖を情報に変え、痛みを限界値へ変え、怒りを方向へ変える。
イリアには十五の神経があった。
十四は戦闘中。
一つは台所で死につつある。
二人目が腹部を撃ち抜かれた。
男は壁へ背をつき、自分の身体を押さえようとした。
もう何も押さえられないと悟ると、片手で銃を持ち上げた。
表示がまた赤くなる。
**TERMINAL : 02**
「追加して」
白い空の下に、草原が生まれた。
二人目の男は、そこに座った。
彼に見えるイリアは、淡い野戦服。髪は顎までの長さ。
「もう少し地味な場所、選べなかった?」
「作ったのはあなたよ」
「俺、趣味悪いな」
「昔から」
男が笑う。
一人目には雨。
二人目には風。
イリアには両方。
*
三人目は瓦礫の下から上半身だけで這い出した。
**TERMINAL : 03**
「追加」
雪の積もる家の玄関。
言葉の少ない男がイリアの肩へ頭を預けた。
何も言わない。
必要なかった。
*
戦術図が縮んだ。
**ENCIRCLEMENT : 81%**
撤退経路が一斉に表示される。
地上のコンコードが出口へ向かう。
ハルシオンも安全圏へ近い。
そのとき、上階の軍靴が止まった。
小さな音だった。
それでも、イリアの周囲のガイドは全員聞いた。
フューリーが投影図を見下ろしている。
三個コンコードがまだ包囲の内側。
最も出口に近いのがハルシオン。
最も損傷しているのもハルシオン。
フューリーは片手を上げた。
二本指。
待機。
そして、背を向けた。
イリアは目を開ける。
「待機命令を確認」
「確認した」
フューリーは歩き続けた。
隣のガイドが息を止める。
イリアは歯を食いしばった。
「全軍、撤退」
周囲のガイドが彼女を見る。
「ハルシオンが穴を塞ぐ」
誰も反対しなかった。
イリアは十二の生きた神経へ手を入れた。
恐怖を消したわけではない。
恐怖に許されている行動を変えた。
逃走へ向かう化学反応を潰す。
攻撃性を上げる。
痛みを目的の背後へ追いやる。
脅威を狭める。
地上で一人が止まった。
二人目。
十二人全員。
無線命令はない。
彼らは振り返り、陣形を組み直した。
その背後を、他のコンコードが走り抜けていく。
ハルシオンだけが、エンジェルの群れへ戻った。
*
四人目は装甲車に轢かれた。
兵器ではない。
車体そのものに。
**TERMINAL : 04**
「追加して」
黒い雨の降る駅。
五人目は、エンジェルに喉をつかまれ、道路へ三度叩きつけられた。
背中の装甲が開く。
それでも意識は残った。
**TERMINAL : 05**
「追加」
何もない暗闇。
向かいに男が座る。
「これは、かなり悪い?」
「ええ」
彼はイリアを見る。
この場所のイリアには飾りがなかった。
髪型も、服も、香りも。
ただのイリア。
たぶん彼は、それ以外を必要としなかった。
*
**WITHDRAWAL CORRIDOR : CLEAR**
最後の味方が通過した。
十の緑。
五つの赤。
イリアは《ホールド》を解除した。
地上の十人へ、逃走経路が戻る。
彼らは崩れなかった。
煙幕。
援護射撃。
交互後退。
一人が、壁に押し潰された仲間のすぐ脇を通った。
ヘルメットがわずかに向く。
半秒。
それだけ。
別の仲間が肩を殴る。
進め。
彼らは進んだ。
誰も瀕死の五人へ跪かない。
誰も別れを言わない。
それはイリアの仕事だった。
輸送艇が十人を飲み込む。
ランプが上がる。
五つの赤は地上へ残った。
表示が切り替わる。
**TERMINUS PROTOCOL**
**RECOVERY WINDOW : CLOSED**
**CAPTURE DENIAL AUTHORIZED**
戦場の映像が消えた。
五つの《ラスト・ライト》だけが残る。
フューリーは何も言わない。
命令はもう、規則の中に書かれていた。
*
台所。
男が訊く。
「痛い?」
現実の身体では、残った神経がまだ悲鳴を上げている。
イリアは化学経路へ触れた。
「痛くしない」
「約束?」
「約束」
手を取る。
男の指が締まる。
「そのセーター、嫌いだった」
「あなたが買ったのよ」
「見る目なかったな」
「一貫してる」
彼が笑う。
イリアは痛覚を落とした。
呼吸への命令を静めた。
壊れた身体が、それでも止まることを怖がる最後の反射をほどいた。
男の胸が一度上下した。
二度。
止まる。
**TERMINAL 01 : BLACK**
現実のイリアの身体が跳ねた。
医療班が彼女の肩を押さえる。
台所では、向かいの椅子が空になった。
薬缶の音が止まった。
*
草原。
「いい冗談だった」
「つまらなかった」
「だからいいんだよ」
男は地平線を見る。
「一緒に来る?」
二人は死後について意見が合ったことがない。
男は酒場があると言い、イリアは永遠にはもっとましな店があると言った。
「扉までは送る」
「じゃあ奢りな」
「絶対いや」
手を取る。
草原が光に満ちる。
**TERMINAL 02 : BLACK**
現実の心臓が跳ね損ねた。
*
雪。
三人目は何も言わない。
イリアも何も言わない。
彼の頭が肩にある。
現実では医療班が制服を裂き、胸へ手を当てている。
雪の中では、ただ時間が過ぎる。
三秒かもしれない。
三十分かもしれない。
男が目を閉じる。
イリアは頬を彼の髪へ寄せた。
**TERMINAL 03 : BLACK**
*
駅。
四人目はここでは人間の姿をしていなかった。
黒い毛皮と装甲と傷跡でできた、巨大な獣。
身体の半分が、もう消えかかっている。
「見るな」
イリアは足を止めた。
「何を?」
「目を逸らすな」
現実で誰かが叫ぶ。
「ガイド・ソーンを失う!」
イリアは雨の中に座った。
獣の目を真っすぐ見る。
「逸らさない」
巨大な身体から、初めて戦う準備が抜けた。
「……なら、いい」
**TERMINAL 04 : BLACK**
イリアの心臓が止まる。
電撃。
現実の身体が跳ねた。
空の駅に稲妻が走る。
*
最後は暗闇。
五人目が向かいにいる。
「おまえ、痛めつけられてる」
「助けようとしてくれてるの」
「死ぬぞ」
イリアが少し笑う。
「あなたもね」
「笑えない」
「冗談じゃない」
男が立った。
「戻れ」
イリアは動かない。
「イリア」
「嫌」
「他のやつらがいる」
「あなたもいる」
「もうすぐいなくなる」
イリアの笑みが崩れた。
初めて、疲労が隠れなかった。
男の怒りが消える。
「俺たちのせいか?」
「違う」
嘘だった。
彼には分かった。
男は隣へ座る。
肩が触れる。
現実で二度目の電撃。
暗闇が白く揺れた。
「今の何?」
「天気」
男は少しだけ笑った。
「一緒に来る?」
イリアは、惑星から上昇していく十の緑を思う。
「あなたが私を感じなくなるまで、いる」
「同じことだろ」
男の頭が肩へ寄る。
イリアは目を閉じた。
五人目の命を終わらせる。
**TERMINAL 05 : BLACK**
戦術図に五つの黒。
副表示へ、六つ目の反応だけが立ち上がる。
センチネルの印ではない。
イリア・ソーンの心拍がなかった。
*
「もう一度!」
医療班が出力を上げる。
一度目は反応なし。
二度目。
弱い。
乱れている。
それでも波形が出た。
「戻った!」
誰かが笑う。
イリアの手が動く。
医療兵がつかむ。
「触るな!」
それでも指は接続盤を探した。
「……ハルシオン」
「駄目だ」
十の緑はすでに輸送艇の中。
安定。
生存。
イリアの口元がわずかに上がった。
「知ってる」
上からフューリーの声。
「ガイド・ソーン。停止しろ」
イリアは絆を開いた。
*
輸送艇の中。
十人は誰も話していなかった。
一人は手甲の血を落としている。
一人は、空になった五つの固定具を見つめている。
一人は治療を拒んでいる。
その全員が、同時に顔を上げた。
イリアはもう世界を作れなかった。
必要もなかった。
この道は古い。
何年も愛され、摩耗し、滑らかになっている。
十の扉が開く。
十人それぞれに、別のイリアが一瞬だけ現れた。
人数を数え続けている一人には、彼が信用する短い命令の調子。
**十人いる。自分も数えて。**
手甲の血を落とし続ける一人には、親指の付け根へ触れる、昔からの圧。
もう綺麗な金属を擦る手が止まった。
まだ始まっていない口論の答えを作っている一人には、
**始めないで。**
冗談を組み立てている一人には、言う前の笑い声。
食事を忘れる一人には、肘のすぐ横へいつものカップ。
他人の傷ばかり見ている一人には、ほんの一度だけ、自分の肩へ向けられる注意。
誰にも許していない名前の縮め方を持つ一人には、その音だけをゆっくり。
怖がっているのに興奮したふりをする一人には、
**息をして。それから、その最悪の案を聞かせて。**
黙っている一人には、黙ったまま隣にいる気配。
そして、切断された五つの場所をまだ感じ続けている最後の一人には、何年も「帰る場所」を意味してきた注意の向き方だけ。
十の認識。
一つとして交換できない。
一人が立ち上がった。
「いやだ」
別の一人が囁く。
「イリア」
壁が殴られ、へこむ。
十人は、彼女の心臓が止まりかけていることを感じた。
そして彼女が、それを感じられていると知っていることも。
痛みの下。
疲労の下。
自分の中で五人が死んでいった、そのすべての重さの下に、耐えがたいほどの安堵があった。
十人は、生きている。
イリアは最後の一瞬、十人を抱えた。
最後に渡したのは命令ではない。
ガイダンスでもない。
ただの認識。
**あなたたちを、知っている。**
心臓が止まった。
十の神経から、絆が一斉に引き抜かれる。
今度は、医療班にも戻せなかった。
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