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第4話




 調査三日目。


 その日の早朝、総介の携帯電話に虎之介の秘書から連絡が入った。



 「本日の午後、お時間をいただきたいとのことです。大徳寺邸までお越しいただけますでしょうか?」



 穏やかな口調ではあったが、その声色には、どこか緊張が滲んでいた。



 「分かりました。午後に伺います」



 そして、正午を過ぎた頃、総介は美里亜から借りた年季の入った自転車にまたがった。ギシッ……、と不安な音を立てながらペダルを踏み込む。向かう先は、高級住宅街の一角にそびえ立つ大徳寺邸。


 閑静な街並みを抜けるにつれ、道路脇には豪邸が立ち並び、整然と刈り込まれた植木や美しい庭園が目に入る。やがて、その中でもひときわ存在感を放つ洋館が姿を現した。大徳寺邸である。

 

 総介は裏門へ回り、インターホンのボタンを押した。



 「甘井調査事務所の甘井ですが……」



 しばらくすると、スピーカーから若い女性の明るい声が返ってきた。



 『はい。ただいま参りますので、少々お待ちください』



 ほどなくして、勝手口から一人の若いメイドが姿を現した。しかし、彼女は門を開けようとはせず、その場で立ち止まる。そして、門外に佇む総介を文字通り、頭のてっぺんから爪先まで、露骨なほど入念に観察し始めた。


 総介は、その痛いほどの視線に耐えかねて、自身の衣服へ目を落とした。洗濯のしすぎで首元がヨレヨレになった五百円のTシャツに、膝のあたりが白く色褪せたジーンズ。足元は履き潰したスニーカーだ。おまけに、傍らには年季の入った自転車……。


 日本を代表する大企業のトップの自宅を訪れる人間として、これほど場違いな格好もない。その風体は、名門の屋敷に仕えるメイドにとっても、一目で『不審者』と断定するに十分なクオリティだった。



 「し、少々お待ちください!」


 

 メイドは、慌てて屋敷の中へ駆け戻って行く。


 取り残された総介は、自分の格好を改めて見下ろした。


 (今回のギャラが無事に入ったら、まともな服を買い揃えましょうかね……)などと、未来の計画を夢想した。


 数分後、再び屋敷のドアが開き、先ほどのメイドが、今度は顔を真っ青にして、息を切らせながら走ってきた。彼女は門扉を開けるや否や、総介に向かって直角に近い角度で深々と頭を下げた。



 「た……大変、申し訳御座いませんでした! 甘井様! どうぞ、どうぞ中へお入りください! 主が、応接間にて、今か今かとお待ちかねで御座います!」



 「あ、いえいえ、お気になさらず」



 総介は、恐縮しながらメイドの案内で屋敷の敷地内へと足を踏み入れた。どうやらメイドは、虎之介に直接確認を取り、外のくたびれた格好の男が、虎之介の客であると知って肝を冷やしたらしい。


 重厚な木製の扉が開くと、そこには既に、張り詰めた空気の中で打ち合わせを始めている虎之介と聖理奈の姿があった。



 「総ちゃん、遅かったわね。待ってたのよ!」



 聖理奈はいつもの華やかな笑顔を咲かせ、ソファから立ち上がった。彼女は総介の手を躊躇なく掴むと、グイグイと引っ張って、虎之介の真向かいにある最高級の本革製ソファへと無理やり座らせた。



 「大徳寺社長、お待たせして申し訳ありません」



 総介が頭を下げると、虎之介は無言で頷いた。その顔は、初日に会った時よりもさらに深く、苦渋に満ちた皺が刻まれている。


 虎之介はテーブルの上に、一通の厚みのある封筒を(おごそ)かに置いた。上質な紙で作られたその封筒の差出人欄には、『株式会社鉄興業』と印刷されていた。


 総介の目が、一瞬だけ鋭く細められる。


 株式会社くろがね興業。表向きは金融業を営む中堅企業だが、その実態は、都内一帯に深く根を張る広域指定暴力団『くろがね組』の資金源であり、彼らの表の顔そのものだった。


 虎之介の手によって封筒から引き出されたのは、一枚の内容証明書、すなわち『要望書』だった。


 総介は聖理奈に促されるまま、その要望書に目を落とした。



 『-要望書-


 弁天屋物産株式会社 代表取締役社長・大徳寺虎之介 殿


 貴社が現在所有されている自社株の40パーセント、及び貴社の長女・涼音に対する親権の完全なる譲渡を要求する。


 差出人:大徳寺早苗


 後見人:鉄 眞吾』



 「……これは、一体どういうことですか?」



 総介は視線を要望書から虎之介へと移した。株の四十パーセントといえば、事実上の経営権の譲渡、ひいては会社そのものの乗っ取りを意味する。それに加えて、涼音の親権。



 「これはね、総ちゃん。私が説明するね」



 聖理奈が、ビジネスライクな、それでいて、どこか冷徹さを孕んだ弁護士のトーンで語り始めた。



 「今から三年前、大徳寺社長の妻だった早苗さなえ夫人は、ある若い男と道ならぬ恋……、要するに不倫関係に落ちたの。相手の男は、当時二十三歳。鉄組が直営している歌舞伎町の高級ホストクラブで店長を務めていた、鈴木マナブという男よ」



 始まりは、よくある退屈な昼ドラのような話だった……。


 日々の生活に退屈し、夫とのすれ違いに寂しさを募らせていた早苗夫人が、友人に誘われて軽い気持ちで足を踏み入れたホストクラブ。そこで甘い言葉を囁き、彼女を全面的に肯定して見せたのが鈴木マナブだった。二人の関係が男女のものとなるまでに、大した時間はかからなかったという。



 「……結果として、奥さんの弁解の余地のない不貞行為が原因で、三年前、お二人は離婚という結果に至った。それが、この事件の全ての始まりよ」



 聖理奈は言葉を区切り、要望書を指先で軽く叩いた。



 「それが、三年も経った今になって、財産分与権の主張と、娘である涼音さんの親権の譲渡を求めてきたの。鉄組の若頭である『鉄眞吾(くろがねしんご)』を、わざわざ後見人に立ててね」



 総介は顎に手を当て、「ふむ」と小さく唸った。




「大丈夫ですよ、大徳寺社長」



 聖理奈は虎之介に向き直り、安心させるように微笑んだ。



 「法的な観点から言えば、この要望書には何の拘束力もありません。財産分与の請求権は、離婚が成立した時から二年が経過した時点で、除斥期間が終了しています。つまり、法律上完全に消滅しています」



 聖理奈は、更に続ける。



 「また、親権に関しても、大徳寺社長側が自発的に親権を放棄しない限り、不貞行為を行って離婚した側に親権が移る可能性は、裁判を起こされたとしても万に一つもありません!」



 つまり、法律という盾の前に、この書類はただの脅し文句が書かれた紙屑に過ぎないということだ。


 虎之介も、日本を代表する大企業の社長だ。その程度の法的な知識は、優秀な顧問弁護士達から嫌というほど聞かされている。しかし、彼の顔から怯えの色が消えない理由は、別のところにあった。



 「……問題は、法律ではなく、その背後にいる『鉄組』そのものだ」



 虎之介が、絞り出すような低い声で言った。ソファの上で握りしめられた彼の拳が、怒りと恐怖で小刻みに震えている。



 「鉄組の狙いは、元妻を利用して、私の唯一の肉親である涼音を奪い去り、私を精神的に完全に孤独な奈落へ突き落とすことだ。そして、その混乱に乗じて我が社の株式を強奪し、三万人の社員を抱えるこの『弁天屋物産』を、彼らの利権の巣窟へと変えること……! それが彼らの真の目的なのだ!」



 虎之介の言葉には、一企業のトップとしての凄まじい執念と、それ以上に父親としての苦悩が混ざり合っていた。


 聖理奈はしばらくの間、腕を組んで黙考していたが、やがて決意を秘めた目で静かに立ち上がった。



 「社長。会社側の防衛、および法的な嫌がらせへの対処については、私たち『ハッピー・ロー・カンパニー』が総力を挙げて全面的にサポートいたします。裁判であれ何であれ、鉄組に一歩も譲るつもりはありません。ご安心ください!」



 聖理奈はそこまで言うと、隣に座る総介の肩を、ポンと力強く叩いた。



 「そして、鉄組の物理的な脅威から涼音さんを守る実務については……、彼、甘井総介が、文字通り命を賭けてお守りします!」



 「ハハハ……、まあ、お任せください。できる限りのことはしますから」



 総介はいつものように、緊張感に欠けた締まりのない笑みを浮かべて頭を下げた。


 『命を賭ける』、という聖理奈の言葉とは裏腹に、総介の佇まいは、どう見ても頼りない、うだつの上がらない探偵のそれだった。虎之介は一瞬、不安そうな目を総介に向けたが、神崎弁護士の絶対的な推薦がある以上、彼を信じるしかなかった。


◇◇◇


 大徳寺邸での打ち合わせを終えた総介は、再び美里亜の自転車に跨がり、夕暮れの街へと帰宅の途に就いていた。西日に照らされた住宅街は、穏やかな空気に包まれ、吹き抜ける風が夏の終わりを感じさせる。



 「総ちゃん!」



 背後から鋭い声が響いたかと思うと、次の瞬間……。



 ドサッ!



 自転車の荷台に、かなりの重量がのしかかった。バランスを崩しかけた総介が慌ててペダルを踏み締めると、後ろからクスクスと楽しそうな笑い声が聞こえてきた。


 聖理奈だ。


 彼女は、器用に荷台に飛び乗っていた。


挿絵(By みてみん)



 「せ……聖理奈さん! 危ないですよ、二人乗りは警察に見つかったら一発でアウトですから!」



 「堅いこと言わないの、総ちゃん。昔はさ、よくこうやって二人乗りして遊んだじゃない!」



 聖理奈は総介の背中に、その細い腕を躊躇なく回し、無邪気な声を上げた。



 「昔って……、十年以上前の話でしょう? それに、今のあなたの肩書は、法律を遵守すべき『弁護士』ですよね?」



 総介が苦笑しながら言うと、聖理奈は「そうだっけ?」と、わざとらしく舌を出した。


 二人は自転車を降りて、静かな歩道を並んで歩き始める。総介と神崎三姉妹は、ただの知人ではない。互いの過去を共有する、純粋な『幼馴染』である。


 今から十六年前の夏。


 国内外の巨大資本による急速な都市開発が進む最中であっても、茨城県つくば市の一角には、まだ手付かずの豊かな大自然が残されていた。


 その静粛な別荘地に、神崎家の広大な別荘が存在していた。毎年夏になると、三姉妹は東京の喧騒から逃れ、避暑を兼ねてその別荘で、夏休みを過ごすのが恒例となっていた。


 そして、その神崎家の別荘からほど近い場所に、ある大手の製薬会社が管理する、極秘の研究施設が存在していた。


 総介の両親は、その施設で日夜研究に没頭する、優秀な研究員だった。


 ある真夏の日の午後。近所のテニスコートで、軽快にラケットを振り、楽しそうに『球打ち』をして遊ぶ幼い三姉妹の姿があった。


 当時、わずか五歳だった総介は、その光景を、テニスコートを囲む高い金網の外側から、ただ羨ましそうに、寂しげにじっと眺めていた。研究に忙しい両親の元で、一人で遊ぶことに慣れきっていた総介。



 「ねえ! 一緒にやる?」



 金網の向こうから、最初に弾けるような声で声をかけてきたのが、当時からお転婆だった四歳の聖理奈だった。それが、総介と神崎三姉妹との、すべての始まりだった。


 それ以来、毎年夏が訪れるたびに、神崎姉妹は総介と会う為に、東京からこの別荘地へとやって来るようになった。


 森を駆け回り、川で泳ぎ、夜には花火をする。神崎姉妹にとって総介は、毎年夏になると会える大切な家族であり、誰にも代えがたい存在だった。


 彼女たちの夏を鮮やかに彩った、かけがえのない日々。


 それは、総介たち親子を悲劇へと突き落とした、あの忌まわしい『太平洋沖飛行機墜落事故』が起こるまでの、わずか五年間の幸せな記憶であった……。


 自転車をゆっくりと押しながら歩く総介の横で、聖理奈は、夕日に照らされた彼の横顔を見つめながら、当時の記憶の糸を手繰り寄せていた。



 「う……ん……」



 「どうかしましたか、聖理奈さん? 」



 「ううん、何でもないの。ちょっとね……、昔のことを思い出していただけ」



 総介は不思議そうに首を傾げたが、それ以上は追及しなかった。



 聖理奈は胸の奥で、小さく愛おしさと切なさを噛み締めていた。あの大惨事以来、再びこうして総介の隣に立ち、同じ歩調で歩く日が来ようとは、当時の彼女には想像すらできなかったのだ。


◇◇◇


 それは、あまりにも突然で、理不尽な一報だった。


 聖理奈が、米国ハーバード大学への進学を目前に控え、希望に満ちた新たな出発に心を躍らせていた、ある日のこと……。

 

 彼女の携帯電話が、見たこともない海外のコードを伴って突然鳴り響いた。画面に表示されたのは、すでに米国へ留学中だった次女・美里亜の名前だった。


 通話ボタンを押した瞬間、スピーカーから聞こえてきたのは、普段のおっとりとした口調からは想像もつかない、激しく動揺し、泣きじゃくる美里亜の声だった。



 『聖理奈さ……ん! 総介さんが……、総介さんたち家族が乗った飛行機が、墜落したの……っ!』



 「えっ……? 美里姉、今なんて言ったの?」



 『よく聞いて、聖理奈さん……! 総介さんたち親子が乗った旅客機が、太平洋沖で……、墜落したのよ……っ!!』



 その瞬間、聖理奈の視界からすべての色が消え去り、とてつもなく深く、底のない絶望感へと突き落とされた。それと同時に、全身の血の気が引き、両手が激しく震え出して止まらなくなったのを、今でも鮮明に覚えている。


 その後、英国へ留学中だった長女の茉里華からの連絡により、事故の詳細は、神崎グループの多方面にわたる情報網を通じて調査中であることが告げられた。



 (とにかく、こうして日本でじっとしていられるわけがない!)



 そう確信した聖理奈は、すぐさま神崎グループの総帥である父・源五郎げんごろうに泣き付き、彼の多大なる口利きと財力によって臨時のチャーター機を手配。着の身着のまま、米国へと飛び立ったのだ。


 その後、茉里華から、「奇跡的に総介だけが米海軍によって救助され、ワシントン病院センターの集中治療室へ搬送された」という連絡を受けたのは、事故発生から二日が経過した後のことだった。


 全身骨折、内臓破裂。十三時間にも及ぶ、人間の限界を超えた大手術の結果、何とか心臓の鼓動だけは繋ぎ止めた総介だったが、その後も脳へのダメージから、意識不明の昏睡状態が何ヶ月、何年と続いたという。


 それから、気の遠くなるような七年の月日が流れた、ある日のこと……。


 海外でのすべての研修と任務を終えた茉里華が、一人の少年を伴って日本へ帰国した。それが、十七歳の総介だった。


◇◇◇



 「総ちゃん……」



 聖理奈は、自転車のハンドルを握る総介の手の上に、そっと自分の温かい手を重ねた。



 「もう、どこにも行かないよね? 私達の前から、急に消えたりしないよね?」



 聖理奈の突然の、どこか震えるような言葉に、総介はキョトンとした表情を浮かべた。聖理奈は、そんな総介の顔をジッと覗き込んだ。



 「私と……私達と一緒に、ずっとこの街にいてほしいの。もう、あんなに辛くて、胸が引き裂かれそうで、寂しい思いをするのは二度とイヤだから!」



 総介は、彼女の真剣な、そして少し潤んだ瞳を見つめ、しばらく何かを考えるように視線を彷徨わせた。そして、いつもの柔らかな、すべてを包み込むような笑顔を浮かべると、聖理奈の頭の上にポンと手を置いた。



 「大丈夫ですよ、聖理奈さん。ここに、皆さんが作ってくれた僕の『居場所』がある限り、僕はどこへも行きませんから」



 総介はそう言うと、子供をあやすかのように、聖理奈の整えられた髪を優しく撫でた。



 「……もう! 一つしか歳が違わないのに、まだ私を子供扱いして!」



 聖理奈は頬をプクッと紅く膨らませ、恥ずかしさを隠すように総介の腕を軽く叩いた。しかし、その瞳には、確かな安堵の光が宿っていた。


◇◇◇


 十六時。


 いつものように、運転手付きの黒い英国製高級セダンが、大徳寺邸の車寄せへ静かに滑り込んだ。後部座席のドアが開き、制服姿の涼音が無言で車を降りる。

 

 出迎えた執事とメイドが深々と頭を下げた。

 


 「お帰りなさいませ、お嬢様」

 


 しかし、涼音は二人に視線を向けることもなく、小さく頷いただけで屋敷の中へ入って行く。


 大理石が敷き詰められたエントランスホール。高い吹き抜けに響くのは、彼女の足音だけだった。

 

 やがて、リビングへ足を踏み入れると、いつもなら誰もいないはずの広いリビングのソファに、父・虎之介が一人で腰掛け、広げた新聞に目を落としていた。



 「お……おかえり、涼音」




 虎之介は新聞から顔を上げ、娘の姿を見るなり、不器用な、どこかおどおどとした笑顔を浮かべた。その姿には、大企業の社長という面影は微塵もなかった。



 「……なんだ、居たんだ」



 涼音の口から漏れたのは、信じられないほど冷淡で、そっけない言葉だった。数週間ぶりにまともに顔を合わせた父親に対して、まるで煩わしい他人に話しかけられたかのような態度。


 リビングに、重苦しい沈黙が流れる。虎之介は何度も口を開きかけ、そのたびに言葉を飲み込んだ。彼にとって、年の離れた愛娘を食事に誘うという行為は、世界的な大企業との数千億円規模の商談を成立させることよりも、遥かに難解で、勇気の要ることだった。


 しかし、虎之介は意を決して、震える声で言葉を紡いだ。



 「な……なあ、涼音。もし良かったらなんだが……今夜、久しぶりに父さんと二人で、お前の好きなイタリアンでも食べに行かないか? ほら、駅前に新しい店ができたんだ」



 虎之介の目は、哀願するような光を帯びていた。


 だが、涼音はその言葉を、最後まで聞くことさえしなかった。



 「私、これから用事があって出かけるから」



 彼女は表情一つ変えず、あっさりと父親の誘いを拒絶すると、そのまま背を向けてリビングを後にした。階段を駆け上がる彼女の足音が、静まり返った屋敷に虚しく響き渡る。


 後に残された虎之介は、ただ静かに新聞を見つめ直すしかなかった。その手の中で、新聞の端が小さくクシャリと音を立てて歪んだ。



 「……私が、あの子の為に吐いた『嘘』は、間違っていたと言うのか?」



◇◇◇

 

 警視庁広域犯罪対策本部。通称『広域』。

 

 近年、暴力団や国際犯罪組織による広域犯罪、企業を狙った組織的犯罪、更には国外勢力が関与する重大事件が相次いだことを受け、警視庁内に新設された特別捜査機関である。

 

 その任務は、都道府県警の垣根を越えた凶悪犯罪の捜査・指揮統括に加え、国家規模の重大事件への対処まで多岐にわたる。

 

 創設間もない部署でありながら、その実績はすでに警察内部でも群を抜いていた。

 

 本部長を務めるのは、神崎茉里華警視。

 

 英国ケンブリッジ大学を首席クラスで卒業後、本場ロンドン警視庁(スコットランドヤード)で二年間に及ぶ実務研修を修了。帰国後、その卓越した指揮能力と分析力を買われ、『広域』初代本部長という異例の大抜擢を受けた才女である。

 

 彼女の下には、医学、組織犯罪、情報分析、科学捜査、サイバー犯罪など、それぞれの分野で第一線を走る八人のスペシャリストが集結していた。

 

 まさに、日本警察が誇る精鋭集団である。

 

 その日、刑事部長との打ち合わせを終えた茉里華は、資料を片手に『広域』執務室へ戻ろうとしていた。

 

 すると、廊下の向こうから、一人の男が歩いて来る。


 警視庁公安部所属、浅光五郎(あさみつごろう)警視。

 

 整えられた髪型、ビシッと着こなした制服、そして自信に満ちた笑み。その姿だけ見れば、エリート警察官そのものだった。

 

挿絵(By みてみん)



 「これは神崎警視。今日もお美しい」

 

 

 開口一番、そんな軽薄な言葉を投げ掛ける。周囲の若い刑事達が、思わず苦笑いを浮かべた。

 

 茉里華は表情一つ変えない。



 「浅光警視こそ、お元気そうで何よりです」

 


 あくまでも事務的な返答だった。互いに笑みは浮かべている。だが、その笑みの奥に友好の色はない。

 

 同じ警視という立場ではあるものの、二人の関係は決して良好とは言えなかった。いや、正確には浅光が一方的に茉里華を敵視しているのである。

 

 浅光は一流大学を卒業後、地道な現場経験を積み重ね、幾多の実績を残して三十歳で警視へ昇進した。本人にとって、それは血の滲むような努力の結晶だった。

 

 だからこそ面白くない。自分より若くして警視となり、『広域』本部長という要職まで任された茉里華の存在が。

 

 英国ケンブリッジ大学卒業。ロンドン警視庁(スコットランドヤード)での研修経験。華々しい経歴。神崎財閥という名門の出身。そして、誰もが認める卓越した能力。

 

 世間は彼女を『天才警視』と称賛する。だが浅光には、それが気に入らなかった。


 努力よりも肩書き。実力よりも家柄。そう思い込むことでしか、自らの劣等感を保てなかったのである。

 

 一方の茉里華は、浅光に対して特別な感情を抱いてはいない。

 

 ただ一つ。

 


 「面倒な男だ」

 


 それだけだった。

 


 浅光は腕時計へ視線を落とすと、得意げな笑みを浮かべる。

 


 「私はこれから副総監とゴルフでしてね」

 


 わざとらしくネクタイを整えながら続ける。

 


 「まあ、警視正への昇進も時間の問題でしょう。人脈というものは大切ですよ!」

 


 勝ち誇ったように笑う。

 


 「ハッハッハッハ!」



 高笑いを残し、浅光は悠々と廊下の奥へ歩き去って行った。その背中を、茉里華は冷ややかな目で見送る。

 

 やがて誰にも聞こえないほど小さな声で呟いた。

 


 「……今のうちに、せいぜい遊んでおくことだな。ネズミめ」

 


 茉莉華の鋭い眼差しが浅光の背中を射抜く。

 

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