第2話
その街の小さな商店街は、季節を問わず柔らかな陽光が降り注ぎ、住人の心まで温めるような穏やかな雰囲気に満ちている。故に、この場所は『ひだまり通り商店街』と呼ばれ、近隣の住民から愛されていた。
その一角で、ひっそりと、それでいて確かな存在感を放ちながら、『喫茶店ひだまり』は、今日も営業している。
決して広くはない店構えだが、木目を基調とした落ち着いた店内には温もりがあり、淹れたてのコーヒーの香りが、訪れる人々を優しく迎えてくれる。
この店のオーナーであり、切り盛りを一手に担うのは、神崎三姉妹の次女・美里亜である。
この店は、街の看板姉妹として知られる神崎三姉妹を拝もうと、連日多くの客で溢れかえっている。老若男女、学生からスーツ姿のビジネスパーソン、そして平日の昼間から通い詰める冴えない男達まで……。店先にはいつも人だかりが出来ていた。
長女の茉里華は、法の名のもとに正義を執行する警視庁のエリート刑事、三女の聖理奈は、若くして自らの法律事務所を経営する敏腕弁護士。そして次女の美里亜が、この『喫茶店ひだまり』を営む。職種は違えど、姉妹の絆は鉄のように固い。
平日の昼下がり、店内に流れるジャズの旋律を背景に、美里亜は丁寧にコーヒーを淹れていた。やがて店内に、香ばしいコーヒーの香りがふわりと広がった。今日もまた『喫茶店ひだまり』には、穏やかな時間が流れていた。
そんな喧騒から少し離れた店の奥、窓際の席で、二人の男がテーブルを挟んで座っていた。一人は高級ブランドのスーツに身を包んだ、小太りの五十代の男。もう一人は、ボサボサの髪にヨレヨレのTシャツ、色褪せたジーンズという、いかにも場違いな青年、甘井総介である。
「初めまして。『甘井調査事務所』の甘井総介と申します」
総介は、いかにも胡散臭い営業スマイルを浮かべ、名刺を差し出した。しかし、対面の男はその名刺と、目の前の総介の情けない風貌を交互に見比べ、露骨に眉を寄せた。
「な、何かございましたか……? 納得いかないような顔をされておりますが……」
総介が、心配げに尋ねると、男は大きな溜め息を吐いた。
「いや……私の顧問弁護士から『腕が立つ、信頼できる探偵だ』と強く紹介されたものだから来たのだが……。本当に君が、その『腕が立つという探偵』なのかね?」
総介の頼りない風貌からは、『腕利きの探偵』としての凄みは一切感じ取れない。男は、不信感を隠しきれずに、自らも名刺を差し出した。そこに書かれていた名前は、『弁天屋物産株式会社 代表取締役社長・大徳寺虎之介』。国内流通の動脈を担う、大手総合卸売問屋の経営者である。
「なるほど。そんな大企業の社長様が、よりによってこんな吹き溜まりのような所に、どのような御用で?」
総介が、何気なく吐き出した言葉……。それは、この店の主人・美里亜の逆鱗に触れるには、十分すぎる言葉だった。
「お客様……、今、『吹き溜まり』と、仰いましたか?」
背後に殺気。美里亜が、総介の目の前に容赦のない勢いで氷水を置いた。グラスから水が溢れ、総介のジーンズを濡らす。
「『吹き溜まり』で悪うございましたね!!さて、お客様、ご注文はお決まりですか!? それとも、注文もできないほど『お粗末』な『お口』をお持ちですか!?」
美里亜の笑顔には、慈愛に満ちているようで見えない『鬼』が隠れていた。背後から立ち昇る黒く澱んだオーラに、虎之介も思わず身を縮める。
「あ、あの、何か適当に……、一番安いのをお願いします……」
「承知いたしました! スーパー・デラックス・ロイヤル・ストレート・アメリカンコーヒー、二つ入りまーす!」
高らかに宣言し、美里亜は戦場へ向かうかのような勇ましい足取りで厨房へ消えた。総介は、嫌な予感を覚え、メニューを確認した。
『スーパー・デラックス・ロイヤル・ストレート・アメリカンコーヒー……三千円』。
総介の顔から血の気が引いた。説明書きには、こうある。
『純金製のスプーンとカップ、ソーサー。コロンビア産早摘み豆を十時間焙煎。オホーツク海の流氷を溶かした蒸留水を使用』
(……完全に、ヤラれた。今月の家賃と食費が消える……)
「コ……コホン、そ……それでは、本題に入りましょうか」
総介が、咳払いを一つして話を促すと、虎之介の表情から笑みが消えた。先ほどまでの気さくな雰囲気とは打って変わり、企業のトップらしい厳しい眼差しになる。
「実は……少々、情けない相談なのだが……」
虎之介は、気まずそうに肩をすくめた。
「ご安心ください。私どもの仕事は、お客様それぞれのご事情をお聞きすることです。どうぞ、お気になさらず」
その一言に背中を押されたのか、虎之介は、コーヒーを一口飲み、大きく息を吐いた。そして、覚悟を決めたように顔を上げた。
「娘に、涼音に近付く男を、片っ端から排除してくれ!」
「……はい?」
総介は、思わず聞き返した。一瞬、店内が静まり返る。近くの席の客達まで、新聞を読むふりをしながら、聞き耳を立てていた。
「その……どういう意味でしょう?」
「言葉どおりだ!」
虎之介は、勢いよく身を乗り出す。
「あの子は可愛い! 親の私が言うのも何だが、世界一可愛い!」
虎之介は、総介に詰め寄る。
「だから、あの子に近付く悪い虫を一匹残らず追い払ってほしい!」
興奮した虎之介は、そのまま総介の胸ぐらを掴んだ。Tシャツの首元が、ビョーンと情けなく伸びる。
どうやら今回の依頼は、企業絡みの事件でも誘拐事件でもない。重度の親バカによる人生相談らしい。
「お気持ちは分かりますが、そのような依頼は……」
やんわり断ろうとした、その時だった。
「そのご依頼、お引き受けいたします!」
元気よく割って入ったのは、美里亜だった。
「み、美里亜さん!?ちょっと待って……!」
総介が立ち上がる。すると美里亜は、にこやかな笑顔のまま、一枚の紙を差し出した。
「こちらをどうぞ」
「……請求書?」
恐る恐る目を通した総介の顔色が、一瞬で青ざめる。
『請求書
甘井総介様
家賃 六か月分
スーパー・デラックス・ロイヤル・ストレート・アメリカンコーヒー 二杯分』
「…………」
言葉が出ない……。
総介が借りている事務所兼自宅は、美里亜が所有するマンションの一室だった。いくら、幼なじみ価格とはいえ、家賃を滞納している立場では強く出られない。
「では……」
美里亜は、どこからともなく契約書を取り出した。
「こちらに、ご署名をお願い致します」
「おお!」
虎之介は満面の笑みで契約書を受け取り、迷いなく署名した。総介だけが取り残される。
「……僕の意思は?」
「ありません」
美里亜はにっこり笑った。
その時、署名を終えた虎之介が、美里亜をじっと見つめる。
「そういえば、お嬢さん……」
「はい?」
「どこかでお会いしたかなと思ったら、うちの顧問弁護士によく似ている!」
「妹ですから」
美里亜はあっさり答えた。
「えっ?」
「神崎聖理奈は、私の妹なんです」
「なんと!」
虎之介が驚いた、その直後。
「それでは、弁護士として詳しい話を聞かせてもらうわよ!」
いつの間にか、総介の隣の席に座っていたのは、三女・聖理奈だった。弱冠十三歳で米国ハーバード大学を卒業し、十五歳で司法試験に合格した。現在は、数多くの企業を顧客に抱える弁護士事務所の代表だ。
「せ、聖理奈さん! いつからそこに……!?」
総介は、驚愕する。
「たまたま通りかかったのよ。あ、美里姉、アイスコーヒー。総ちゃんのツケで!」
「はい、喜んで!」
その直後、総介の請求書に『アイスコーヒー 一杯』と、新しい一行が書き加えられた。
「……どうして、僕が払うんですか?」
「当然でしょ。総ちゃんを社長に紹介したのは私なんだから、宣伝費だと思えば、安いものでしょ?ねぇ、社長?」
聖理奈は、涼しい顔で答える。
虎之介も「うんうん」と大きく頷く。
虎之介は、神崎家の姉妹に囲まれている状況にデレデレしつつ、改めて娘の現状を語り始めた。
「最近、毎晩のように出掛け、朝帰りするようになった。理由を聞いても、何も話してくれない。ボディーガードも付けた。探偵にも調査を依頼した。しかし、皆二日ともたずに辞退してしまう」
その声には、父親としての焦りと心配が滲んでいた。
「そこで、神崎先生に相談したところ、君を紹介されたという訳だ」
虎之介は、懐から一枚の写真を取り出すと、大切そうにテーブルへ置いた。
「これが、娘の涼音だ」
写真には、黒髪をツインテールに結んだ愛らしい少女が笑顔で写っていた。
総介は、写真と虎之介の顔を見比べる。
(……間違いなく、お母さん似ですね)
その感想だけは、胸の内にしまっておいた。
「つまり、ご依頼は二つですね?」
美里亜が、話を切り出す。
「娘さんが夜出歩く理由を調べること。そして、娘さんを狙う人物がいるなら、その正体を突き止めて、排除する」
「そのとおりだ!」
虎之介は力強く頷いた。
「そのご依頼、アフターケアまで含めてお引き受けします」
そして、聖理奈が勝手に締めくくった。
「アフターケア……って、何ですか?」
不安そうに尋ねる総介に、聖理奈は耳元で小さく囁いた。
「決まってるでしょ。冷え切った親子関係の修復よ。最後まで責任を持つ。それがプロでしょう?」
「……それ、僕の仕事ですか?」
「もちろん!」
聖理奈の自信ありげな返答に、総介は思わず天井を仰いだ。今回も、総介の意思を無視して話は進んだ。
美里亜が、コーヒーのおかわりを運びながら、クスッと笑う。
「あらあら、これから忙しくなりますねぇ、総介さん」
「……誰のせいだと思ってるんですか?」
総介の小さな抗議は、神崎姉妹の笑い声に、あっさりと搔き消されてしまった。




