第十五話 継承条件
医療処置が終わるまで、誰も後継ファイルへ触れさせてもらえなかった。
当然、ブラムは不満だった。
「俺の手は後でいい」
オリンが包帯を切る。
「毎回そう言う」
「毎回動く」
「毎回裂ける」
「治る」
「だから医療が嫌いになる」
「相互だな」
アリは隣の寝台で栄養液を飲む。
マレクは二つ向こう。
肋部の内出血は軽度。
本人は軽度という言葉を侮辱だと思っている顔。
ジョリンは左手を縫われながら、セヴェルの話を反芻している。
「アリはハルシオンのために選ばれたんじゃない」
レンが壁際から言う。
「やめて」
「何が?」
「その言い方で繰り返すの」
「本人の言葉だよ」
「だから嫌」
イランが椅子を後ろ向きに座る。
「じゃあ、明るく言う?」
声を高くする。
「朗報! アリには別目的があります!」
ダインが包帯箱を投げた。
イランは避ける。
「暴力」
「未遂」
ケイドだけは会話に入らない。
帝国から抜いた補助データを見ている。
暗号化された三つの見出し。
**VEY, ARI**
**SORN, IRIA**
**ORISON ACCESS CLASSIFICATION**
中身は開かない。
ロング・メモリーの解析班でも、少なくとも数時間。
タヴィアはそれより先にイリアのファイルを持っている。
偶然ではない。
ソレンが医療区画へ入った。
「移動可能者、共用室」
ブラム。
「全員移動可能」
オリン。
「おまえは移動する前に座れ」
「座ってる」
「そのまま」
トーマが囁く。
「医療が勝った」
ブラム。
「聞こえてる」
*
共用室の十一席。
地上の席とは違う。
イリアの椅子はない。
でも、十一。
アリが一つ。
十人が十。
タヴィアは立っている。
メラも。
座る場所がないからではない。
座るつもりがないから。
卓の中央に黒いデータ片。
表示。
**IRIA SORN - SUCCESSION / HALCYON**
**CONDITION STATUS : PARTIAL**
**FULFILLED : RETURN WITH CONCORD INTACT**
**REMAINING : 1**
アリは読む。
「コンコード完全帰還」
タヴィア。
「正確には、作戦参加した現構成員全員が生存状態で帰還」
トーマが小さく息を吐く。
マレクは表示を見たまま。
「イリアが条件を書いた?」
「そう」
「死ぬ前に?」
「当然」
「いつ」
タヴィアは答えない。
ケイド。
「答えられない?」
「答えない」
少し違う。
ケイドは覚える顔をする。
アリが表示へ指を近づける。
「残り一つは?」
黒い部分が開かない。
**SEALED**
「まだ見えない」
タヴィア。
「ファイルがそう決めている」
「死んだ人にずいぶん権限がある」
「生きてる人間より準備がいいこともある」
ブラムが鼻で笑う。
マレクは笑わない。
「開けろ」
「できない」
「フューリー権限でも?」
「だから面白い」
アリ。
「私は面白くない」
「知ってる」
タヴィアはそこで、ようやく座った。
アリの向かい。
イリアの椅子ではない。
普通の船の椅子。
「ファイルを作った時点で、イリアは自分が死ぬ可能性を理解していた」
部屋が静かになる。
「理解してた、じゃなくて?」
ジョリン。
「予想してた?」
「どちらも」
ソレンの声。
「なぜ我々に言わなかった」
「本人へ聞きなさい」
ブラムが卓を叩く。
「死んでる」
タヴィアは一度だけ彼を見る。
「だからファイルを残した」
怒りが返る場所を失う。
アリは黒いデータ片を見る。
「私のことも知ってた?」
今度はタヴィアの沈黙が長い。
長すぎる。
ケイドが目を上げる。
ソレンの圧力が硬くなる。
アリは訊き直す。
「イリアは、アリ・ヴェイを知ってた?」
タヴィア。
「はい」
一語。
部屋の空気が変わる。
アリ自身だけが、その事実から何も思い出せない。
それが一番残酷だった。
ジョリン。
「どのくらい?」
「それはファイルの中」
ブラム。
「便利だな」
「便利なら今開けている」
マレクがアリを見る。
彼の灰色の線に、怒りとは違うもの。
警戒。
アリへではない。
アリの周囲へ。
「帝国も知ってた」
ケイド。
「少なくとも名前とオリゾン分類を同じ索引に置いている」
レン。
「じゃあ、軍だけ知らないふりしてる?」
タヴィア。
「軍は一枚岩じゃない」
イラン。
「便利な答え」
「事実は時々便利」
アリは椅子へ背を預ける。
記憶がない。
自分の過去の記録は、自分の動きと違う。
死んだSSS級ガイドは自分を知っていた。
敵国の伝令も名前を知っていた。
オリゾンと同じ索引に入っている。
そして、自分の頭の中には十人がいる。
「残りの条件を満たすまで、何も教えない?」
タヴィア。
「私は教えられる範囲なら教える」
「じゃあ一つ」
「どうぞ」
「イリアは私を後継に選んだ?」
十人が止まる。
それはずっと部屋にあった質問。
誰も言わなかっただけ。
タヴィアはファイルを見る。
アリを見る。
「その質問には、はいとも、いいえとも答えない」
ブラム。
「ふざけるな」
「どちらを答えても嘘になるから」
今度は誰も怒れなかった。
意味が分からない。
アリは笑いそうになる。
「それ、かなり悪い答えだよ」
「だから早く残りの条件を満たしなさい」
「条件知らない」
「イリアらしいでしょう」
その言葉だけは、十人全員が同じ顔をした。
本当に嫌そうな顔。
少しだけ、アリは彼女を知った気がした。
*
マレクのPRIVATE申請は、共用室を出たあとも残っていた。
アリが自室へ戻ろうとすると、廊下に彼がいる。
肋部に固定帯。
顔色は悪い。
態度はもっと悪い。
「医療区画に戻って」
「命令?」
「願望」
「却下」
「じゃあ何」
彼は手首端末を上げる。
**PRIVATE BOND REQUEST - MAREK QUIN**
「帰った」
アリは見る。
九人で彼を探したこと。
境界を破らず、欠けた形から見つけたこと。
戦闘中、痛みだけを落とす許可をもらったこと。
全部、彼も覚えている。
「今?」
「今」
「オリンが殺す」
「先に俺を殺すかもしれない」
「それを心配してる」
マレクは笑わない。
でも、ほんの少し呼吸が変わる。
「深層じゃなくていい」
アリは黙る。
「入口だけ」
第十話のジョリン。
開けられる。
閉じられる。
全部、奪わなくていい。
「何を確認したいの?」
「おまえが俺を探した方法」
「九人を使った」
「知ってる」
「じゃあ?」
マレクは長く黙った。
「中に入らなくても、俺がいないことが分かった」
「うん」
「それが嫌だ」
正直すぎて、返事が遅れる。
「でも確認したい?」
「もっと嫌だから」
アリは笑わない。
この男にとって、それは十分怖いことだと分かる。
「入口だけ」
「入口だけ」
廊下でやることではない。
二人で小さな面談室へ入る。
扉を閉める。
マレクは椅子へ座らない。
アリも立ったまま。
「開けるよ」
「言うな」
「言う」
「……好きにしろ」
「それ、同意として弱い」
彼の目が細くなる。
「開けていい」
「ありがとう」
「礼を言うな」
アリは絆へ触れた。
深く入らない。
像を作らない。
扉だけ。
暗い。
冷たい。
向こうに何か大きいものがいる。
姿は見えない。
雨でもない。
台所でもない。
劇場でもない。
そして。
もう一つ。
アリの側からではない動き。
マレクの扉の奥で、黒い何かが一度だけ光った。
文字。
アリが読むより先に、マレクが絆を閉じた。
二人とも息を止める。
現実へ戻る。
アリの手首端末が鳴った。
共用室に置かれたはずのイリアの後継ファイルから。
**IRIA SORN - SUCCESSION / HALCYON**
**FINAL CONDITION : MET**
アリは画面を見る。
マレクも。
廊下の向こうで警報ではない通知音が一斉に鳴る。
十人全員の端末。
封印が解ける。
最初に表示されたのは文章ではなかった。
音声ファイル。
**RECIPIENT : ARI VEY**
再生が始まる。
死んだ女の声。
「アリ」
アリの身体が、記憶より先に震えた。
イリア・ソーンは続けた。
「これを聞いているなら、あなたはまた私のところまで来た」
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