第十六話 イリアの声
誰も再生を止めなかった。
止める方法を忘れたみたいに。
イリア・ソーンの声は、アリの頭の中に残っている断片より低かった。
雨の駅で聞いた声。
白い野原。
雪の階段。
黒い水。
全部、誰かの記憶を通した声だった。
これは違う。
録音。
誰のPRIVATEでもない。
死者が、自分で残した声。
「アリ。これを聞いているなら、あなたはまた私のところまで来た」
一拍。
録音の向こうで、何か紙を置く音。
「たぶん、怒ってる。あなたは説明なしに扱われるのが嫌いだった」
アリは自分の手を見る。
知らない。
そんな自分を知らない。
ケイドが一歩だけ近づく。
タヴィアは動かない。
「まず、ハルシオンへ」
イリアの声。
十人が同時に固くなる。
「これを聞けているなら、二つとも満たした」
マレクの顔が変わる。
アリも。
さっきの入口。
深く入っていない。
それでも、彼は自分で開けた。
「その二つが揃っていないなら、この記録は開かない。私の後継を、私が一人で決めるべきじゃないから」
ブラムが目を閉じる。
ほんの一瞬。
ジョリンの呼吸が震える。
イリアは続ける。
「軍はガイドを配属できる。でも、家庭までは配属できない」
ソレンの圧力がわずかに変わる。
アリは第四話の自分の言葉を思い出す。
支配力は許可じゃない。
イリアが同じ結論へ来たのか。
それとも、自分が彼女の残した道を歩いているのか。
分からない。
「次。アリ」
呼吸が止まりそうになる。
「私はあなたを知ってる」
レンが口元を押さえる。
ケイドは瞬きもしない。
「でも、今これを聞いているあなたが、私の知っているアリと同じだとは限らない」
部屋の温度が下がった気がした。
アリの中で、十の鼓動が全部こちらを向く。
「あなたは以前、ハルシオンの代替候補評価を受けた」
アリの頭に、何も出ない。
記憶なし。
ただ胃が冷える。
「C級。広域出力は低い。矯正入力は大きい。帰還信号を待たずに結果を固定する癖があった」
ケイドが目を閉じる。
第七話の記録。
同じ。
過去のアリ。
押す。
今のアリ。
聞く。
「私は反対した」
ブラムが顔を上げる。
マレクの怒りが鋭くなる。
アリは逆に、少しだけ楽になる。
選ばれたわけではない。
少なくとも、最初から完璧な後継としてではない。
「理由は単純。あの頃のあなたを、私の十人へ入れたくなかった」
トーマが小さく息を吐く。
痛い言葉なのに、正直だ。
イリアらしいと十人の反応が言う。
「ただし」
録音。
「あなたには一つ、評価票に出ない特性があった」
アリは動けない。
「失敗したあと、同じ失敗を繰り返さない」
沈黙。
それだけ?
アリは思う。
それだけが、死者の残した希望?
でもイリアの声は少し笑っていた。
「高出力より役に立つことがある」
オリンが鼻から息を吐く。
メラは何も言わない。
「私はあなたを後継に指名していない」
十人がまた止まる。
「同時に、あなたを除外もしなかった」
タヴィアがアリを見る。
だから、はいとも、いいえとも言えなかった。
「条件を残した。私が死んだあと、新しいガイドとの最初の実戦からハルシオンが全員で帰ること。そして、PRIVATEを拒否した人間の『嫌だ』を、そのガイドが変えないこと。拒否した本人が、あとから自分で入口を開くまで」
イリアの声が少し低くなる。
「そこまで起きたなら、もう私の判断ではない」
アリの喉が痛い。
「あなたたちが選んだ」
誰も動かない。
それは祝福ではなかった。
許可でもない。
責任を返されただけ。
死んだ女が、死んだあとまで全員の手から選択を奪わないために。
ブラムが低く言う。
「最悪だ」
ジョリン。
「何が?」
「イリアっぽい」
ジョリンは泣きそうな顔で笑った。
録音は終わらない。
「最後に、アリ」
空気がまた変わる。
「もしあなたが、私の知っているアリと違うなら」
ケイドの目が開く。
「その違いを、軍に説明させないで」
アリの背中が冷える。
「まず自分で確かめて」
一拍。
「オリゾンへ行く前に」
全員が戦術壁を見る。
赤い文字はもうない。
でも名前だけは残っている。
オリゾン。
「なぜ?」
アリが録音へ訊く。
当然、返事はない。
しかしイリアは、その質問を予想していたみたいに続けた。
「オリゾンは場所じゃない」
ケイドが一歩前へ出る。
「システムでもない」
レンが息を止める。
「少なくとも、私たちが教えられた意味では」
録音にノイズ。
一瞬、声が割れる。
「アリ・ヴェイの名前が帝国側に残っているなら、急いで」
録音が切れた。
終了表示。
**IRIA SORN - SUCCESSION RECORD 01 / COMPLETE**
その下。
**ADDITIONAL RECORDS : SEALED BY EXTERNAL CONDITION**
ブラム。
「まだあるのか」
タヴィア。
「あるみたいね」
「知ってた?」
「数だけ」
ソレン。
「外部条件とは」
タヴィアは首を振る。
「分からない」
アリは彼女を見る。
「本当に?」
「今のは疑っていい」
タヴィアが少し疲れて見えた。
*
その夜、誰もイリアの椅子について話さなかった。
船にはないから。
代わりに十一席の卓がある。
ダインが食事を作った。
作戦後だから、栄養効率が高く、味が悪い。
トーマが文句を言う。
「生きて帰った褒美がこれ?」
ダイン。
「生きて帰ったから食える」
「哲学で味をごまかすな」
イラン。
「帝国料理だと思えば?」
「敵意が増した」
アリは聞きながら食べる。
十人がいる。
全員。
イリアの条件を満たした十人。
その事実をどう扱えばいいか、まだ分からない。
マレクはアリの正面ではない。
斜め二席。
今までと違う。
でも近いとは言わない。
ブラムが食事へ手を伸ばす。
包帯が新しい。
アリを見る。
「過去のおまえ、本当に嫌なやつだったな」
「今も十分嫌われてると思ってた」
「種類が違う」
「評価ありがとう」
ジョリンが吹き出す。
ソレンは止めない。
それだけで、食卓の温度が少し上がる。
ケイドだけが端末を見ていた。
帝国データの解析進行。
三一パーセント。
四二。
五八。
彼は食べない。
ダインが皿を押す。
「食え」
「あとで」
「今」
「解析が」
「おまえが倒れても進む」
ケイドは不服そうに皿を取る。
アリは思う。
この家族は、死者の残した条件より前から、たぶんこういうふうに互いを生かしてきた。
イリア一人が作ったものではない。
だから、アリ一人が継ぐものでもない。
ケイドの端末が鳴った。
全員が見る。
解析完了。
彼の顔から食事への不満が消える。
「開いた」
---




