第7話
「ハハハ……、見つけたぞ!」
『ひだまり通り商店街』を一望出来る、七階建てマンションの屋上。静寂な闇夜の中、ウルフ・ザ・キッドはライフル銃を固定し、暗視スコープの覗き窓へ深く目を沈めていた。
その傍らで、マスター・フォルシャーは双眼鏡を手に、『喫茶店ひだまり』を冷徹に監視し続けている。この距離、この高度からであれば、店内の様子は手に取るように視認出来る。
「……ターゲット確認。距離六百。南東の風一・三。視界のクリアランスはレベル二、射撃条件は完璧だ」
マスターの短く抑揚のない報告が、夜の静寂に吸い込まれる。
「こんな仕事、さっさと終わらせて、本場の寿司でも食いに行こうぜ、マスター!」
ウルフは、獲物を前にした野獣のように、下品な笑みを浮かべた。
彼の指先がトリガーの感触を繊細に捉える。スコープの十字線が、喫茶店の窓越しに見える『標的』の急所を正確に捕らえた瞬間、彼の指に力が込められた……。
◇◇◇
「ちょっと待ってください!」
美里亜が話を遮った。
「今までのお話を整理すると、『鉄組』さんの目的は、社長さんに掛けられた保険金なんですよねぇ?だとすると……」
その瞬間だった。
(……ッ!!!)
総介の脳髄を電撃が貫いた。彼は、窓の外の闇の中に潜む『殺意の気配』を無意識下で察知したのだ。
「伏せてくださいッ!!」
総介は、叫ぶのと同時に、カウンターの端にあったステンレス製のお盆を、虎之介の頭部を覆うように力任せに投げつけた。
パァン!!
六百メートル離れたマンションの屋上から放たれた超高速弾が、テラスの窓ガラスを撃ち抜く。
弾丸は、一直線に虎之介の頭部へ迫る。だが、その軌道へ飛び込んだステンレス盆に激突し、甲高い金属音を響かせて弾かれた。逸れた弾丸は虎之介のこめかみをわずかに掠め、背後の壁へ深々とめり込んだ。
「っ……!」
総介は、反射的にジャケットの内側から、美里亜から預かった拳銃を抜き放つ。窓の外、遥か彼方の狙撃地点へ向けて照準を合わせると同時に引き金を引いた。
赤い閃光を伴った一条の光が、夜空を切り裂くように一直線に走る。
店内に静寂が訪れた……。
誰もが何が起きたのか理解できない。砕け散ったテラスの窓。弾痕が刻まれたステンレス盆。壁に食い込んだライフル弾。
そして、虎之介のこめかみを伝う一筋の血……。
その現実だけが、今起きた出来事の凄まじさを物語っていた。
「お父さん!」
涼音は悲鳴を上げ、父へ駆け寄る。
「だ……大丈夫だ。かすり傷だよ」
虎之介は娘を安心させるように微笑み、その頭を優しく撫でた。
総介は窓の外を見据えたまま、小さく呟く。
「やはり、狙われていたのは社長さんでしたか……」
その横で、美里亜は床へ転がったステンレス盆を拾い上げ、弾痕を見つめながら困ったように笑った。
「あらあら……。お気に入りだったのに、こんなに穴が空いちゃいましたねぇ」
総介は、手にした拳銃へ視線を落とす。
「美里亜さん……この銃は、一体……?」
「それはですねぇ、電磁加速射出砲『リニアレールガン』の仕組みを極限まで小型化して、拳銃サイズにまで凝縮した『ハンドレールガン』って言うんですよ。見た目は、ただの拳銃ですけど、中身はまるで別物なんですよ!」
美里亜は事も無げに説明するが、総介は冷や汗を拭うことしかできない。
一見すれば、小さな喫茶店を切り盛りする、穏やかで天然な女性。
しかし、その正体は……、十六歳で米国マサチューセッツ工科大学バイオ工学科を首席で卒業し、博士号を取得。帰国後には医師免許まで取得した。
更に、剛性・柔軟性・伸縮性・耐久性・軽量性・耐熱性・耐冷性に優れた新素材、『チタニウム合金X』を開発したことで、『現代の錬金術師』と称される天才科学者である。
なお、『喫茶店ひだまり』の地下には、極秘研究施設が存在する。
「い……、今のは、私を狙ったの……か?」
大徳寺親子は、死の淵を覗いた恐怖に足が震え、抱き合ったまま床にへたり込んでしまった。そんな彼らを見下ろし、美里亜は商売人の顔でニコリと微笑む。
「でも社長さん、心配には及びませんよぉ! 総介さんが、お二人を全力でお守りしますから。……もちろん、別料金で!」
非常事態であろうと、彼女にとって商売の鉄則は揺るぎない。総介は天を仰ぎ、ただ深く溜息を吐くしかなかった。
「……と、ところで、彼は、一体何者なんだ……?」
虎之介は、未だ震えの止まらない指先で総介を指し、茉里華に問いかけた。
先ほどまで気の抜けた笑みを浮かべていた青年が、いとも簡単に狙撃手の存在を見抜き、危機を退けた。その姿は、もはや『ただの冴えない探偵』では説明がつかない。
茉莉華は総介の肩へ静かに手を置くと、虎之介の目を真っ直ぐ見据えた。
「彼の本業は、国際公認スイーパーです」
その一言だけで、店内の空気が張り詰める。
「身辺警護、要人救出、テロ対策、特殊任務、そして、死刑執行……。依頼内容は多岐にわたる。腕は本物です」
茉莉華は迷いなく言い切った。
虎之介は目を見開いたまま、しばらく言葉を失う。
「こ……国際公認スイーパー……」
その名を噛み締めるように呟く。
「ほ、本当に実在したのか。私は都市伝説のようなものだとばかり思っていたが……」
驚きを隠せないのも無理はない。
『国際公認スイーパー』は、その存在自体が一般社会へ公表されることはほとんどない。任務の性質上、自らの素性を秘匿することが必要条件なのだ。
茉里華は少しだけ険しい表情を崩し、視線を窓の外、闇に沈む向かいのマンションへと向けた。
「……総介、始末したのか?」
その問いに対し、総介は肩の力を抜き、穏やかな微笑みを浮かべた。
「いいえ。ただの警告です」
そして、遥か彼方のマンション屋上を冷徹に見据えた……。
◇◇◇
『ひだまり通り商店街』を一望できる七階建てマンションの屋上。
闇夜に溶け込む静寂の中、長距離狙撃用ライフルを構えたまま、ウルフ・ザ・キッドは石像のように硬直していた。
彼の背後にあるコンクリート壁には、小さな風穴が空いている。
更に、ウルフの左頬には鋭利な刃物で切り裂かれたような一直線の傷が走り、そこから流れ落ちた鮮血が頬を赤く染めていた。彼は震える指先で、その血をそっと拭う。
「……見たか、今の?」
かすれた声で呟く。
「アイツ……俺の弾丸を弾いただけじゃねぇ。撃ち返してきやがった……」
信じ難い現実だった。
「肉眼だ……肉眼で、この距離の俺を狙ったのかよ……!? ありえねぇ……そんなこと、人間が出来るはずがねぇ!」
全米のマフィアを震え上がらせ、『死神のスナイパー』と恐れられた自分が、逆に狙撃されるなど想像した事すらなかった。
彼の脳裏に、今の光景が焼き付いている。スコープ越しに見えた『奴』が、こちらを正確に見据え、一切の迷いもなくトリガーを引いたあの眼光。
ウルフは、震える手でライフルに次弾を装填し、焦燥とともにスコープへ顔を寄せた。
「ウルフ、そこまでだ。撤収する」
背後から響いたマスター・フォルシャーの冷徹な声に、ウルフは吠えた。
「何言ってんだ、マスター!? まだだ!次は必ず仕留めてやる! 今度はアイツごと……!」
カチャリ……
硬質な金属音が夜の闇に響いた。
マスターが突きつけた銃口が、ウルフの後頭部を冷たく捉えていた。
「ウルフ、戦場に『次』も『今度』もない。作戦の失敗は、そのまま『死』を意味するのだよ」
マスターの瞳には、一切の情けも慈悲もなかった。ただ、冷徹なプロの論理だけがそこにある。
「……わ、わかったよ、マスター・フォルシャー。あんたに従うぜ」
ウルフは観念し、ライフルから手を離して両手をゆっくりと上げた。
「ああ、いい子だ。ウルフ……」
マスターは銃をホルスターへ戻すと、階下を見下ろした。暗闇の中、彼は確信を深めていた。あの凄まじい反射神経と、人間離れした空間把握能力。
(間違いない……。あの男、『カマエル』……)
マスターの表情に、微かな緊張と、それ以上の愉悦が浮かんでいた。
◇◇◇
広域指定暴力団『鉄組』。
全国に千五百もの傘下組織を従え、約十万人もの構成員を擁する国内最大の暴力団組織。その頂点に君臨するのは、四代目組長・鉄眞悟である。
彼は、先代から引き継いだ潤沢な資金力を武器に、全国の中小団体を次々と吸収合併して勢力拡大を成し遂げた。
更に、海外マフィアや犯罪シンジケートとも積極的に手を結び、麻薬取引、違法金融、サイバー犯罪、違法動画配信など、従来の暴力団の枠に収まらない新たな犯罪ビジネスを次々と確立。鉄組を『巨大犯罪企業』とも呼ぶべき組織へと変貌させたのである。
都心のオフィス街、その中心で威容を誇る鉄興業本社ビル、別名『黒い巨塔』の最上階の執務室から、鉄眞悟は夜景の光を散りばめた街並みを無機質な瞳で見下ろしていた。
コン、コン、コン。
重厚な扉を叩き、眞悟の忠実なる右腕・海堂勇が、静かに歩み入る。
「……社長。例の二人組の外国人スナイパーが、大徳寺虎之介の暗殺に失敗いたしました。……それどころか、大徳寺虎之介から手を引くと申し出ております」
「フン……構わんよ。所詮は金で雇った薄汚い傭兵崩れだ。代わりなど、いくらでもいる」
眞悟は表情一つ変えず、眼下の街に煙草の紫煙を吐き出した。
「それにしても……、弁天屋物産の『本体』だけは、何としても手に入れたいものだ」
その一言には、組織の未来を左右するほどの執念が込められていた。来週には、全国の鉄組傘下の組長や幹部達が一堂に会する『定例総会』が控えている。
しかし最近、警察による大規模な摘発が相次ぎ、鉄組のフロント企業や関連団体は次々と壊滅。
資金源は大きく細り、『本家』の求心力にも陰りが見え始めていた。だからこそ、国内屈指の総合商社である弁天屋物産の経営権を掌握し、新たな莫大な資金源を確保する事が急務であった。
全国の傘下組織を束ねる『本家』として、その圧倒的な財力を誇示できなければ、鉄組の支配体制そのものが揺らぎかねない。
眞悟は冷徹な眼光を海堂に向けた。
「海堂。手段は選ぶな。この際、娘でも父親でも構わん。必ず、俺の目の前に引きずり出せ」
「……かしこまりました」
海堂は、深々と頭を下げ、重い足取りでオフィスを後にする。廊下に出るや否や、彼は携帯電話を耳に当て、低い声で命じた。
「海堂だ。……メンバーを集めろ。今すぐだ!」
◇◇◇
翌朝。
街は昨夜の衝撃的な事件のニュースで持ちきりとなっていた。新聞各紙の紙面は、警察の威信を揺るがす大失態の記事で埋め尽くされている。
『容疑者確保後の移送中に狙撃か!』
『捜査の網をかいくぐり、被疑者射殺される!』
『警視庁の大失態か? 捜査体制に厳しい批判』
テレビ、ラジオ、新聞、週刊誌……。あらゆるメディアが、この『警察の失態劇』を競うように報じた。
事態を重く見た警視庁は、捜査責任者である神崎茉里華警視自身が、釈明会見を行うことを決定し、警視庁記者クラブの特設会場には全国から報道陣が殺到した。
会見場に茉里華が姿を現した瞬間、会場内は無数のカメラのフラッシュで白く塗り潰された。
弱冠二十四歳で、『警視』の地位まで登り詰めたスーパーキャリアという肩書きに加え、モデルさながらの容姿と凛とした美貌。マスコミが放っておくはずもなかった。会見の模様は、即座に全国放送され、一部の局では特別番組まで組まれるほどの注目度で、高視聴率を記録する事は疑いようもなかった。
茉里華は壇上に立つと、一点の曇りもない瞳でカメラのレンズを見据え、淡々と口を開いた。
「昨夜の件につきまして、捜査の経緯をご説明いたします」
家宅捜査から容疑者確保に至るまでの全容。彼女は時系列に沿って、一つひとつの事実を整理しながら、捜査の経緯を丁寧に説明していく。
更に、「容疑者確保後の警備体制は適切だったのか?」「移送方法に問題はなかったのか?」「警察の対応に過失は存在しなかったのか?」といった世間の疑問についても、自ら検証結果を示しながら、誠実に説明を続けた。
その姿勢は冷静かつ毅然としており、感情論ではなく事実と根拠に基づいて語る姿は、報道陣にも強い印象を与えた。
説明を終えると、すぐさま記者団による質問攻めが始まった。
「警察の防衛体制に慢心はなかったのか?」
「なぜ狙撃を事前に察知できなかったのか?」
どの質問に対しても、茉里華は決して表情を崩すことなく、一つひとつ真摯に向き合い、誠実な言葉で丁寧に答えていった。会見場には、緊張感に満ちた空気が張り詰めていた。
◇◇◇
「ふぅ……」
記者会見という長丁場を終えた茉里華は、一息つくように『喫茶店ひだまり』の扉を押し開けた。
店内に漂う焙煎したてのコーヒーの香りが、張り詰めていた神経を少しだけ解きほぐしてくれる。
「お疲れ様でした、茉里華姉様」
美里亜は穏やかな笑みを浮かべると、茉里華専用とも言える特製の一杯、『スーパー・デラックス・ロイヤル・ストレート・アメリカンコーヒー』を丁寧に淹れ始めた。芳醇な香りをまとった湯気が静かに立ち上る。
茉里華は、金色のカップを手に取り、目を閉じて香りを楽しむと、ゆっくりと一口含んだ。
「……やはり、お前の淹れるコーヒーは格別だな」
その一言だけで、美里亜は嬉しそうに微笑む。
「茉莉華姉様、お仕事の方は大丈夫なのですか?」
朝から放送されていた記者会見の特番を見ていた美里亜は、どこか案じるような表情で問い掛けた。
茉里華は肩の力を抜き、小さく息を吐く。
「会見の後始末は部下たちに任せてきた。私が今ここにいることも、ちゃんと了承済みだ。心配はいらない」
とはいえ、今回の『容疑者狙撃事件』の責任者である以上、今後は査問委員会による審議が待っている。正式な処分が決定するまでは、軽率な行動を慎まなければならない立場である。
それでも彼女の表情には、不安よりも前を向く覚悟が浮かんでいた。
「ところで……総介達からは何か連絡があったか?」
昨夜はシノブの身柄を本庁へ移送したのが夜明け近くとなり、その後は記者会見の準備や対応に追われ続けていた。
ようやく、ひと息ついた今になって、総介達の様子が気に掛かったのである。
「いいえ。今のところは何も連絡はありません」
美里亜は静かに首を横へ振った。
茉里華はカップを置き、思案するように腕を組む。
現在、鉄組から命を狙われている大徳寺父娘には、可能な限り普段どおりの生活を送らせるため、彼女自身が警護体制を組んだ。
最も危険度の高い虎之介には、総介を専属ボディガードとして同行させる。
一方、涼音については、当面の間は自宅待機を命じ、その周囲を茉里華直属の捜査員数名が二十四時間体制で警護する事とした。
更に、不測の事態に即応できるよう、聖理奈を涼音のそばへ配置し、学習面・精神面の両方から支援させる体制を整えていた。
鉄組の『定例総会』が開かれるまで、残された時間は決して多くない。それまでに敵の動きを封じる。
茉里華は、その一点にすべてを懸け、この布陣を敷いたのである。
やがて、カップの最後の一滴まで飲み干した茉里華は、満足そうに息をついた。
「……それはそうと」
店内を見回しながら、少し呆れたように口元を緩める。
「相変わらず、この店は……むさ苦しい客ばかりだな」
常連客たちは顔を見合わせ、苦笑いを浮かべる。美里亜も「あらあら」と微笑むだけだった。
茉里華は、カウンターの上へコーヒー代三千円をきっちりと置くと、背筋を伸ばして立ち上がる。
「ごちそうさま。また来る」
短くそう告げると、彼女は店の扉を開け、昼下がりの街へと静かに歩み去っていった。
店内には再び、コーヒーの香りと穏やかな時間だけが流れる。




