第11話
涼音は、眞悟のオフィスから部屋へ戻されると、そのまま部屋の隅で膝を抱え、小さく身体を丸めていた。
同室の女性たちは、その姿を目にしながらも、誰一人として声を掛けようとはしない。
『他人には干渉しない』
それが、この場所で生き延びるための暗黙の掟だった。
いつ自分に災厄が降りかかるか分からない極限状態で、他人を気遣う余裕など誰にもない。借金の返済が不可能と判断されれば、待っているのは臓器の提供か、自らの身体を売ることによる返済。
この場所に希望など存在しない。あるのは、終わりの見えない閉塞した日常と、いつ自分の番が来るのかという死への恐怖だけだった。
美香は、そんな監禁生活を、もう三年近くも耐え続けていた。
すべての始まりは、母親の手術費を工面するために父親が背負った借金だった。
事業に失敗した父が救いを求めた先は、『鉄興業』。そこで結ばされた契約はあまりに残酷だった。
自らに三千万円の生命保険を掛け、受取人を娘・美香とすること。そして、返済期限は三年。
父親は家族を守る為、その契約書に震える手で署名した。
しかし、その借金で救おうとした母親も、懸命な手術の甲斐なく、昨年息を引き取った。そして今日が、その返済期限の最終日だった。
「……大丈夫かい、涼音ちゃん」
美香は静かに歩み寄ると、震え続ける涼音の背中を優しくさすった。
「こんな可愛い子に……本当に、ひどい事をする連中だよ」
その温もりに触れた瞬間、涼音の震える唇がわずかに動いた。
「……アイツは来る」
かすれた声だった。
「きっと……必ず、助けに来てくれる……」
涼音が絞り出すような声で呟く。その言葉に、美香は胸が締め付けられる思いがした。
「アイツって……?」
涼音は、救いを求めるように『総介』の名前を口にした。
ここへ連れて来られた経緯、母の事、そして総介という希望。涙ながらに語られる言葉を聞くほどに、美香の胸には重い鉛が沈んでいく。
「……あんたも、若いのに苦労してるんだね。でも、あんたには総介さんっていう『希望』があるじゃないか」
美香は、涼音の瞳をまっすぐに見つめて微笑んだ。
それは、ひどく優しい『嘘』だった。
(……ごめんね、涼音ちゃん。そんな希望、ここには存在しないのよ……)
この部屋に引きずり込まれた者が、生きて出られた試しなどない。長く続く監禁生活の中で、美香はあまりに多くの『消えた人間』を見てきた。涼音の母、早苗の末路も……。
「それに、早苗さんの事だって……」
美香は言葉を飲み込んだ。真実を告げることは、涼音から最後の一滴の希望を奪うことだと知っていたからだ。
美香の手は、涼音の背中から離せなかった。今の涼音にとって、その嘘だけが唯一の『生きる理由』なのだから……。
◇◇◇
ガチャ……
重い扉が開き、組幹部らしき男が二人の舎弟を従えて部屋へ入って来た。
男は美香の姿を見つけると、薄笑いを浮かべながら口を開く。
「おい、美香。お前の親父さんよぉ、……くたばったぜ!」
「……!」
その一言が、美香の胸を鋭く貫いた。
男の話によれば、その日の昼頃、下町の古びたアパートで、美香の父親が首を吊っているのを大家が発見したという。
遺体の傍らには、小さなテーブルが置かれ、その上には短い遺書と三千万円の生命保険証券が並べられていた。
遺書には、ただ一言。
『ごめんな、美香』
それだけが震える文字で綴られていたという。
「お父ちゃん……」
美香はその場に崩れ落ち、声を殺して涙を流した。しかしその胸の奥には、ほんのわずかな希望も芽生えていた。
父が命と引き換えに残してくれた保険金で、借金は返済されるのではないか。もしかしたら、自分はここから解放されるのではないか。
そんな淡い期待だった……。
だが、その希望は次の瞬間、無惨にも踏みにじられる。
「三千万じゃ足りねぇんだよ!」
男は冷たく言い放った。
「借金の元金に利息、保険料。それに、お前を三年間飼ってやった生活費もある」
鼻で笑いながら続ける。
「全部差し引いたら、まだ返済が残る。」
「そ……そんな……」
美香は力なく首を落とした。
男は一歩近づき、その腕を乱暴に掴む。
「約束通り、身体で払ってもらうぜ!心臓一つで借金が消えるんだ。安いもんだろ?」
「いやだっ!」
美香は必死に腕を振りほどき、部屋の奥へ逃げ出した。
「死にたくないっ!」
涙を流しながら叫ぶ。
「私は……、まだ生きるんだーーっ!」
狭い部屋の中を逃げ回るが、多勢に無勢だった。舎弟達は、すぐに美香を取り押さえた。
なおも抵抗を続ける美香へ、男達は容赦なく拳や蹴りを浴びせた。何度倒れても立ち上がろうとする。それでも暴力は止まらない。
やがて美香は動かなくなり、ぐったりと力を失った。男達は両腕を掴み、そのまま部屋の外へ引きずっていこうとする。
「やめて!」
涼音はとっさに飛び出し、美香の腕へ必死にしがみついた。
「お願い! 美香さんを放して!」
舎弟は苛立ったように涼音の手を払い除ける。
涼音は勢いよく床へ倒れ込んだ。それでも必死に手を伸ばす。
男達は振り返ることもなく、美香を廊下へ連れ去っていく。
「涼音……ちゃん……」
美香は最後の力を振り絞り、かすれた声で微笑んだ。
「あんたの……希望を……信じなさい……」
息を切らせながら、それでも言葉を紡ぐ。
「その人は……必ず……来るから……」
パンッ……!
乾いた銃声が、静まり返ったフロアに響き渡った。
その直後、すべてが静寂に包まれる。
床に伏したまま手を伸ばし続ける涼音の前で、重い扉はゆっくりと閉じられていった。
「美香……さん……」
涼音の瞳から、大粒の涙があふれ落ちる。
その場に崩れ落ちた涼音へ、同室の女性二人が静かに歩み寄った。
「……これで分かったでしょう?」
一人が涼音の肩を抱き起こす。
「私達も、いつかはあの人と同じ運命を辿る」
もう一人が、諦めきったような声で続けた。
「ここにあるのは、終わりの見えない退屈な毎日と……最後に待っている『死』だけ……」
二人はそれだけ言い残すと、何事もなかったかのように居間へ戻り、再び無言でテレビを見始めた。
その姿は、絶望に慣れきってしまった者たちの末路そのものだった。
涼音は床に座り込んだまま、涙を拭う事も出来ず、小さく拳を握り締めた。
(それでも、私は……信じてる……。アイツが来るのを……)
◇◇◇
虎之介の最初の依頼から、ちょうど二週間目の朝。
『喫茶店ひだまり』が入居するマンションの二階の一室で、総介は朝から慌ただしく『何か』を探していた。
「おかしいですね……。確か、この辺りにしまったはずですが……」
クローゼットの奥や収納棚を次々と開けながら、小さく首を傾げる。
「探し物って、これのことですか?」
その背後に、いつの間にか美里亜が立っていた。
美里亜の手には、二本の大型ナイフが握られていた。彼女の腕の半分の長さほどもある、独特の反りを持つ刃。獲物を一撃で断ち切るために生み出された『ククリナイフ』である。
「な……なぜ、美里亜さんがそれを……?」
総介は、戦慄に近い驚きを隠せずに尋ねた。このナイフは、彼の過去を象徴する忌まわしい道具だ。他人の目に触れさせることなど、本来あってはならない。
数え切れない戦場を潜り抜け、生と死の狭間で握り続けてきた『相棒』。そして、決して他人には見せたくない『殺戮の記憶』でもある。
「たまにはメンテナンスをしておかないと。刃も心も、錆びついてしまいますから」
美里亜は、悪戯っぽく微笑んだ。
「これがないと、お仕事になりませんよね?」
美里亜から受け取ったナイフは、見違えるほど磨き上げられていた。使い込まれた刃に刻まれていたヒビや傷は丁寧に補修され、美里亜が開発した新素材『チタニウム合金X』がコーティングされている。
驚くほどの軽さと強度、そして鋭い殺気を宿したそれは、もはや新品以上の輝きを放っていた。
「それと、もう一つ。秘密兵器ですよ」
美里亜が広げたのは、黒地にラメが散りばめられた一着のジャケットだった。これもまた『チタニウム合金X』を繊維化して編み込まれた、総介専用の防弾・耐刃ジャケットだ。
「あ……ありがとうございます。美里亜さん」
美里亜は着せるのを手伝うように、総介の背後に回り込み、袖を広げる。
総介が遠慮がちに腕を通すと、美里亜はそのまま総介を背後から優しく抱きしめた。
「……総介さん。あなたにどのような過去があろうとも、私達は信じています。その事だけは、忘れないでくださいね」
背中越しに伝わる体温。美里亜は総介の首筋に、そっと口づけを落とした。
その一言が、総介の凍りついた心に熱を灯す。
「……いってらっしゃい」
「……いってきます」
総介は、胸元に置かれた美里亜の手を一度だけ強く握り返し、ゆっくりと腕を解いて部屋を後にした。
美里亜は、扉が閉まった後の静寂の中、天井を見上げて小さく溜息を吐く。
「……あんなに広い背中だったなんて、今まで気が付きませんでしたよ。総介……」
窓から差し込む朝の光が、静かな部屋を優しく照らしている。
◇◇◇
総介は、聖理奈が入院している記念病院へと足を運んだ。
受付を済ませ、病室のドアを開ける。室内は、見舞いの花束や果物で溢れかえっていた。その中には、『ひだまり通り商店街一同』という文字が入った『のし紙』も見える。
昨日の賑やかさが窺える。本来なら『絶対安静』の身であることを思うと、少し気の毒にも感じられた。
聖理奈は、窓際のベッドで静かな寝息を立てていた。
総介は、そっと近づき、その寝顔を覗き込む。頬に刻まれた擦り傷が痛々しいが、やはりその表情には、幼い頃の面影が色濃く残っている。
三姉妹の末っ子として、いつも泣きべそをかきながら総介の背中を追ってきたあの子が、今では弁護士として一線で戦っている。
カーテンを揺らす午後のそよ風が、病室に心地よい空気をもたらしていた。
総介は、窓から身を乗り出し、真っ青な空を仰いだ。遠くを企業広告を掲げた飛行船が、ゆっくりと横切っていく。そんな何気ない束の間の平和を全身で味わった。
「……さて、行きますか」
静かにベッド脇へ戻り、眠る彼女に向かって深々と一礼する。そして、立ち去ろうとしたその時だった。
「何も言わずに、行っちゃうんだ……」
聖理奈が、総介のジャケットの裾を指先でつまみ、不満そうに見上げていた。
「すみません。起こしてしまいましたか?」
「違うわよ」
聖理奈は少し頬を膨らませる。
「総ちゃんが病室へ入ってきた時から、ずっと起きてたんだから」
狸寝入りだった。バツの悪そうな総介の顔を見て、聖理奈は更に裾を引っ張り、グイと顔を近付けた。
「ねえ、こんな時、どうすると良いか知ってる?」
「……い、いえ」
聖理奈は、照れ隠しのように小さく笑う。
「……黙って、キスをするの」
聖理奈は少しだけ頬を染め、期待に満ちた瞳でゆっくりと瞼を閉じた……。
チュッ。
総介は迷うことなく、聖理奈の額に軽くキスをした。
(……うーん、まあ、いいか)
「……まあ、今回はそれで許してあげる」
期待していた場所とは少し違っていたが、それでも聖理奈の頬は自然と緩んでいた。
聖理奈は小さく苦笑し、小指を立てて見せた。
「総ちゃん。ちゃんと帰ってくるのよ。約束だからね!」
その一言には、すべての想いが込められていた。
総介も静かに小指を絡め、真っ直ぐな瞳で頷いた。
「約束します。必ず、涼音さんを連れて帰ってきます!」
総介は、穏やかな笑みを浮かべ、病室を後にした。
その瞬間……。
(ゾクッ……!)
聖理奈の背筋に、冷たいものが走った。今、総介が残した笑顔の奥に、得体の知れない凍りつくような『狂気』が宿っていた気がした。
「……気のせい、よね……?」
閉まった病室のドアを見つめながら、聖理奈は自分の震える指先を握りしめた。




