第10話
涼音は、暗闇の中を漂っていた。
どこまでも続く、果てしない闇。
何も見えない。何も聞こえない。
音も、光も、時間の流れさえ存在しない、漆黒の静寂……。
そこは、誰も踏み込むことのできない、涼音だけの世界だった。
孤独だけが、静かに彼女を包み込んでいる。
やがて、闇の彼方から、一筋の柔らかな光が差し込んだ。
その光は人の手の形を取り、涼音の目の前に優しく差し出された。涼音は導かれるように手を伸ばし、その温もりに触れる。
指先が触れた瞬間、柔らかな温もりが全身へ広がる。不思議だった。
ただ握られているだけなのに、胸を締め付けていた不安が少しずつ溶けていく。涙が出そうになるほど、安心できる温もりだった。
その時、聞き覚えのある声が耳元で優しく響いた。
「大丈夫ですか、涼音さん?助けに来ましたよ」
(……夢?)
涼音の胸が小さく揺れる。そして、夢の輪郭が溶け始めた。
(なんで……?)
(なんで、あんな奴が夢に出てくるのよ?)
思わず頬が熱くなる。しかし次の瞬間、その温もりは霧が晴れるように消え去った。
「痛ッ……!」
鋭い頭痛が彼女を現実へと引き戻す。重たい瞼を開けると、そこは見知らぬマンションの一室だった。
頭はズキズキと脈打ち、薬の残滓が全身を鈍らせている。
涼音は、ふらつく足取りで玄関へ向かい、ドアノブを回した。しかし、扉はびくともしない。外側から厳重に施錠されているのだ。
「どうして、こんな……」
逃げ場のない現実に、涼音は壁にもたれかかり、その場に崩れ落ちた。絶望に震える彼女の背後から、静かに声がかかった。
「あんたも、親の借金の肩代わりに連れて来られたのかい?」
振り返ると、そこには三十代半ばと思われる一人の女性が立っていた。どこか、疲れ切った表情を浮かべているが、その眼差しだけは優しかった。
涼音は言葉を失い、ただ呆然と見上げる。
「私は美香。……あんたは?」
「涼音……です」
美香は、冷え切った涼音の手を引くと、奥の居間へと案内した。
十畳ほどの空間には、既に二人の女性が座り込み、虚ろな目をしてテレビを眺めていた。その瞳には生気がない。まるで、感情を失ってしまったかのようだった。
「二人とも、新しい子が来たよ。ほら、あんたも挨拶しな」
「す、涼音です」
涼音は、小さく頭を下げた。しかし返事はない。部屋の中を重苦しい沈黙だけが流れていた。
美香はそんな涼音の表情を見ると、小さくため息を吐いた。
「まだ何も知らないんだね……」
そう呟くと、静かに話し始めた。
「ここは鉄興業本社ビルの一室だよ」
その一言に、涼音は息を呑む。
「この階には、私達みたいな『人質』を閉じ込める為の部屋が、いくつもあるのさ」
涼音は、美香の『人質』の言葉にピクッと反応した。
「そして、このビルには、私達と同じ境遇の『人質』が何人もいるんだよ」
涼音の表情が凍り付く。
「ここにいる『人質』はみんな、親や家族が背負った借金の『担保』として、鉄組に連れて来られたんだ」
その言葉を聞いた瞬間、涼音の脳裏に、シノブが語っていた鉄組の忌まわしい事実がよみがえる。
(親族を人質に取り、借金を返済させる……)
返済出来なければ、人質を犠牲にするか、自らを犠牲にするか……。
涼音は、拳を握りしめた。そして、震える声で問い掛けた。
「大徳寺早苗……っていう人を知りませんか?」
『母は、ここにいるかもしれない……』
その一縷の望みを胸に、美香を見つめた。
美香は一瞬だけ目を伏せる。そして、どこか複雑な表情を浮かべながら、小さく口を開いた。
「ああ、その人なら……」
ガチャリ……
美香が口を開くより早く、玄関の重い扉が勢いよく開かれた。現れたのは、金髪と茶髪を派手に染め上げた二人の若い組員だ。
「お前か? 海堂さんに拉致られてきたっていう女は」
金髪の男は、値踏みするように涼音を上から下まで執拗になぞる。
「ふーん……、噂通り、結構いい面してんじゃん!」
男は、いやらしい笑みを浮かべ、涼音の頬を馴れ馴れしく指先でなぞった。
「っ、やめて!」
涼音が咄嗟に手を振り払うと、金髪の男は顔色を変えた。逆上したのか、容赦なく涼音の頬を殴り飛ばした。
不意打ちに倒れ込んだ涼音を、男は執拗に蹴り上げようとする。茶髪の男が慌ててその身体を羽交い締めにして止めた。
その時、喧騒を切り裂く冷徹な声がフロアに響いた。
「……まったく。使いの一つもロクに出来ねえのか」
業を煮やした鉄眞吾が、上のフロアから下りて来たのだ。
「か、頭ぁ……!」
構成員達が戦慄する。眞悟は、頬を腫らして床に這いつくばる涼音を一瞥し、金髪の男を冷たい眼差しで射抜いた。
「俺は、大徳寺の娘を『丁重に』連れて来いとだけ言ったはずだがな……」
眞悟の手が、すっと懐へと潜り込む。
「だってよお、こいつが先に俺の……」
パンッ!
乾いた破裂音が響いた。
次の瞬間、金髪の男の頭部が跳ね、側頭部から鮮血が噴水のように吹き出した。男は涼音の目の前で、何が起きたのかも理解できぬまま崩れ落ちる。
「ひっ……!」
涼音は、喉が張り付いたかのように、声にならない悲鳴を上げた。
目の前で、人が何の躊躇もなく殺されたのだ。その現実を脳が受け入れられず、全身が小刻みに震える。
金髪の男から溢れ出した大量の血液が、灰色のカーペットをどす黒く塗り潰していく。
眞悟は表情一つ変えず、恐怖に震える涼音を横目に、茶髪の男へと短く命じた。
「片付けておけ」
「へ、へいッ!」
茶髪の男は、震える手で金髪男の死体を引きずって行った。鉄眞悟という男の底知れぬ狂気が、涼音の心を凍りつかせていた。
◇◇◇
涼音は、鉄興業本社ビル最上階の鉄眞悟のオフィスの白いソファに腰掛けている。重厚な扉が閉まる音が、静まり返った室内に響く。
「お嬢ちゃん。うちの若い者が、手荒な真似をして悪かったな」
眞悟は穏やかな口調で言った。
「……」
涼音は、俯いたまま沈黙した。肩は小刻みに震え、両手は固く握り締められている。
「人が死ぬところを見るのは、初めてだったか?」
眞悟はゆっくりと隣へ腰を下ろす。
涼音は反射的に身を強張らせ、少しでも距離を取ろうと身を引いた。
「人間なんてものは、案外あっけない。ほんの一瞬で、この世から消えちまう」
眞悟は薄く笑いながら、涼音の反応を観察するように見つめていた。
「さっき、お前を殴った奴もそうだ。引き金を引いた途端、何もかも終わった」
その言葉に、涼音の脳裏には先ほどの光景が鮮明によみがえる。
床へ崩れ落ちる男。広がっていく赤い血。耳に焼き付いて離れない銃声。
「……っ」
恐怖に息が詰まり、身体が震え始める。
眞悟は、涼音の様子を面白そうに眺めながら口元を歪めた。
「さすがは早苗の娘だな。目元が似ている」
その一言に、涼音はハッと顔を上げる。
「お、お母さんを……知っているんですか?」
震える声で問い掛ける。
この男なら、母の居場所を知っている。そんな一縷の望みにすがるしかなかった。
眞悟は、意味深な笑みを浮かべた。
「その女の事なら、マナブが詳しかったな……。もっとも、あいつはもう死んじまったがな。ハハハハハ!」
冷酷な笑い声が、広いオフィスに響き渡る。
涼音は言葉を失い、ソファの隅で身体を小さく丸めた。胸を締め付ける絶望。母の安否も分からない。父とも引き離され、自分にはもう何も残されていないような気がした。
(お父さん……、もう……私、一人じゃ耐えられない……)
涙が静かに頬を伝う。
全身から体温が奪われていくような感覚の中で、涼音は心の奥底で、ただ一人の姿を思い浮かべた。
(助けて……、総介……)
◇◇◇
病院を出てからどれほど歩いたのか、総介には分からなかった。あてもなく彷徨い、気が付けば、昨夜の事件現場に立っていた。
警察による現場検証が終わり、いつもと変わらぬ静かな住宅街の風景が戻っている。だが、アスファルトには聖理奈の血痕が、未だ点々と残っている。
昨夜、この場所で聖理奈は車から投げ出された。駆けつけた総介が抱きかかえた時、指先に纏わりついた生温かくヌルッとした感触……。
あの感触だけは、今もなお鮮明に残っている。
総介は静かに両手を見つめた。その手にポツリと雨粒が落ちる。やがて雨脚は次第に強まり、冷たい雨が全身を濡らしていく。
「……聖理奈さん、本当に……すみません。僕が、もっと早く……来られたなら……」
(あの時も、こんな雨だった……)
総介の脳裏に、あの日の記憶がなだれ込んで来る……。
◇◇◇
降りしきる雨。
辺り一面に積み重なる瓦礫。
そして、無数の亡骸。
その中心で、瓦礫に身体を挟まれ、傷だらけになりながらも微笑んでいる、一人の少女……。赤い髪を雨に濡らしたリノアという名の少女。
「くっ……ごめんなさい、リノア……。僕が……もっと強ければ……」
涙を流す総介の頬を、リノアは震える指先で優しく撫でた。
「本当に……泣き虫なんだから……、ソースケは……」
息も絶え絶えになりながらも、彼女は微笑む。
「男の子なら……もっと……強く……なりなさい……」
その笑顔は、今も総介の胸に深く刻み込まれている。
◇◇◇
(リノア……)
(また僕は、大切な人を守れなかった……)
あの日の後悔は、決して消えることはない。そして、その傷口が再び大きく開こうとしている。過去の記憶が、現在の悔恨と混ざり合い、総介の心臓を重く締め付ける。
「……聖理奈が無事でよかった。お前のお陰だ、総介」
背後から静かな声が聞こえた。
振り返ると、そこには茉里華が立っていた。彼女は無言のまま傘を差し出すと、総介の隣へ並んだ。
しばらくの沈黙。やがて、茉里華が口を開いた。
「スコットランドヤードでの研修時代。現地では、管理職としての心構えを学ぶため、私はいつも上司に同行していた」
茉莉華は遠くを見つめながら続ける。
「向こうでは、殉職者が出ることも珍しくなかった。上司は、その度に遺族のもとを訪れ、訃報を伝えた。その光景を私は、何度も目の当たりにしてきた……」
茉莉華の唇が、僅かに震える。
「報告を受けた遺族が崩れ落ち、泣き叫ぶ姿……。その前で、上司はどれほど胸を痛めていたのか。当時の私には、その重圧を想像することしかできなかった」
茉莉華の傘を握る手に力が入る。
「まさか……、今度は私に、その役目を担う日が来るなんてな……」
茉莉華は苦く笑い、ゆっくりと目を閉じた。
昨夜、大徳寺邸を警護していた若い捜査官の一人は、首筋に二発の麻酔針を射ち込まれていた。
一発では意識を失わなかった為、二発目を撃ち込まれたのだ。
その結果、麻酔薬の過剰投与によるショックで、彼は命を落とした。
「彼は、母親と二人暮らしだった……。私は今日、その母親に訃報を伝えに行った」
思い出すだけで胸が締めつけられる。
「『息子を返してください!』って……泣きながら私にすがりついてきたよ……」
言葉はそこで途切れた。
茉里華は静かに傘を閉じる。冷たい雨が彼女の肩を打つ。そして総介の背中へ、そっと額を預けた。
「……辛かった。本当に、辛かったんだよ……総介」
震える声で続ける。
「私は……もう二度と、あんな思いはしたくないよ。これ以上、誰かが大切な人を失って泣く姿なんて……見たくないよ!」
一度深く息を吸い込み、茉里華は静かに、しかし強い意志を込めて言った。
「だから頼む。奴らを……。鉄組を……」
「……潰してくれ」
降りしきる雨が、二人の涙を隠すかのように、静かに濡らし続けていた。




