第3話
総介は、大徳寺虎之介からの依頼を受けた翌朝から調査を開始した。
まずは、大徳寺涼音の行動パターンを把握することから始めた。彼女の日々の足取りを正確に掴まなければならない。
涼音が通う『聖グレゴリウス女学院』は、緑豊かな都内の一等地に広大な敷地を構える、日本でも指折りの『名門お嬢様学院』だ。伝統あるミッション系スクールであり、政財界の重鎮や由緒ある名家の令嬢達が籍を置いている。
涼音は現在、学院の高等部一年生だ。
虎之介は、あらかじめ彼女の一日のルーティンを語った。
朝七時。涼音は、驚くほど寝起きが良く、目覚まし時計が鳴ると同時にベッドから起き上がるという。朝の支度もテキパキと無駄なくこなし、朝食の席に着く。
七時五十分。自宅の車寄せに横付けされた、運転手付きの英国製最高級セダンに乗り込み、邸宅を出発。
八時二十分。渋滞を避けた完璧なルートで、聖グレゴリウス女学院の正門をくぐる。学院には、こうした令嬢達を送り届ける送迎車専用の広大な地下駐車場が完備されている。
八時四十分から朝礼、九時から授業開始。こうして、涼音の学院での一日が始まる。
放課後、クラブ活動には所属していない為、十五時三十分には下校。帰りも行きと同様、迎えの高級車に揺られ、十六時には大徳寺邸へ到着する。
その後、家庭教師による授業を受け、夕食を摂り終わると、二十二時には自室のベッドに入る。
それが、虎之介の把握している『大徳寺涼音』の日常だった。何一つ不自然な点のない、箱入り娘の一日だ。
しかし、実際に彼女を追跡し始めた総介の鋭い目には、ある違和感が映り込んでいた。
虎之介から手渡された写真に写る、中等部の頃の涼音は、父親に甘えるような、愛らしくて可憐な笑顔を浮かべていた。
しかし、今こうして遠目から観察する彼女が纏う雰囲気は、その写真とは完全に乖離していた。
高級車の後部座席から降りる彼女の表情は、ガラス細工のように冷たく、常に暗い影を落としている。擦れ違う同級生や使用人達を見るその瞳には、深い拒絶と、まるで周囲の人間すべてを敵視しているかのような鋭い光が宿っていた。
「この数年の間に、何があったんでしょうかね?」
総介は首の後ろを寂しげに掻きながら、小さく呟いた。
◇◇◇
二十ニ時二十分。
すっかり静まり返った高級住宅街の一角で、総介は大徳寺邸の見張りを続けていた。二十二時には消灯したはずの裏門が、音もなく僅かに開いた。
現れたのは、昼間の制服姿からは想像もつかない、カジュアルな私服に身を包んだ涼音だった。彼女は、大きめのトートバッグを肩にかけ、スポーツタイプの自転車を漕ぎ出した。
総介は、美里亜から借りた自転車に跨がった。前カゴに可愛らしい花のステッカーが貼られた、お世辞にも追跡向きとは言えない『ママチャリ』だ。ペダルを漕ぐたびにキコキコ音を鳴らしながら、総介は闇に消えていく涼音の背中を追った。
「君、ちょっと待ちなさい!」
不意に、背後の暗闇から鋭い声が響いた。それと同時に、総介の顔面が懐中電灯の光で容赦なく照らし出された。二人の警察官が立ち塞がっている。どうやら、近所の住民から「大徳寺邸の周りをうろつく不審者がいる」と通報があったらしい。
「ここで何をしてるんだ? 」
若い警察官が、懐中電灯の光を総介の足元へと向けた。そして、総介が乗っている自転車のフレームに貼られた防犯登録証のステッカーをPIHD(警察官専用携帯端末)で走査した。照会された名義は、当然ながら総介のものではない。
「この自転車、どうしたの? アンタの名義じゃないよね? 『神崎美里亜』……女性の名前じゃないか!?」
年配の警察官が、完全に容疑者を確定したような目で総介を睨み付けた。
「いやいや、これは知人に正式にお借りしたものでしてね? 決して怪しい者では……」
総介は営業スマイルを浮かべて弁明しようとしたが、警察官たちの警戒レベルは上がる一方だった。これ以上、時間を取られる訳にはいかない。総介は内心で溜め息を吐きながら、『国際公認スイーパー』のライセンスカードを差し出した。
警察官は怪訝そうな顔でそれを受け取ると、PIHDでカードを走査して照会をかけた。
端末が電子音を鳴らし、画面にICSA(国際公認スイーパー協会)から発行されたIDナンバーと総介の顔写真が表示された。
「……うん、間違いない。本物だね」
年配の警察官がカードを返し、ジロジロと総介のヨレたジャケットや、緊張感のない立ち姿を見つめながら言った。
「でもあんた、とても『公認スイーパー』には見えないなぁ。なんだか頼りないというか、終始ヘラヘラしているというか……」
実に悪意の無い、はっきりとした物言いだった。
「ハハハ、よく言われます……」
総介は頭を掻きながら、苦笑した。
とりあえず、警察の誤解は解けたものの、涼音の姿はとっくに夜の闇の彼方へと消え去っていた。初日の調査は、手痛い空振りに終わった。総介は今夜の追跡を諦め、明日改めて仕切り直すことを決意した。
◇◇◇
調査二日目。
総介は、美里亜から借りた年季の入った自転車の駆動箇所に油を差し、キコキコ音をなるべく抑え、大徳寺邸の裏口で涼音を待つことにした。
出かける直前、美里亜から張り込みのお供として手渡されたのは、ステンレス製の重厚な弁当箱だった。
「総介さん、張り込みって、とってもお腹が空きますよね? これ、差し入れです!」
そう言って、微笑む彼女の聖母のような優しさに、総介は深く感動した。自分の仕事をこうして陰ながら支えてくれる存在がいる。総介は胸を熱くさせながら、張り込み場所に到着するやいなや、冷える夜風の中でその弁当箱の蓋を開けた。
「……何ですか、これは!?」
頑丈なステンレスの箱の中に、ポツンと『あんぱん』が一個だけ寂しげに収まっていたのだ。他に、おかずもご飯も見当たらない。蓋の裏側には、美里亜の几帳面な文字で書かれたメモが貼り付けられていた。
『張り込みといえば、やっぱり、あんぱんですよねぇ。頑張ってください!』
「最近、昭和の刑事ドラマにハマっているって言ってましたねぇ、美里亜さん……」
総介は脱力しながらも、彼女の少しズレた純粋な好意を無駄にする訳にはいかず、あんぱんを手に取り、ひとかじりした。パサついた生地と甘い気休めのアンコを、静まり返った暗闇のなかでじっくりと噛み締める。味は悪くない。いや、むしろ心に染みる。
そして、あんぱんを食べ終えた総介は、ある違和感に気が付いた。この弁当箱、中にあんぱんが一個だけ入っていたにしては、無駄にデカくて重い。
不審に思った総介が、空になった弁当箱の内部を指で探ると、カチリと小さな金属音がした。内部が精巧な『上げ底式』になっている。底板を慎重に取り外した総介は、思わず息を呑んだ。
弁当箱の底に鎮座していたのは、未来的なデザインの自動拳銃だった。フルロードされたマガジンが既に装填されており、その銃身の下には、もう一枚のメモが添えられていた。
『護身用です。悪いお友達に絡まれたら、迷わず使って下さいね』
総介は、引き攣った笑いを浮かべながら、メモをポケットに仕舞い、銃のセーフティレバーを確認してジャケットの内側に隠した。彼女の『優しさ』の基準は、時折、一般社会のそれよりも遥かにズレている。
◇◇◇
時計の針は、二十二時二十分を指した。
大徳寺邸の裏門から、大きなトートバッグを肩にかけた涼音の姿が現れた。総介は、適度な距離を保ちながら彼女の自転車の後を追った。
涼音は迷いのない足取りで、最寄り駅前にある24時間営業の大型駐輪場へと向かった。そこに手際よく自転車を止めると、足早に駅構内へと入って行く。彼女が向かったのは改札横の女子トイレだった。総介は、女子トイレの出入り口を視認出来る自動販売機の陰に身を潜め、彼女が出てくるのを待った。
十分が経過。涼音はまだ出てこない。化粧でも直しているのだろうか。
二十分が経過。終電間近の駅構内は人の出入りが激しいが、彼女の姿は一向に見えなかった。
三十分が経過……。
さすがに、女子トイレの方向をじっと見つめ続けている男の存在は、周囲の目を引き始める。家路を急ぐ通行人が、総介に対して明らかに不審感と嫌悪を孕んだ視線を向けて通り過ぎていく。総介が、冷や汗をかき始めた、その時だった……。
女子トイレの自動ドアが開き、一人の少女が颯爽と現れた。その姿は、あまりにも周囲の風景から浮いていた。
輝くような金髪のツインテール。身に纏っているのは、フリルとレースがこれでもかとあしらわれた漆黒のゴシック・アンド・ロリータ……、いわゆる『ゴスロリ』のドレスだ。彼女は、堂々とした足取りで歩いて行く。
「変ですねぇ……。あんな派手な娘、中に入っていった覚えはありませんが……」
総介は細めた目で、そのゴスロリ娘の歩き方、そして肩にかけている大きめのトートバッグを観察した。バッグの隙間から、昼間彼女が着ていた私服の生地が僅かに覗いている。
間違いなく、涼音が変装した姿である。
ゴスロリ少女・涼音は、夜の繁華街へと迷いなく消えていった。総介もまた、雑踏に紛れながらその後を追った。
ネオンがギラギラと輝く駅前通りを、涼音はただ目的もなく歩き回っていた。時折、酒の入った若い男達や、いかにもガラの悪そうなスカウトマン達が彼女に声をかける。しかし彼女は、適当に冷たい相槌を打つだけで、相手をまともに見ようともせず、ひたすら夜の街を彷徨い続けていた。
(彼女は……誰かを探しているのでしょうか? それとも、何かを……)
周囲をキョロキョロと見渡す彼女の視線には、何か切実なものを追い求めているような、焦燥感が滲んでいた。
「おい、そこのアンタ。キャサリンに何の用だ?」
突如、背後からドスの利いた声が響くと同時に、総介の右肩が強い力で掴まれた。
振り返ると、いつの間にか総介の周囲は、十人ほどの若者達に取り囲まれていた。髪を派手に染め、特攻服のようなジャケットを羽織った、いかにもなヤンキー達だ。しかも、物騒な事に彼らの手には、金属バットや鉄パイプが握られていた。
「キャサリン……、ですか?」
総介がトボけた声で聞き返すと、ヤンキー達の隙間から、先ほどのゴスロリ娘……、涼音が冷ややかな目線でこちらを見つめているのが見えた。
「懲りねえな、アンタ達も。キャサリンをつけ狙うストーカーや胡散臭い奴らは、俺達が徹底的に排除するって言っただろ!」
先頭の、大柄な男が金属バットを肩に担ぎながら吐き捨てた。
(なるほどねぇ……、合点がいきましたよ)
総介は一人で納得した。
変装した涼音は、この界隈の不良たちの間で『キャサリン』という偽名で呼ばれ、妙な神格化をされているらしい。父親の虎之介がこれまで雇ってきた何人ものボディガードや私立探偵達が、二日と持たずに逃げ出した理由がこれだ。涼音は、この血気盛んな取り巻き達を使って、返り討ちにしてきたのだ。
「困りましたねぇ。僕は、ただの通りすがりの者でして……。ここは何とか、話し合いで穏便に解決出来ませんかね?」
総介は両手を上げて、へらへらとした笑みを浮かべた。
「話し合いで済むわけねえだろ、ボケが!」
先頭の男が激昂し、容赦なく鉄パイプを総介の頭部めがけて振り下ろした。風を切る鋭い音が響く。総介は、鉄パイプをヒョイと躱すと、すれ違い様に男の軸足を軽く引っ掛ける。それだけで、大柄な男は自重を支えきれずに派手に地面へと転倒した。
「てめえ、やりやがったな!」
「囲め! 叩き潰せ!」
仲間の転倒を見た残りの連中が、一斉に殺気立って総介目掛けて襲いかかった。四方八方から振り回される金属バットと鉄パイプ。
だが、総介の動きはそれらを嘲笑うかのように軽やかだった。無駄な動きが一切ない。まるで未来を予知しているかのように、ミリ単位で見切り、相手の攻撃の死角へと滑り込んでいく。
総介の手の平が、拳が、最短距離を走ってヤンキー達の懐へと吸い込まれる。みぞおち、顎……。的確に急所を撃ち抜くたびに、鈍い衝撃音と共に男達が崩れ落ちていく。
それは、僅か五分足らずの出来事だった。
ネオンの光に照らされたアスファルトの上には、十人近くいたヤンキー達が全員、腹や顎を押さえたりしながら、のたうち回っていた。
「安心してください。骨は折っていませんから。これでもかなり手加減したんですよ?」
総介は呼吸一つ乱さず、衣服の埃をパッパと払った。そして、事の顛末を目の当たりにして、完全に呆然と立ち尽くしている涼音に向かって、ゆっくりと歩みを進めた。
「キャサリンさん。いや、涼音お嬢様。夜遊びはこれくらいにして、お家に帰りましょうか」
「……っ!」
涼音の瞳に、初めて明確な恐怖と焦燥が走った。彼女が後ずさりした、その時。
「コラ、そこで何をしてる!?」
遠くから、鋭い怒鳴り声が響いた。通報を受けて駆け付けた警察官達だ。総介が、「おや?」と思って声のする方向へ一瞬、意識を向けた。
その、僅か一瞬の隙を涼音は、見逃さなかった。
バチバチバチバチッ……!!!
「が……はっ、あ……!?」
総介の身体が、激しく硬直した。
涼音の手には、トートバッグから取り出された、スタンガンが握られていた。それが、総介の下腹部に容赦なく押し付けられ、青白く凶悪な電流を放ったのだ。
人間の肉体である以上、不意を突かれた高電圧には抗えない。総介は視界が白く染まるなか、足元から崩れ落ちるようにして地べたに引っ繰り返った。
「助けてください! この人、ストーカーなんです!!」
涼音は、駆けつけた警察官達に向かって、悲痛な声を上げて叫んだ。迫真の演技だった。そして警察官が総介に目を奪われた隙に、彼女はゴスロリのスカートを翻し、驚くべき速さで夜の繁華街の闇へと走り去っていった。
「あれ!?また、あんたかい?」
足音を響かせて近付いて来た警察官二人が、地面に這いつくばってピクピクと震えている総介の顔を、例の懐中電灯で照らし出した。昨夜、大徳寺邸の前で職務質問をしたあのコンビだ。
年配の警察官は、周囲で転がっているヤンキー達と、ストーカー呼ばわりされて倒れている総介を見比べ、深く、心底呆れ果てたような溜め息を吐いた。
「はぁ……、昨夜は公認ライセンスに免じて見逃してやったが、今夜は言い訳が立たないよ。喧嘩に未成年へのストーカー行為……。さすがに今回は、署まで同行してもらうよ」
総介は、全身の筋肉が強張って喋ることもできないまま、半分諦めを交えて天を仰いだ。
「悪いが、その男への手出しは無用だ!」
凛とした、場を支配するような冷徹な声が、野次馬の雑音を割って響いた。
人垣を掻き分けて現れたのは、非の打ち所がないスタイルの美女だった。高級ブランドの仕立ての良いパンツスーツを隙なく着こなし、ローヒールの音をコツコツと響かせて歩いてくる。その美貌と圧倒的なオーラに、警察官達も思わず気圧されて一歩退いた。
「……っ、あなたは?」
「警視庁広域犯罪対策本部の、神崎警視だ」
彼女が提示した警察手帳には、確かにその若さにはおよそ不釣り合いな『警視』の階級と、彼女の厳格な顔写真が記載されていた。
「この男は、我々が特殊なルートを通じて『極秘捜査』を個別依頼している外部の協力者だ。彼の行動はすべて、我が本部の管理下にある。これ以上の身柄の拘束は、捜査に支障をきたす。速やかに私へ身柄を引き渡してもらいたい」
当然ながら、そんな『極秘捜査』などというものは、茉莉華がその場ででっち上げた真っ赤な嘘だ。しかし、キャリア組のトップを走る彼女の威圧感と、本物の身分証の前に、現場の警察官達が抗えるはずもなかった。
「はっ!これは神崎警視殿、失礼いたしました。ご苦労様です!」
警察官達は一斉に敬礼すると、意識を取り戻し始めたヤンキー達を回収し、最寄りの交番へ連行した。
『神崎茉里華』。彼女は、この国の社会にも多大な影響力を持つ名門『神崎家』の長女であり、次期当主となることが約束されている女傑だ。
英国ケンブリッジ大学を首席クラスで卒業後、ロンドン警視庁での二年間にわたる過酷な捜査研修を経て帰国。その後、警察組織の枠組みを超えて新設された『警視庁広域犯罪対策本部』の初代本部長に、異例の若さで就任した。まさにエリート中のエリートである。
茉里華は、地面でまだ微かに痙攣している総介を、氷点下の眼差しで見下ろした。
「……お前は、一体全体何をしているんだ?」
「よ……夜遊び娘の……素行調査を……。ハハ……、面目ない……」
総介は情けない声を漏らしながら、未だにしびれて動かない下半身を擦った。
「……お前という男は、会うたびにトラブルを連れてくるな」
茉莉華の『害虫』を見るような視線が痛い……。
◇◇◇
深夜二時を回った頃。
『喫茶店ひだまり』の脇にある狭い駐車スペースに、茉里華の愛車である漆黒のイタリア製高級スポーツカーが、低い重低音を響かせて滑り込んだ。
「まったく……! 繁華街で人だかりができているから、何事かと思って見に行けば、まさかお前が醜態を晒して所轄の警官に確保されかかっていたとはな! 時間に余裕がなければ、そのまま見捨てて拘置所にぶち込んでやるところだったぞ!」
車から降りるなり、茉里華の容赦ない罵声が飛んだ。彼女は、自力でまともに歩けない総介に肩を貸し、引きずりながら喫茶店の勝手口から中へと連れ込んだ。
「いやぁ、本当に茉里華さんのお陰で助かりましたよ。命の恩人だ」
「お前のその、締まりのない顔を見ていると、恩を仇で返された気分になるな! 本当に、お前という男は……。少しは私達に恥をかかせないというプライドを持て!」
茉里華は、今まで総介が何かをやらかすごとに、裏から手を回して処理してきた。彼女にとっての総介は、有能であることは認めつつも、頭痛の種であり、お荷物なトラブルメーカーでもあった。
「まあまあ、落ち着いて下さい、茉里華姉様。総介さんには、いつも色々な意味で助けられていますから。あ、ちょうど良かったです、どうぞ召し上がってください!」
店の厨房から、エプロン姿の美里亜がにこやかに現れた。その手には、深夜二時とは言え、食欲をそそる香ばしい匂いを放つ、焼きたての特製ミックスピザが乗ったトレイが握られていた。
「そうだよ茉里姉! 総ちゃんだって、遊んでるわけじゃないんだからさ。いつもボロボロになりながら頑張ってるんだよ!」
店の奥のボックス席から、パジャマ姿の聖理奈までがひょっこりと顔を出した。しかも、すでにピザを一切れ、ちゃっかりと口に運んでいる。
「聖理奈、美里亜……、お前達がそうやって、いつもこいつを甘やかすから、この男はいつまで経っても、うだつが上がらない駄目人間のままなのだぞ!」
茉里華はソファに腰掛け、頭痛をこらえるように額を押さえた。
「ハハハ……、耳が痛いですねぇ」
「ヘラヘラするな! シャキッとしろ、シャキッと!」
茉里華がテーブルを叩いて活を入れる。総介は、すくみ上がるように身を縮めた。茉里華は深い溜め息を吐き、信じられないものを見るような目で総介を睨みつける。
「『元デリーター』の成れの果てがこれとはな……。聞いて呆れる」
茉里華が何気なく、愚痴の延長として溢したその一言。その瞬間、店内の空気がピキリと凍りついた。美里亜と聖理奈の動きが、完全に止まる。
「デリ……、何ですか、茉里華姉様?」
美里亜が、いつもの穏やかな笑顔のまま、しかし瞳の奥だけを完全に据わらせて問いかけた。
「茉里姉、今『デリーター』って言ったよね? それ、何の事!? 総ちゃんが、何だって?」
聖理奈もピザを置き、真剣な表情で茉里華に詰め寄る。
「い、いや……!」
茉里華は、自分の最大の失言に気付き、一瞬で顔を強張らせた。冷静沈着な彼女らしからぬ、明らかな動揺が走る。
「……何でもない。今、私が本部長として担当している、広域組織犯罪の重要キーワードの一つだ。つい口を衝いて出てしまった。ただの私の失言だ、気にするな」
茉里華は必死に冷静さを装い、冷淡な声のトーンを作って誤魔化そうとした。しかし、美里亜と聖理奈の二人は、明らかに怪訝な表情を浮かべたまま、納得していない様子だった。
二人の鋭い視線が、一斉に総介へと向けられる。
総介は、その痛いほどの視線を浴びながら、肩をすくめて、両手を広げた。「いやぁ、僕にもさっぱりです」という、惚け顔のジェスチャーを返してみせる。
「……とにかく、二人とも! 総介をあまり甘やかすんじゃない。本人の為にならんからな。私はこれで失礼する!」
茉里華は、これ以上この場所に留まるのは危険だと判断し、食べかけのピザを残したまま、足早に店を後にした。
夜風の冷たい駐車場へと戻り、スポーツカーの運転席に乗り込んだ茉里華は、ハンドルを強く握りしめた。バックミラーに映る、温かな光が漏れる『喫茶店ひだまり』の建物を、彼女は切なげに見つめる。
(あの子たちに、総介の『過去』を絶対に知られてはいけない)
彼女の脳裏に、感情を一切無くした瞳で標的を『排除』していた殺戮者としての、かつての総介の姿が過った。
(もし、奴の過去が知られてしまったら……、あの温かい場所は壊れる。総介の、今度こそ手に入れた本当の居場所が、完全に、なくなってしまう……)
茉里華は静かにアクセルを踏み込み、闇の中へと車を走らせた。




