第9話
時刻は、二十二時二十分。
深夜にはまだ早いが、大徳寺邸は既に夜の静寂に包まれていた。
二階の自室では、涼音が机に向かい、山積みになった学院の課題と悪戦苦闘している。
「もうっ……全然分かんない!」
鉛筆を置いて大きく伸びをし、不満そうに頬を膨らませる。
一方、一階の応接間では、聖理奈がノートパソコンを開き、自らが代表を務める法律事務所の残務処理に追われていた。静かな室内には、キーボードを叩く音だけが響いている。
執事は、執務室で書類に目を通し、メイドは、戸締まりと消灯確認のため、屋敷内を巡回していた。
誰もが、それぞれの日常を過ごしている。大徳寺邸は、いつもと変わらぬ穏やかな夜を迎えていた。
しかし、その平穏は、次の瞬間、音もなく崩れ去る。
二十二時二十三分。
屋敷中の照明が、前触れもなく一斉に消えた。
「きゃっ!」
廊下からメイドの小さな悲鳴が聞こえる。執事はすぐに非常用の懐中電灯を取り出した。
「ブレーカーですか?地下の分電盤を確認しましょう」
「はい」
二人は懐中電灯の灯りだけを頼りに、地下室へ向かって足早に歩き始めた。
その頃、大徳寺邸から約百メートル離れた路地裏に停車した黒いワンボックスカーの車内では、特殊工作部隊『K-Team』の作戦が進行していた。
ノートパソコンを操作していた運転手役の男、《S》が無線で淡々と報告する。
『こちら《S》。目標宅のセキュリティシステムを解除。警備会社管理システムの掌握を完了』
彼は、警備会社のホストコンピューターへ侵入し、大徳寺邸の警備システムだけを一時的にネットワークから切り離した。
その隙に屋敷内の管理システムを乗っ取る。そして、再び警備会社との回線を復旧。警備会社の監視システムは、単なる『不測の事態による一時的な停電』として認識する。特に異常を検知する事はない。
なお、『K-Team』のメンバーは互いの本名を一切呼ばず、それぞれ姓の頭文字をコードネームとして使用している。
『目標宅の照明システムを停止。全電子施錠を解除』
《S》が最後のキーを叩いた瞬間、屋敷内のすべての電子ロックが一斉に解除された。
完全なる無防備状態となった大徳寺邸。
◇◇◇
その頃。屋敷外周で警戒に当たっていた警視庁の捜査官達は、それぞれの持ち場で静かに倒れていた。
争った形跡は一切ない。
首筋には、細い針が突き刺さっている。特殊圧縮空気銃から発射された麻酔ダーツだった。皮膚に刺した瞬間、即効性の麻酔薬は体内へ流れ込み、意識を奪う。悲鳴を上げる暇すら与えない。
『こちら《M》。目標宅外周の捜査員六名、全員の沈黙を確認』
無線から冷静な報告が流れる。
更に、別働員として、既に屋敷への潜入に成功していた《F》が、小型ケースほどの黒い装置を床へ設置した。
スイッチを押す。低い電子音とともに装置が起動した。
『こちら《F》。指向性磁場発生装置、作動確認。半径五十メートル圏内の通信を完全遮断』
装置から発生した強力な電磁波が屋敷全体を覆い尽くす。『K―Team』の専用回線を除く携帯電話、無線通信やモバイル回線も全ての機能を停止した。
大徳寺邸はこの瞬間、外界から完全に孤立したのである。
「こちら《K》。行動開始!」
海堂の冷徹な号令と同時に、隊員達は、影のように音もなく屋敷へと忍び込んだ。
◇◇◇
地下室では、執事とメイドが懐中電灯で分電盤を照らし、途方に暮れていた。執事が脚立の上でブレーカーを何度操作しても、照明システムは復旧しない。
「おかしい、ブレーカーは落ちていないのに……」
ガチャリ……
『こちら《S》。地下室出入り口の施錠完了』
《S》が遠隔でシステムを操作し、二人はそのまま地下室に閉じ込められた。
一方、応接間にいた聖理奈は、携帯電話の液晶が示す『圏外』の文字を見て、事態の異常性を瞬時に悟った。
(ただの停電ではない。侵入者がいる!)
彼女は壁際のゴルフバッグから迷わずドライバーを引き抜き、両手で固く握りしめた。廊下から、静かに足音が近付いてくる。
『こちら《J》。これより、応接間へ侵入する……』
ドアが静かに開かれた、その時だった。
ガツッ!!
《J》が踏み込んだ瞬間、待ち構えていた聖理奈が背後からドライバーを振り下ろした。鈍い音がし、《J》がよろめく。聖理奈は我を忘れ、狂ったようにドライバーを何度も打ち下ろした。《J》の意識が混濁し、崩れ落ちる。
しかし、その背後から現れた別の影。索敵担当の《F》が、聖理奈の振り下ろしたドライバーを片手で軽々と掴み取った。
「……何を遊んでいる!?目標は二階だぞ!」
「す、すまん……」
《F》は冷ややかに《J》を一瞥すると、懐から消音器付きの拳銃を無造作に取り出し、躊躇う事なく聖理奈に発砲した。
パシュッ……
乾いた音が響き、聖理奈は腹部を射抜かれたような衝撃で床に尻餅をついた。
《J》と《F》は倒れ込んだ聖理奈を一顧だにせず、すぐさま二階の涼音の部屋へと駆け上がって行った。
聖理奈は震える手で腹部に触れた。そこには、ヌルリとした生温かい感触。見下ろした彼女の白いブラウスが、鮮烈な血の赤に染まり始めていた。
「……何よ、これ……?」
◇◇◇
「イヤッ……!」
二階から響いた涼音の悲鳴。聖理奈は、腹部の激痛に顔を歪めながらも、執念で駆け上がった。しかし、そこに涼音の姿はなかった。ベランダから見下ろすと、薬物によって眠らされたであろう涼音を三人の黒い影が担ぎ、正門へと向かっている。
「……ま、待ちなさい!」
聖理奈は階段を転がるように駆け下り、男達の進路を断つために通用口へと飛び出した。
正門前では、ワンボックスカーが停止し、スライドドアが開く。《M》が素早く降り、リアゲートを開けて待ち構える。
『こちら《D》。目標確保。間もなく正門を通過する』
重厚な正門が自動制御で開く。涼音を抱えた《D》達が、リアゲートから車内へ雪崩れ込んだ。車が急発進した。その時……。
通用口から弾丸のように飛び出した聖理奈が、加速し始めた車のスライドドアに飛びついた。
「なんて女だ……!?」
車内の男達が戦慄する。聖理奈は腹部の激痛を無視し、涼音に手を伸ばす。
「涼音ちゃんを……返してッ!」
運転手の《S》が車体を大きく蛇行させ、強引に振り落とそうとする。聖理奈の身体が宙に浮き、外へ放り出されそうになるが、彼女は助手席のシートの縁に死に物狂いでしがみついた。
《M》が容赦なく彼女の頭部や体を蹴り付けるが、聖理奈は頑として手を離さない。
「総ちゃんと……約束したんだから! 絶対に、涼音ちゃんを守るって……!」
その叫びに殺意を固めた海堂が、無言で拳銃を取り出し、聖理奈の額に銃口を突きつけた。
「お嬢さん。残念だが、ここで終わりだ」
死の淵に立たされた聖理奈の脳裏に、走馬灯のように総介の顔がよぎる。
(総ちゃん、ごめんね。私、もう……)
海堂が、引き金に力を掛けた、その瞬間……!
ブォン……ッ!!!
風を切り裂く轟音と共に、赤い閃光が海堂の拳銃を粉々に粉砕した。
間一髪で駆け付けた総介が、ハンドレールガンで、海堂の拳銃を射ち抜いた。
聖理奈の手から力が抜け、彼女の身体が車から路上へと転がり落ちる。総介は、聖理奈の元へ駆け寄った。
同時に、走り去る車内から静かに見つめる海堂と、一瞬だけ視線が交錯した。
「聖理奈さんッ! しっかりして下さい!」
総介は聖理奈を抱きかかえるが、その手にはドロリとした生温かい感触が絡みついた。聖理奈の白いブラウスは、真紅に染まり、彼女の顔色は青ざめていく。
(リノア……!?)
総介の視界に、かつて守る事が出来なかった少女の面影が映し出される。彼の脳裏に、封印していたはずの忌まわしい記憶がフラッシュバックし、聖理奈と重なる。
「誰かっ!!救急車を呼んでください!!早くっ!!このままじゃ、聖理奈さんが……!聖理奈さんがーーっ!!」
夜更けの閑静な住宅街に、総介の悲痛な叫びだけが、いつまでも虚しく響き渡った……。
◇◇◇
聖理奈が緊急搬送されてから、既に十八時間が経過していた。
騒ぎを聞き付けた近隣住民の通報により救急車が到着し、聖理奈は神崎グループが運営する総合病院へ緊急搬送された。
一歩間違えれば命を落としていたほどの大量出血ではあったものの、失血性ショックに陥る寸前で食い止められた。しかし、銃弾は腹部を貫通し、腎臓に深刻な損傷を与えていた。
執刀医をはじめとする医療スタッフは、一瞬たりとも気を抜くことなく処置を続けた。そして、十二時間以上にも及ぶ壮絶な手術の末、聖理奈は何とか一命を取り留める事が出来た。
『手術成功』。その知らせだけが、張り詰めていた病院の空気を僅かに和らげた。
茉里華は、大徳寺邸で発生した拉致事件の現場検証と指揮に追われ、病院へ駆け付けることが出来ずにいた。
一方、美里亜は、知らせを受けるや否や、仕事も何もかも放り出し、病院へ駆け込んできた。虎之介も、自宅での現場検証に伴う事情聴取を済ませ、一足遅れて到着した。
総介から、『涼音が拉致された』という絶望的な事実を告げられた瞬間、虎之介は膝から崩れ落ちた。
「涼音……」
掠れた声が漏れる。娘を守れなかった……。その現実を受け入れきれず、彼は床へ両手をつき、肩を震わせながら声を殺して泣き続けた。
しばらくして、この病院の臨時医師でもある美里亜は、執刀医から聖理奈の容態について詳細な報告を受けた。
「命に別状はありません。ただ、傷が塞がるまでは、絶対安静が必要です。今日の付き添いは私が引き受けますから、総介さん、あなたは少し休んでください」
美里亜の気遣いに、総介は生気を失った瞳で軽く会釈し、ふらつく足取りで病院の出口へと向かった。その背中は、全てを失ったかのような脆さを漂わせていた。
「総介君!」
出口の手前で、虎之介が総介を呼び止めた。そして、彼は躊躇うことなく両手と両膝を床に叩きつけ、額を擦り付けた。
「頼む……涼音を助けてくれ! 娘を、私の娘を連れ戻してくれ! お願いします……っ!」
虎之介の目から、父親としての絶望と懇願が溢れ落ちる。
しかし、総介には、その声すら遠く霞んでいた。今の総介には、その願いに応える事が出来ない……。
「……すみません」
消え入りそうな声で、それだけを絞り出す。
聖理奈は瀕死の重傷を負い、涼音は連れ去られた……。そして、それを止められなかったという事実が、総介の心を深く、激しく打ち砕いてしまった。
「少し……外へ行ってきます」
総介は俯いたまま、力なく歩き出す。その足取りは覚束なく、今にも倒れてしまいそうだった。
美里亜と虎之介は、その背中をただ静かに見送る。今の総介に掛ける言葉は見つからない。その背中は、あまりに孤独で、そして深い喪失感に満ちていた。




