第6話
「……パパ……ママ……」
見渡す限り、どこまでも続く緑の大草原……。
柔らかな陽射しが降り注ぎ、頬を撫でる穏やかな風が草花を優しく揺らしていく。風に乗って運ばれてくる草木と土の匂いは、生命の息吹に満ち、胸の奥にしまい込まれていた懐かしい記憶を静かに呼び覚ました。
遠い昔……。
まだ何も失っていなかった、幼い頃の涼音。
休日になると、母の手作りのお弁当を持って、三人でこの大草原へ遊びに来ていた。
青い空の下を駆け回り、花を摘み、虫を追いかけ、笑い声はどこまでも澄み渡る空へと吸い込まれていく。
遊び疲れて足が動かなくなると、父は決まって笑顔でしゃがみ込み、優しく背中を向けてくれた。広くて温かいその背中は、世界で一番安心できる場所だった。
頼もしく、温かいその場所で、心地よい揺れに身を任せているうちに、いつの間にか深い眠りに落ちていく。幼い涼音にとって、世界は愛と安らぎに満ちていた。
「……お父さん、ごめんね」
その言葉を最後に、景色はゆっくりと白く霞み始める。
懐かしい草原も、両親の笑顔も、穏やかな風も、すべてが朝靄が溶けるように消えていった。
涼音は、小さく肩を震わせながら目を覚ます。
(……夢?……だったんだ……)
どれほどの間、この夢から遠ざかっていたのだろう。幼い頃の、あの眩いほどの幸せな光景。
「お目覚めですか、お嬢様?」
涼音はハッと身を硬くした。意識が完全に覚醒すると同時に、奇妙な浮遊感に包まれていることに気付く。視界には、総介の背中があった。夢の中で父に背負われていたあの記憶と重なり、一瞬胸が熱くなったが、すぐに現実に引き戻される。
「な……ななな、何で、あんたが私を背負っているのよ!?」
涼音は、怒りと恥ずかしさで顔を真っ赤にし、総介の首に腕を回して力任せに絞め上げた。
「く、苦し……っ! 涼音さん、首っ……、首が取れるっ……!」
「うるさいっ! 助けてくれたことには感謝するけど、それとこれとは話が別なのよ! さっさと降ろしなさいよーっ!」
もがき苦しむ総介をよそに、美里亜は涼音の様子を慈しむように見守りながら、優しく微笑んだ。
「フフ……、元気を取り戻したみたいですね。その様子なら、ひと安心です」
「……お姉様ぁ!」
涼音が美里亜の服を掴んで甘えるように呼びかけた瞬間、総介と美里亜は顔を見合わせ、言葉を失った。
((お姉様ぁ!?))
美里亜は、『お姉様』と慕ってくれる涼音を愛おしく思い、柔らかな笑みを浮かべながら、涼音の頭を優しく撫でた。
「……と、ところで、涼音さん。先ほど、寝言でお父さんに謝っていましたよね?」
涼音の動きがピタリと止まった。
「あ……あんた、人の寝言を盗み聞きしてたのね!? 何て悪趣味な奴なの!?最っっ低!!」
涼音は総介の首を絞めたまま、今度はその頭を左右に力任せに振り回した。首が折れそうな衝撃に、総介の意識が飛びかける。
「わわわっ……! み、美里亜さん、助けて……下さ……い……!」
必死に救いを求める総介だが、美里亜は「あらあら」と楽しげに微笑むばかりで、助ける気配は微塵もなかった。
やがて、涼音は少しずつ力を抜き、総介の背中で力なく呟いた。
「……私ね。私とお父さんを置いていったあの女が、どうしても許せなかったんだ」
堰を切ったように、涼音は二人に本音をこぼし始めた。
「もし会うことができたら、大嫌いなその顔に、一発でもいいから思い切り平手打ちを食らわせてやりたかった。……本当は、ただそれだけの理由だったのよ」
涼音の震える言葉には、三年もの間、心の中に閉じ込めていた、行き場のない怒りと、それ以上に深い悲しみが隠されていた。
◇◇◇
事の始まりは、二週間前にさかのぼる。
その日も、涼音はいつものように車の後部座席へ身を預け、ぼんやりと窓の外を眺めていた。
夕暮れに染まる駅前通り。
交差点で信号待ちをしていると、隣に一台の黒いスポーツカーが止まった。
何気なく視線を向けた、その瞬間、涼音の鼓動が止まりそうになった。
「……うそ!?」
運転席に座っていたのは、忘れようとしても忘れられない男。
かつて、歓楽街で母と肩を並べて歩いていた男。
自分と父を捨て、母を奪っていった男、『鈴木マナブ』だった。
記憶の中より少し雰囲気が変わってはいたものの、その横顔を見間違えるはずがない。
怒り、憎しみ、悲しみ……。
胸の奥へ押し込めていた感情が、一瞬にして込み上げてくる。
やがて信号が青へ変わった。マナブの車は軽くアクセルを踏むと、左折して繁華街の雑踏へ消えて行った。
涼音は、その姿を呆然と見送りながら、心の中で一つの考えに取り憑かれていた。
(マナブさえ見つけられれば、お母さんに会えるかもしれない……)
その思いだけが、膨れ上がっていった。そして、その夜からだった。
涼音は誰にも知らせることなく、毎晩のように繁華街へ足を運び、マナブの姿を捜し続けるようになったのである。
「それで、あの『キャサリン』という姿になったんですね?」
総介は以前から胸に引っ掛かっていた疑問を口にした。
「……そうよ」
涼音は少し照れ臭そうに視線を逸らす。
「私……、マナブにも、顔を知られているしね。私服でうろついて、万が一知り合いに見つかったら面倒だし。カムフラージュよ、カムフラージュ。それに……」
そこで言葉が途切れる。
頬がみるみる赤く染まり、耳まで真っ赤になっていく。
「……それに?」
総介が首を傾げる。
涼音は観念したように小さく息を吐き、ぶっきらぼうに言った。
「……一度くらい、あんな格好をしてみたかったのよ」
その一言に、総介は思わず吹き出してしまう。
「プフッ……、そういう理由だったんですね。似合っていて、とても可愛かったですよ」
「なっ……!」
涼音の顔は一気に真っ赤になった。
「ちょっ……! あんた、今笑ったでしょ!?アンタなんかに言われたくないわよ!アンタにだけには!」
涼音は再び総介の背中の上で暴れ始めた。
「このっ!いい加減に降ろしなさいよ!」
涼音が、背中の上で手足をばたつかせるたびに、総介の身体は大きく揺れる。
「わっ、ちょっ……!涼音さん、本当に落ちますって!」
総介は必死に体勢を立て直しながら、美里亜へ助けを求めるような視線を送った。
「み、美里亜さん……お願いです、助けてください!」
しかし、美里亜はそんな二人のやり取りを見つめると、口元へそっと手を添え、クスッと優しく微笑むだけだった。
三人は、今後の対応を話し合う為、このまま『喫茶店ひだまり』へ戻ることにした。
◇◇◇
『喫茶店ひだまり』では、聖理奈と共に虎之介も待っていた。警察から連絡を受けた虎之介は、得意先との接待の最中だったにもかかわらず、強引に切り上げ、大急ぎで駆け付けて来たのだ。
虎之介は、涼音の無事な姿を目にした瞬間、椅子を蹴るような勢いで立ち上がった。彼は駆け寄るなり、涼音を強く抱き締めた。
「ち……ちょっと、やめてよ! 放してってば!」
涼音は虎之介の腕から逃れようと、必死にもがく。
「良かった……。お前が無事で、本当に良かった!」
虎之介の目には大粒の涙が浮かび、その声は震えていた。普段は厳格な経営者として知られる父が、今は子供のように肩を震わせている。その姿を見た涼音の心から、強がっていた鎧が剥がれ落ちていった。
涼音は、もがくのをやめ、父の顔を両手でそっと包み込んだ。そして、自身の内側に三年間押し込めていた孤独と、父親を一人にしてしまったという後悔を吐き出すように、掠れた声で呟いた。
「ごめんね……、お父さん……」
店内の照明が、再会した二人の影を優しく照らしていた。
◇◇◇
「ターゲット確認。……どうだね、ウルフ?」
「問題ないぜ、マスター・フォルシャー!」
ネオンが妖しく煌めく駅前ビルの屋上。夜風が吹き抜けるその場所に、二つの黒い影が静かに身を潜めていた。
黒のスーツを完璧に着こなした『マスター・フォルシャー』と呼ばれるロマンスグレーの紳士。年齢は六十代半ばほど。穏やかな物腰とは裏腹に、その鋭い眼光には幾多の修羅場を潜り抜けてきた者だけが持つ冷徹さが宿っている。
彼は、高性能電子スコープを覗き込み、『クラブ曖昧』周辺の様子を静かに監視していた。
その傍らには、相棒である白人青年『ウルフ』が腹這いになり、長距離狙撃用ライフルを構えている。
無駄のないフォーム。
微動だにしない銃口。
まるで獲物を狙う肉食獣そのものだった。
「距離……、八百。計算上は誤差ゼロだ。行けるかね?」
ウルフは冷徹な笑みを浮かべ、ライフルのスコープ越しに標的を捉えた。
「俺を誰だと思ってるんだ、マスター? 全米のマフィア共を震え上がらせ、葬り去ってきた最強のスナイパー、『ウルフ・ザ・キッド』様だぜ!」
狙撃距離八百メートル。
風速、湿度、気温、弾道。
すべてを一瞬で計算し終えたウルフは、静かに呼吸を整える。
人差し指が、ゆっくりと引き金へ添えられた。
「よく見てな、マスター」
口元に獰猛な笑みが浮かぶ。
「これが、日本での俺のデビュー戦だ!」
次の瞬間。
静寂を切り裂くように、サイレンサー越しの乾いた銃声が夜空へ溶けた。
計算し尽くされた一発の弾丸は、風を読み、夜気を裂き、寸分の狂いもなくターゲットへと吸い込まれていった……。
◇◇◇
「は〜い、皆さん、お待ちかねのホットミルクですよぉ。たっぷり温まってくださいね!」
美里亜がカウンターに並べたのは、彼女特製のホットミルク。ほんの少々のバターと蜂蜜を溶かし込んだその一杯は、まろやかな口当たりと優しい甘みが広がる、『喫茶店ひだまり』の隠れた看板メニューだ。
「……本当に、美味しいです。お姉様!」
涼音が感激したように瞳を輝かせ、小さく微笑んだ。
((お姉様ぁ!?))
聖理奈と虎之介は、思わず顔を見合わせる。
(いつの間にそんな関係になったのか?)
二人とも同じ疑問を抱きながらも、口には出さなかった。
ひと時の安らぎ。ようやく事態が収束に向かったかと思われたその時、聖理奈だけは、複雑な表情で虎之介に視線を向けた。
「社長、実は確認しておきたい事が……」
聖理奈が口を開きかけた瞬間、店の外から近所迷惑なイタリア製スポーツカーのエンジン音が響き渡り、店内の空気が一変した。
カランカランッ!
ドアが乱暴に開け放たれる。現れたのは茉里華だった。彼女は冷徹な面持ちのまま、男の首根っこを掴み、店内に放り投げた。
転がり込んだのは、『クラブ曖昧』のナンバーワンホスト・シノブだ。彼は恐怖のあまり、身体を震わせ、ガタガタと歯を鳴らしていた。
「あら、茉里華姉様……いったい、どうしたんですか?」
美里亜がカウンターから歩み寄り、怯えるシノブにそっと手を差し伸べた。茉里華は、怒りと焦燥が混じった厳しい瞳で一同を見渡した。
「どうしたもこうしたもない。鈴木マナブが、……狙撃された」
店内が静まり返る。涼音の顔から血の気がサーッと引き、言葉を失って震え始めた。
マナブの身柄を本庁へ移送すべく、パトカーへ乗り込もうとしたその一瞬、何者かによる狙撃が行われたのだ。捜査官が周囲を固めていたにもかかわらず、その銃弾は正確にマナブを射抜いた。
「鉄組が接触していた例の二人組……、あの外国人スナイパーの仕業に違いない!」
茉里華の分析は鋭い。マナブが口を割れば、鉄組の全貌が白日の下に晒される。それを恐れた組織が、口封じのために『消した』のだ。
「問題はここからだ。マナブに一番近い存在であり、組織の裏事情を知りすぎているこの男が、次の標的になる可能性が高い」
シノブをこの場所に連れてきた理由を告げ、茉里華は鋭い眼光を彼に向けた。
「ここから放り出されたくなければ、隠さずすべてを話すことだな!」
茉里華は、恐怖で腰を抜かしているシノブの胸ぐらを掴み上げると、そのまま床へと冷たく突き放した。
彼女の苛立ちは頂点に達していた。目前で最重要参考人を狙撃され、警察の威信は地に落ちた。この失態を挽回できるのは、シノブの口から出る証言のみだった。
死の恐怖に直面したシノブは、もはや組織への忠誠心など欠片も残っていなかった。茉里華の鋭い追及に、彼は堰を切ったように自供を始めた。
鉄組が裏で牛耳っていた、おぞましい犯罪の数々が、次々と露呈していく……。
麻薬や覚醒剤の密売ルート、世界を股にかけた違法アダルトサイトの収益、カルト的な霊感商法やマルチ商法、更には企業を食い物にする執拗な恐喝と、口を封じるための殺人……。
それは一個の暴力団の悪事を超え、都市の暗部を支配する巨大な病巣そのものだった。シノブの克明な証言は、警察がこれまで掴みきれずにいた鉄組関連団体の裏付け捜査を劇的に加速させる鍵となった。
「ほ……本当に、俺を守ってくれるんだよな!? 俺、店長みたいになりたくな……い……!」
一通り話し終えると、シノブは縋り付くように茉里華の足首に手を回し、涙と鼻水で顔をくしゃくしゃにしていた。茉里華は冷ややかにシノブを見下ろし、確信に満ちた声で言い放った。
「心配するな」
そう言って親指で総介を指し示した。
「そこにいる男は、まあまあ頼りになる」
一瞬、店内が静まり返る。全員の視線が、一斉に総介へ集中した。
突然の事に総介は目を丸くする。
「い、いやぁ……そんな大したものじゃありませんよ。あははは……」
総介は、照れくさそうに頭を搔きながら、いつものように気の抜けた笑みを浮かべる。
「ち、ちょっと待ってよ、茉里姉! 勝手に物事を決めないで!」
突然、聖理奈が会話に割って入った。彼女の瞳には、法務顧問として状況を冷静かつ客観的に見極めようとする理性と、大徳寺家を案じる秘めた想いが複雑に交錯していた。
「総ちゃんは、まだ調査の真っ最中なんだよ! それに私だって、大徳寺社長に……いえ、涼音さんにも、どうしても確認しておかなきゃならない事があるのよ!」
聖理奈は、鞄から数枚の資料を取り出し、虎之介の眼前に突きつけた。その視線に射抜かれ、虎之介は言葉を失う。
「社長、正直に答えてください。そして涼音さん、これから私が話すことを一言一句聞き逃さないで!」
語られたのは、先日、聖理奈の呼び掛けにより、虎之介を除いた取締役会の役員と顧問税理士による、極秘の会合で明らかになった、弁天屋物産の『隠された闇』だった。
国内屈指の優良企業として知られる弁天屋物産だが、三年前、深刻な不況の煽りを受けて倒産の危機に瀕していた。
どの銀行も融資を拒絶する中、唯一救いの手を差し伸べた金融業者がいた。それが『鉄興業』、すなわち、鉄組のフロント企業である。
無担保・低金利という甘い蜜に釣られた虎之介は、巨額の融資を受け入れた。再建は成功し、会社は更に成長を遂げた。しかし、その裏では虎之介と早苗の離婚という不可解な事態が発生していた。
そして何より異様なのは、離婚から三年経った今もなお、虎之介にかけられた高額な生命保険の受取人が、元妻・大徳寺早苗のままになっているという事実だった。
「そ、それは……」
虎之介の額から、嫌な脂汗が噴き出す。聖理奈が突きつけたのは、単なる事務的な指摘ではなかった。
「……た、担保だよ」
シノブが震える声で割り込んだ。ホストとして鉄組の末端にいた彼にとって、これは慣れ親しんだ手口だった。
「万が一の返済不能時に備えて、債務者に莫大な保険をかけさせ、受取人を身内に指定させる。そしてその身内を鉄組が人質に取る……。それが本家(鉄組)のやり方だよ」
「……!」
すべてを理解した涼音の顔から血の気が失せた。彼女は、虎之介の胸ぐらを掴み、激しく揺さぶった。
「お父さん! 知ってたの!? それを知りながら『お母さんは私たちを捨てて男と逃げた』なんて嘘をついたの!?」
「……すまん、涼音……。だが、私は……家族と、社員達の生活、その両方を守るためにどうしようもなかったんだ」
虎之介は、苦渋に満ちた表情で語った。当時、会社の窮地を察した早苗が、知人から紹介された『鈴木マナブ』を窓口に、自ら鉄興業との契約に署名したのがすべての始まりだった。
虎之介は会社を再建し、借金を完済すれば早苗を取り戻せると信じ、文字通り身を削って働いた。しかし、本当の地獄は、借金を返してから始まったのだ。
「借金を完済した途端、今度は妻の身柄と引き換えに、更なる金を要求されるようになった。しかも、生命保険の解約すら許されない……」
鉄組の要求は、一度支払えば終わるものではなかった。愛する妻を人質に取られた虎之介は、会社を成長させればさせるほど、鉄組の金の成る木として深く絡め取られていったのである。
「……警察には、ご相談されたのですか?」
静まり返った店内で、美里亜が静かに問い掛けた。
虎之介は力なく俯き、小さく首を横に振る。
「警視さんが居る前で申し訳ないが……、警察は、『鉄組』の事では動いてくれない……」
その声には、長年抱え続けてきた諦めと無力感が滲んでいた。
「何度も相談したさ……。だが、結果は何も変わらなかった……」
虎之介は苦しげに目を閉じる。
「フッ……、それは当然だ」
不意に、シノブが乾いた笑いを漏らした。
「『サツ』の中にも、『鉄組』の協力者がいるからな」
店内の空気が一変する。
「金で転ぶ奴もいれば、弱みを握られて従う奴もいる。事件を揉み消すことなんて、いつもの事さ」
シノブは、自嘲するように肩をすくめた。その言葉に、茉莉華は鋭い眼差しをシノブへ向ける。警察官として、決して聞き流せる話ではない。
だが、その表情に驚きはなかった。
これまでの捜査で、組織犯罪の背後には警察内部の情報漏洩があることを、認識していたからだ。
それでも、こうして当事者の口から明かされると、その腐敗の根深さを改めて痛感せずにはいられなかった。
「……申し訳ない。その事については、現在、調査中だ。必ず、結果を出す」
茉莉華は静かに、そして力強く言い放った。その瞳には、警察官としての揺るぎない覚悟が宿っていた。
「……だからこそ、『鉄組』とのゴタゴタに涼音さんを巻き込みたくなかった。その一心で、あえて『嘘』をついた……ということですか?」
総介の核心を突く指摘に、虎之介は黙ってうなずいた。
「涼音には、妻の事を忘れて、前を向いて歩いて欲しかったんだ……」
しかし、結果的にその『嘘』は、裏目に出る事となった。
店内に重苦しい沈黙が降りた。涼音の瞳からは怒りの炎が消え、父のあまりに深い絶望と、その無力さを知ったことによる虚無感が広がっていた。




