第8話
総介は、鉄組の『定例総会』が終わるまでの間、大徳寺虎之介の専属ボディガードとして行動を共にすることになった。
まず取り掛かったのは、社長付きの護衛として、相応しい身だしなみを整えることだった。
「護衛は腕だけじゃダメ。見た目も信用の内よ!」
聖理奈がそう言い放つと、その場にいた誰一人として反論は出来なかった。
こうして、総介の大改造計画が幕を開けた。もちろん、コーディネート担当は聖理奈と涼音の二人だ。
まずは高級紳士服店で身体にピタリと合う上質なブラックスーツを仕立て、続いて老舗の靴店で磨き上げられた革靴を新調する。
更に美容院では、伸び放題だった髪を爽やかなショートスタイルへ整えられ、何日も放置していた無精髭も綺麗に剃り落とされた。
「ここまで来たら徹底的にやりましょう!」という聖理奈の一言で、なぜか最後はメンズエステにまで連れて行かれる始末である。
本人は終始、「いやいや、そこまでは必要ないでしょう……」と抵抗していたものの、女性陣に押し切られ、されるがままだった。
もちろん、その一連の費用はすべて虎之介のポケットマネーである。
数時間後……。
くたびれた探偵の面影は、どこにも残っていなかった。
「……どうでしょう?」
少し照れくさそうに頭を掻きながら、総介がドレスルームのカーテンを開けて姿を現す。
「変じゃ……ありませんか?」
その瞬間、聖理奈と涼音の時間が止まった。
「……え?」
「……う、嘘……」
二人は同時に目を見開き、思わず言葉を失う。
元々、総介の目鼻立ちは端正だった。だが、無精髭とボサボサの髪がそれを台無しにしていたのだ。
下ろしたての漆黒のスーツが引き締まった肩幅を際立たせ、磨き上げられた革靴が足元に冷徹な光沢を放っている。ヘアスタイリストの手によって完璧に整えられた髪型は、隠されていた理知的な表情を露わにしていた。
聖理奈は思わず頬を赤らめ、慌てて視線を逸らす。
「本当に、総ちゃん……?」
一方の涼音も、しばらく総介から目を離せずにいた。
「……ちょっと反則じゃない」
小さく漏らしたその呟きには、驚きと戸惑い、そしてわずかな胸の高鳴りが滲んでいた。
そのあまりの劇的な変化に、二人の視線は吸い寄せられ、しばらくの間、時が止まったかのように動けなくなっていた。
◇◇◇
社長という仕事は、多くの人が想像する以上に過酷だった。
朝、出社すると同時に役員会議。その会議が終われば、取引先との打ち合わせ。
移動中の社用車の中ではオンライン会議が続き、昼食は資料を読みながら数分で済ませる。
午後は来客対応、契約交渉、役員との協議……。
ようやく夕方を迎えたと思えば、今度は接待を兼ねた会食。その席でも仕事の話は途切れることがない。
帰社後も決裁書類が山積みとなり、翌日の会議資料へ目を通す。息をつく暇さえない。
その日、すべての業務が終わった頃には、時計の針はすでに深夜二時を回っていた。
総介と虎之介は、静まり返った二十四時間営業のファミリーレストランのボックス席に着いた。
「どうだね、一日を通しての感想は?」
疲労の色を隠せない虎之介の問いに、総介はメニュー表から顔を上げる。
「いや、正直……、社長の仕事がここまで忙しいとは思いませんでした。それに……」
総介は、虎之介が目の前の安価なハンバーグセットを箸でつついている様子を、複雑な面持ちで見つめた。
「私が、いつも高級なステーキや懐石料理を食べているとでも思ったかね?」
虎之介は自嘲気味に笑う。接待以外ではこうしたファミレスで食事を済ませるのが常で、時にはコンビニのおにぎりで空腹を凌ぐこともある。これでは、家族団欒など到底望めない。
「今回、君達のお陰で、涼音との距離が少しだけ近付いた気がするよ。本当に感謝しているよ」
虎之介が深々と頭を下げる。総介は、その実直な姿勢に気圧され、恐縮して身を引いた。
「ところで、総介くん。この件が無事に終わったら、私専属のボディガード兼秘書として働いてくれないだろうか?」
思いもよらない申し出だった。総介は、思わず目を丸くする。しかし、虎之介の言葉は、それだけでは終わらなかった。
「私は、君を高く評価している」
穏やかな口調のまま続ける。
「いずれは、君を大徳寺家の婿養子として迎えたいとも考えている。そして、時が来たら弁天屋物産を託したい」
静かな店内が、一瞬だけ止まったように感じられた。
国内屈指の大企業。社長直属の地位。将来の後継者。誰もが羨むような破格の条件だった。
この話を受け入れれば、総介の人生は百八十度変わる。経済的な不安もなくなり、将来は約束されたようなものだ。
だが、総介の脳裏に、一人の女性の優しい声が蘇る。
『まだ、多くの人が……あなたの助けを求めているのよ……。だから……』
その言葉は、人生の岐路に立つたび、彼の背中を押し続けてきた。
総介は静かに目を閉じ、小さく息を吐く。そして、ゆっくりと頭を下げた。
「ありがとうございます。本当に光栄なお話です」
虎之介は黙って耳を傾ける。
「ですが……」
総介は穏やかな笑みを浮かべた。
「どこかで今この瞬間も、僕の助けを必要としている人がいるかもしれません。僕は、そのような人達を見捨てることは出来ません」
その瞳には、一片の迷いもなかった。
「申し訳ありません。そのお話は、お受けすることができません」
深々と頭を下げる総介。
虎之介はしばらく黙っていたが、やがて優しく笑った。
「……そうか」
その笑顔には残念さもあったが、それ以上に総介という人間への敬意が込められていた。
「君らしい答えだ」
虎之介は肩をすくめ、小さく笑う。
「今の話は忘れてくれ。こちらこそ、困らせてしまって済まなかった」
そう言ってコーヒーを飲み干す。
虎之介の心の中で描いていた『総介を後継者に迎える未来予想図』は静かに消えていった。
しかし同時に虎之介は確信していた。
目の前にいる青年は、誰か一人のためだけに生きる器ではない。困っている人がいる限り、どこへでも駆け付ける……。
それが、甘井総介という男の生き方なのだと。
◇◇◇
大徳寺邸の周辺は、茉里華の部下である捜査官六名による厳戒態勢が敷かれていた。
自宅待機三日目。十六歳という遊び盛りの涼音にとって、それは自由を奪われた監獄に等しい。
「あーっ、ヒマだ、ヒマだ、ヒマーーーッ!」
基本的にアウトドア派の彼女にとって、庭を眺めることすら許されない現状は拷問に近い。学院には『短期休学届』を出したものの、代わりとして送られてきたのは山のような課題。現在は聖理奈が家庭教師を兼ね、その監視を担っていた。
「ねぇ、聖理奈さん。休憩にしようよ! 集中力切れた!」
開始からわずか十分。涼音はペンを放り出し、机に突っ伏した。
「ダメよ! この課題を終わらせない限り、休憩はお預け」
聖理奈もまた、妥協という言葉を知らない。静かな火花が散る中、部屋の扉がノックされた。
「お嬢様、神崎美里亜様がお見えです」
メイドの声と共に現れたのは、何故か空のバスケットを持った美里亜だった。
「お姉様ぁ!」
涼音がまるで子犬のように美里亜へ飛びつく。その様子を見た聖理奈は、思わず溜め息を吐いた。
ちなみに美里亜が持ってきたバスケットが空なのは、道中、警護にあたっていた捜査員達へ手作りのチーズケーキを振る舞ってきた為だった。
「ごめんなさいねぇ。こんな事なら、もっと作ってくれば良かったですね?」
美里亜の穏やかな微笑みが、張り詰めていた涼音の緊張を溶かしていく。他愛のない世間話が始まり、三人の間には久々に穏やかな時間が流れた。
「……総介、どうしてるかな?」
涼音が不意にこぼした言葉に、空気が少しだけ変化する。
「きっと今頃、ガチガチになってるわよ。ああいう堅苦しい場所、総ちゃんは一番苦手だもの」
聖理奈の口調には、総介の私生活を知り尽くした者特有の余裕が滲んでいた。
「むぅ……!」
涼音は、自分よりも総介の日常を知っている聖理奈に対して、露骨に頬を膨らませた。
「二人共、総介さんのことが本当に大好きなんですねぇ?」
そのやり取りを柔らかい眼差しで見つめていた美里亜が、核心を突く一言を投げかける。途端に二人の顔が真っ赤に染まった。
「そ、そう言う美里姉は、どうなのよ?」
聖理奈が慌てて反撃に出る。美里亜は悪びれる様子もなく、淡々と言い放った。
「ええ、大好きですよぉ。だって私、総介さんと『同じ屋根の下』で暮らしていますからねぇ」
「ええーーっ!?」
涼音の悲鳴に近い声が響く。美里亜が所有するマンションの一室を総介が借りているという事実を知る由もない涼音にとって、それはあまりに刺激的な爆弾発言だった。
邸宅内には、涼音の慌てる声と、美里亜と聖理奈の楽しげな笑い声だけが響いていた。それは、嵐の前の、あまりに平和で何気ない午後の一幕だった。
◇◇◇
二十二時。
鉄組が主催する『定例総会』まで、あと三日。静寂を切り裂くように、漆黒の夜道を一台の黒いワンボックスカーが疾走していた。
「間もなく、目標地点に到達する」
無機質な運転手の声が車内に響く。乗車しているのは六名。全員が黒い作業服に身を包み、顔は目出し帽で隠され、暗視ゴーグルが闇の中で不気味に光を放っている。リーダー格の男が、沈黙の中で冷徹に最終作戦を伝達していた。
彼らこそ、鉄眞悟の懐刀・海堂勇が率いる私設特殊工作部隊『K―Team』。
元自衛官である海堂が、精鋭五名を従えて結成したフリーランスの戦闘集団だ。拉致、暗殺、破壊テロ……。世界の戦地を渡り歩いてきた彼らは、敵対組織のみならず、警察や政治家すらも震え上がらせる『死の狩人』である。
「作戦開始と同時に時計を同期しろ」
ワンボックスカーは大徳寺邸からわずか百メートル、闇に溶け込む路地裏に停車した。エンジンが切られ、静寂が訪れたその瞬間、海堂の携帯電話が非通知の着信を告げた。
『ミスター海堂。……フォルシャーだ』
虎之介の暗殺依頼を一方的に放棄したあの男……、マスター・フォルシャー。海堂は、露骨に不快感を露わにし、吐き捨てるように電話に出た。
「今は忙しい。要件だけを言え」
『……君に忠告だ。くれぐれも、「カマエル」を起こさぬよう注意することだ』
マスターはそれだけを言い捨て、一方的に通話を終了した。
(『カマエル』……? 一体何の事だ……?)
海堂の思考を一瞬の疑念がかすめる。しかし、一度、戦場の空気に染まった彼に、立ち止まるという選択肢はなかった。この男の言葉の真意を測る暇など、今の自分達にはない。
「全隊、作戦開始だ!」
合図と共に、六つの影が夜の闇へと滑り出した。大徳寺邸の静かな夜が、蹂躙されようとしていた……。
◇◇◇
虎之介は、いつになく仕事を早めに切り上げ、車で帰路についていた。助手席には、総介が控えている。
後部座席で鼻歌をこぼし、軽快なリズムを刻む虎之介に、総介は苦笑いを浮かべた。
「社長、随分と楽しそうですね」
「当たり前だろう! 四日ぶりに愛娘に会えるんだ。喜ばない親がどこにいる?」
相変わらずの親バカ全開だ。しかし、車が駅前通りの赤信号で停止した瞬間、総介の懐で携帯電話が激しく震えた。画面には『茉里華』の文字。総介は、即座に通話ボタンを押した。
『総介、今どこにいる!?』
電話の向こうから聞こえるのは、茉里華の尋常ではない切迫した声だった。
「茉里華さん、どうかしたんですか?」
『よく聞け、総介! 大徳寺邸周辺に配置した警護班との連絡が、一斉に途絶えた! 聖理奈の携帯も繋がらない!今すぐ社長宅へ向かえ!社長の警護は私が引き継ぐ!』
茉里華の言葉を聞いた瞬間、総介は迷うことなく助手席のドアを開け放った。
「あっ、総介君!」
虎之介が呼び止める間もなかった。
助手席には、総介の携帯電話だけが置き去りにされている。虎之介はそれを拾い上げ、耳に当てた。
「警視さん。総介君なら、たった今、車を飛び出して行きましたよ」
携帯電話の向こうで、茉里華が小さく舌打ちをした。
『……分かりました。社長、あなたは絶対に車から降りないで下さい。私も、すぐそちらへ向かいます!』
そして、総介は、夜の街を疾風のごとく駆け抜けて行った。




