シーズン2外伝第2話:底からの再起
シーズン2外伝の第2話をお届けします。今回は、かつて駆が財布の中で目撃した「多重債務の夜」のその後の世界。闇金の影に怯えていた男が、駆の残した「お金の記憶」と新たなファンドの支援によって、どう人生を立て直していったのかを描く。
それでは、シーズン2外伝第2話「底からの再起」の本編をどうぞ!
一:冷たい雨の匂い
東京・新宿の片隅にある、古びたビルの一室。
窓の外では、アスファルトを冷たく叩きつけるような秋の雨が降っていた。室内に響くのは、年季の入った換気扇の低い唸り声と、キーボードを叩く乾いた音だけだ。
デスクに向かっているのは、杉山という三十代半ばの男だった。
無精髭が生え、目の下には消えないクマが刻まれている。しかし、その背筋はかつてのように丸まってはいなかった。画面を見つめる瞳には、かすかではあるが、確かな光が宿っている。
杉山はふと手を止め、デスクの引き出しの奥にしまい込んできた小さな封筒に視線を落とした。
中に入っているのは、一枚の古びた一万円札だ。
流通からは外れ、銀行で交換してもらうこともできたはずなのに、杉山はどうしてもその札を手放すことができずにいた。
「……信じらんねぇよな」
杉山は誰にともなく呟き、自嘲気味に息を吐き出した。
半年ほど前、彼の人生は完全に崩壊していた。パチンコとオンラインギャンブルに溺れ、消費者金融からの借金は膨れ上がり、ついには返済のために「闇金」に手を出した。
あの夜の恐怖は、今でも鮮明に脳裏に焼きついている。
玄関を荒々しく叩く男たちの怒号。
「お前、家族の連絡先知ってるんだよな?」という、耳元で冷たく囁かれた脅し文句。
財布の中にはわずか数千円しか残っておらず、明日を生きる金すらなかった。冷や汗が止まらず、心臓がバクバクと狂ったように鳴り響いていた。あのとき、自分の手元にあったその一万円札――それが、最後の最後に奇跡のようなめぐり合わせで手元に残り、そして彼に「このままでは終われない」という最後のプライドを思い出させたのだった。
あのとき、あの紙切れの向こう側から、誰かに見られているような気がした。
――お前は何をやっているんだ。そんな人生で、本当にいいのかよ。
声なき声が、冷たい財布の中で響いたような気がしたのだ。
「……幻覚だったのかもな」
杉山は苦笑しながら、デスクの上のマグカップから冷めかけたコーヒーを一口飲んだ。
だが、その幻覚に救われたのは事実だった。あの夜、彼はすべてを投げ出して逃げ出すのではなく、警察と弁護士に駆け込むことを決意した。闇金からの執拗な嫌がらせや脅迫に耐え、借金の整理を進め、そして地道な再起への道を歩み始めたのだ。
二:新しい風
人生の底から這い上がろうとする杉山に、もう一つの転機が訪れたのは、その数ヶ月後のことだった。
社会復帰支援を掲げる新しい金融プラットフォーム――『ミネ&サトウ・ホールディングス』が立ち上げた「多重債務者および破産者向けの再起支援プログラム」の存在を知ったのだ。
それは従来の冷徹な金融システムとはまったく違っていた。
過去の失敗を責め立てるのではなく、「もう一度、人間の手で人生を立て直すための資本」を低金利かつ徹底したサポート体制つきで貸し出すという、異例の試みだった。
「過去にいくら転げ落ちようとも、そこから這い上がる意志があるなら、お金はただの紙切れではなく『未来のチケット』になる」
そのファンドの若き共同代表の一人が語った言葉に、杉山は雷に打たれたような衝撃を受けた。
それは、あの夜、財布の中で感じた「お金の温もり」そのものの思想だったからだ。
審査は厳しかったが、杉山の熱意と、これまでの借金を自力で整理し直した実績が評価され、彼はそのプログラムの初期メンバーとして採用された。現在は、中小企業の経営立て直しや、かつての自分と同じような境遇にある人々の相談に乗る「債務コンサルタントの卵」として働いている。
「杉山さん、午後のクライアントとの面談資料、これでまとめました」
声をかけてきたのは、同じフロアで働く若い女性――宮本だった。彼女もまた、かつて家庭の事情で経済的な苦境に立たされていたが、このプログラムに救われた一人だった。
「ありがとう、宮本さん。見せてもらうよ」
資料を受け取り、杉山は目を通す。的確なデータ分析と、相手の懐事情に寄り添った温かみのあるプランニングが両立している素晴らしい出来栄えだった。
「最近さ、思うんだよ」
杉山はふと、窓の外の雨空を見上げながら言った。
「お金ってさ、ただの数字や道具じゃないよなあって」
「どういうことですか?」宮本が小首を傾げる。
「いや、なんていうか……人間がどんなに絶望していても、あるいはどんなに強欲になっていても、お金そのものはただそこに在り続ける。だけど、誰がそれを持ち、どう使おうとするかによって、その紙切れは人を殺す凶器にもなるし、誰かを救う救命胴衣にもなるんだってさ」
宮本は少し驚いたような顔をしたが、すぐに柔らかく微笑んだ。
「それって、なんだか小説のセリフみたいですね。でも、なんだか分かります。私たちがこうしてここにいられるのも、誰かが私たちのために動いてくれたからですから」
「ああ、そうだな」
杉山は心の中で、かつてのあの夜、財布のなかにあった一枚の札に語りかけるように呟いた。
――俺はまだ、この世界でちゃんと生きているぞ。お前が教えてくれた温もりを忘れずに、今度は俺が、誰かの財布の底を温めてやる番だ。
三:雨上がりの街へ
夕方になり、いつの間にか東京を包んでいた雨は上がっていた。
雲の切れ間から、夕暮れのオレンジ色の光がビル群の隙間を縫うように差し込み、濡れたアスファルトをきらきらと反射させている。
仕事の区切りをつけた杉山は、コートを羽織り、ビルを出た。
冷たい風の中に、どこか春めいた新しい季節の匂いが混じっている。
ふと、近くのコンビニエンスストアの前を通りかかったとき、自動ドアから出てきた一人の高校生が目に入った。
その少年のポケットからは、数冊の参考書と、薄っぺらい財布がのぞいていた。少年は何かを一生懸命考えながら、スマホの電卓を叩いてから、ふっと嬉しそうに笑って自転車のペダルを踏み出した。
その不格好で、けれど眩しい後ろ姿を見送りながら、杉山は自然と笑みをこぼした。
「若いってのは、いいもんだな」
ポケットの中で、スマートフォンが震えた。
無糖・佐藤グループからの全体チャット通知だった。『明日のロンドンおよびニューヨーク市場との合同カンファレンスについて』という文字が並んでいる。
世界はめまぐるしく動き、経済という巨大な歯車は今日も止まることなく回転し続けている。
その果てしないマネーの流通のどこかで、今この瞬間も、誰かが泣き、誰かが笑い、誰かが新しい一歩を踏み出しているのだろう。
かつてはお金の奴隷となり、すべてを失いかけた男は、いまやその経済の末端を支える誇り高き一員として、夕暮れの街を歩いていた。
――負け続けた人間の物語が、別の誰かの勝利の物語へと繋がっていく。
世界は闇ばかりではない。人と人が繋がり、誰かを想う温もりがある限り、この旅路が終わることはない。
杉山は大きく息を吸い込み、確かな足取りで、自分の帰るべき場所へと歩き出した。
シーズン2外伝第2話「底からの再起」をお読みいただき、ありがとうございました!
本編第4話で描かれた「多重債務の夜」の男が、時を経てどう救われ、お金を通した人間ドラマの広がりを感じていただければ幸いです。
次回の外伝第3話もお楽しみに!




