第8話:夕暮れ海の老夫婦
第7話では、雨の夜のひったくり事件に巻き込まれ、路地裏の泥水の中で絶望の底を味わった駆。
今回は第8話! 泥まみれになり、ボロボロになった駆がたどり着いたのは、これまでとは全く異なる、穏やかで優しい時間が流れる場所でした。
それでは、第8話「夕暮れ海の老夫婦」の本編をどうぞ!
泥水に浸かり、このまま下水へと流れ去るかと思われた駆だったが、翌朝の晴れ上がった空の下、通りかかった清掃ボランティアの子供によって無事に拾い上げられた。
その後、いくつかの人の手を経て、汚れを綺麗に拭き取られた駆は、とある地方の小さな土産物店のレジへと流れ着いていた。
――ガサリ、と財布が開く。
そこから漂ってきたのは、潮風の匂いと、どこか懐かしい木の温もりだった。
顔を上げると、目の前に広がっていたのは、どこまでも青く澄んだ夕暮れの海だった。茜色の空が水面に溶け込み、波の音が穏やかに耳を揺らす。
「おや、綺麗に洗われた一万円札だねえ」
優しそうなシワを刻んだ老人の声が響いた。
店を営む老夫婦だった。長年连れ添ったのだろう、二人の間には言葉を交わさずとも通じ合うような、穏やかで温かい空気が流れている。
おじいさんは、その一万円札――駆を丁寧に摘み上げ、妻であるおばあさんの手帳の間にそっと挟み込んだ。
「これだけの売り上げがあれば、来週の孫への仕送りができるねぇ」
「ああ、あいつも東京の大学で頑張っとるからな。少しでも足しにしてやりたいもんじゃよ」
「本当にねぇ……」
財布の中ではなく、古い手帳のページの間。そこは驚くほど静かで、暗くはあったが、不思議と居心地が良かった。
これまで見てきた、多重債務の絶望、ヤクザの冷酷さ、政治家の黒い欲望、そして泥まみれの強盗事件――それらのドロドロとした人間の業が、まるで嘘のように感じられた。
人間は、欲深くて、時に残酷で、汚い生き物だ。駆自身、何度もそれに絶望しそうになった。
だが、この老夫婦はどうだ。
自分たちの生活は決して豊かではないはずなのに、その手から生み出されるお金は、すべて「誰かのため」に使われている。孫の未来を祈り、互いを労わり、静かに穏やかに一日を生きる。
お金というものが、こんなにも優しく、温かい温度を持って誰かの背中を押すことができるのだと、駆は初めて知った。
「ねえ、あなた。今度、久しぶりにあの海沿いの道を歩かないか?」
「ふふ、いいねぇ。若い頃によくデートした場所だねぇ」
夕日に染まる店内で、老夫婦が手と手を重ね合わせる気配が伝わってくる。
その温もりは、血の繋がった家族を持たず、母子家庭で必死に働き詰めていた駆の記憶のどこかを優しく撫でるようだった。
――人間ってやつは、救いようがないほど醜いけれど……。
――こんなにも、愛おしい生き物だったんだな。
福沢諭吉の厳格な肖像画の裏で、元・高校生の駆の心は、じんわりと温かいもので満たされていく。
お金とは何か。
それは、人間の欲望を映し出す鏡であると同時に、人間の「想い」を運ぶ翼でもあるのだ。
殺伐とした裏社会で尖らせていた駆の復讐心や怒りが、この穏やかな潮風の中で、少しずつ溶けていくような気がした。
だが、忘れたわけではない。
優しさを知ったからこそ、駆はもう一度、あの眩しい場所に立つ意志を固めていた。
すべての頂点に君臨し、何もかもを手に入れているように見える幼馴染――無糖峰。あいつの元へ辿り着いたとき、自分はこの温もりと、地獄の冷たさのどちらをあいつに見せるのだろうか。
手帳の隙間から差し込む夕日の光を浴びながら、駆の果てしない旅路は、静かに次のページへと進み始めていた。
第8話「夕暮れ海の老夫婦」をお読みいただき、ありがとうございました!
泥まみれの修羅場から一転して、潮風香る穏やかな老夫婦のエピソードをお届けしました。お金が持つ「温かさ」や「誰かを想う優しさ」に触れた駆の心境の変化を感じていただけたら幸いです。
次回、第9話「夢を諦めない少年のポケット」では、再び若い世代の情熱に触れることになります。果たしてどんな出会いが待っているのか……?
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それでは、第9話でお会いしましょう!




