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月待町の恋時計 1 ~好きな人の言葉が聞こえなくなる町で~  作者: 草風緑


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第4話 失恋すると、雨が降る先輩

月待町の恋時計


第4話 失恋すると、雨が降る先輩



 月待町では、恋をすると少しだけ不思議なことが起きる。


 好きになりそうな相手の、大事な言葉だけが聞こえなくなったり。


 告白の手紙が、朝になると白紙に戻ったり。


 片思いをしている子の髪に、小さな星が咲いたり。


 それから、失恋した人の頭の上にだけ、雨雲がついたり。



 

 その日の図書室には、雨の音がしていた。


 けれど、窓の外は晴れている。


 空は薄く明るく、校庭ではサッカー部の声が弾んでいた。窓際の本棚にも、午後の光がやわらかく差している。


 雨が降っていたのは、図書室の中ではなかった。


 窓の向こうの、小さな中庭だった。


 中庭のベンチに、三年生の雨宮律先輩が座っている。


 先輩の頭の上には、小さな灰色の雲。


 その雲は、先輩ひとりだけを選んだみたいに、細い雨を落としていた。


 髪も。


 顔も。


 眼鏡も。


 制服の肩も袖も膝も。


 雨宮先輩は、頭から全身ずぶ濡れだった。


 濡れた前髪の先から雨粒が落ち、眼鏡のふちを伝って、膝の上へぽたりと落ちる。


 それでも、先輩の膝の上には本がなかった。


 雨宮先輩は、いつもなら何かしら本を持っている人だった。


 図書室のカウンターにいるときも。


 廊下の窓辺にいるときも。


 返却カードを書く少しの時間でさえ、片手に本を持っている。


 でも今日は、何も持っていなかった。


 本を濡らしたくないからだと、こよみにはすぐわかった。


「雨宮先輩」


 こよみが図書室の窓を開けて声をかけると、雨宮先輩は顔を上げた。


 眼鏡のレンズには細かい雨粒がついていて、目元は少し見えにくい。


「ああ、日向さん」


「中、入らないんですか」


「本が濡れるから」


「先輩らしいですね」


「図書委員としては、当然かな」


 先輩は少し笑った。


 けれど、その笑顔の上にも、雨は容赦なく降っていた。


「タオル、持ってきます」


「ありがとう。でも、たぶんすぐ濡れるよ」


「でも」


「図書室の本に落ちないなら、それでいい」


 先輩はそう言って、中庭の石畳に落ちる雨を見た。


 ぽつ。


 ぽつ。


 晴れている中庭の中で、先輩の周りだけが小さく濡れていく。


 こよみは窓辺に手を置いたまま、先輩を見ていた。


「雨宮先輩」


「うん?」


「何か、ありましたか」


 先輩は一瞬だけ頭上の雲を見た。


 それから、いつもの穏やかな声で言った。


「別に」


「別に、で全身ずぶ濡れにはならないと思います」


「月待町だからね。案外、なるかもしれない」


「ならないと思います」


 先輩は、困ったように笑った。


 その笑い方が、こよみには見覚えがあった。


 大丈夫、と言う人の笑い方。


 平気なふりをする人の笑い方。


 自分の中のどこかが痛いのに、痛くない場所だけを見せようとする笑い方。


「本当に、大丈夫ですか」


「大丈夫」


 先輩はすぐに答えた。


 あまりに早かった。


 早すぎて、その言葉だけが、雨に打たれているように見えた。


 こよみは、それ以上聞けなかった。


 聞いたら、先輩が壊れてしまいそうだった。


 それに、こよみ自身も「大丈夫」と言いすぎる人間だった。


 誰かに深く聞かれたとき、自分ならどう答えるだろう。


 大丈夫。


 たぶん、大丈夫。


 そう言って、心の中の濡れた場所を見せないようにするのだろう。


 雨宮先輩の頭上で、雲がまた少しだけ濃くなった。



 

 次の日も、雨宮先輩はずぶ濡れだった。


 教室の廊下でも。


 階段の踊り場でも。


 図書室の入口の前でも。


 雨雲は先輩の頭の上から離れない。


 傘をさしても、傘の内側に雨が降る。


 雨合羽を着ても、襟元から雨が入り込む。


 まるで、空ではなく、先輩の心の奥から雨が降っているみたいだった。


 でも先輩は、図書室の中には入らなかった。


 返却する本は、ビニール袋に包んで持ってきていた。


 図書委員の紗良が、それを見て腕を組む。


「雨宮先輩、今日は入室禁止です」


 雨宮先輩は、全身から水を滴らせながら、図書室の扉の前で静かにうなずいた。


「図書委員として、正しい判断だと思う」


「本気で言ってます?」


「もちろん」


「先輩、真面目がびしょ濡れです」


「真面目は乾きにくいからね」


 紗良は、返事に困ったようにこよみを見た。


 こよみは少しだけ笑いそうになった。


 でも、笑えなかった。


 雨宮先輩はいつもどおりに見える。


 けれど、前髪から雨粒が落ちている。


 袖口からも、制服の裾からも、雫がぽたぽたと床に落ちている。


 まるで、先輩の代わりに体中が泣いているみたいだった。


 昼休み、こよみと紗良は雨宮先輩について話した。


 図書室のカウンターで、返却された本を並べながら。


「雨宮先輩、今日もずぶ濡れだった」


 紗良はうなずいた。


「物理で濡れてた」


「うん。物理で」


「月待町、恋の現象が毎回ちゃんと物理で来るね」


「うん」


「たぶん、失恋だよね」


「たぶん」


「誰に?」


「わからない」


「聞かないの?」


「聞けなかった」


 こよみは本の背表紙をそろえた。


「大丈夫って言われたら、それ以上聞けなくて」


 紗良は、こよみをじっと見た。


「こよみも、よく言うもんね」


「何を?」


「大丈夫」


 こよみの手が止まる。


 紗良は少しだけやさしく笑った。


「こよみの大丈夫も、たまに雨が降りそうな音してるよ」


「そんな音、する?」


「する」


 紗良は本を一冊、棚に戻した。


「でも、わたしも言うから、わかるよ。大丈夫って言うと、それ以上聞かれなくてすむもんね」


 こよみは何も言えなかった。


 心のどこかで、薄い雨が降った気がした。


 そのとき、図書室の窓の向こうに、雨宮先輩が見えた。


 中庭のベンチに座っている。


 今日も本は持っていない。


 本を持っていない雨宮先輩は、少しだけ居場所をなくした人みたいに見えた。


 こよみは、もう見ていられなかった。


 図書室の机から、予備のタオルを一枚取る。


「こよみ?」


 紗良が声をかけた。


「中庭に行ってくる」


「うん」


「そのあと、時計塔に連れていく」


 紗良は少しだけ目を丸くした。


 それから、静かにうなずいた。


「背中、押してきな」


「物理で?」


「心で」


 紗良の言葉に、こよみは少しだけ笑った。

 

 こよみはタオルを持って中庭へ出た。


 けれど、タオルを差し出す前に、雨宮先輩は少し困ったように首を振った。


「ありがとう。でも、すぐ濡れると思う」


「それでも、少しは」


「じゃあ、借りるね」


 先輩はタオルを受け取った。


 髪を軽く押さえた。


 けれど、その上からまた雨が降る。


 タオルは、あっという間に重たくなった。


「……本当に、ずっと降ってるんですね」


「そうみたい」


「寒くないですか」


「少し」


「大丈夫じゃないじゃないですか」


 こよみが言うと、先輩は小さく笑った。


「そうだね。体は、あまり大丈夫じゃないかもしれない」


「心は?」


 聞いてから、こよみは少し後悔した。


 踏み込みすぎた気がした。


 けれど雨宮先輩は怒らなかった。


 ただ、濡れた眼鏡の奥で、少しだけ目を伏せた。


「心は、大丈夫だと思っていたんだけどね」


 その言葉で、こよみは決めた。


「雨宮先輩」


「うん?」


「放課後、行きたいところがあります」


「図書室以外で?」


「はい」


 こよみは丘の上を見た。


「時計塔です」


 雨宮先輩は、少しだけ考えた。


 髪の先から雨粒が落ちる。


「本は置いていった方がいいかな」


「はい」


「そうだね」


 先輩は、図書室の窓の方を見た。


「濡らしたくないものは、ちゃんと置いていかないと」


 その言葉が、なんだか別の意味にも聞こえて、こよみは返事ができなかった。



 

 放課後の月待町は、晴れているのに、空の端だけ少し灰色だった。


 坂の下の商店街から、夕飯の支度を急ぐ人たちの声がのぼってくる。魚屋のケースを閉める音がして、どこかの家から味噌汁の匂いがした。


 雨宮先輩は、全身を濡らしたまま坂道を歩いていた。


 傘は持っていない。


 さしても意味がないからだと、先輩は言った。


 雨は、先輩の頭上の小さな雲から降り続けている。


 髪から、袖から、鞄を持たない手の先から、ぽたぽたと雫が落ちる。


「先輩、本当に傘いらないんですか」


 こよみが聞くと、先輩は頭上の雲を見上げた。


「気持ちの問題なら、さしてもよかったんだけどね」


「気持ちの問題」


「でも、傘の内側に降るなら、傘に失礼かなと思って」


「傘に礼儀があるんですか」


「あるかもしれない」


 先輩は、真面目な顔で言った。


 こよみは少しだけ笑ってしまった。


 雨宮先輩は、いつもこんなふうだった。


 静かで、少し変わっていて、でも誰かを困らせない距離をちゃんと知っている。


 だからこそ、誰かに自分の困りごとを渡すのが下手なのかもしれない。


 時計塔へ続く坂道を上る。


 丘の上に立つ時計塔は、今日も誰かを待っているように立っていた。


 煉瓦の壁に蔦がからまり、丸い文字盤は夕方の光を受けて、薄く金色ににじんでいる。針は、四時十二分を指している。


 こよみが扉の前に立つと、雨宮先輩の上の雨雲が、ふる、と小さく震えた。


 まるで、時計塔を怖がっているみたいだった。


 扉が、内側から開く。


 青白い明かりの向こうに、時守蒼夜が立っていた。


「今日は、雨か」


 蒼夜は、先輩の頭上を見て言った。


 雨宮先輩は、濡れた前髪を指でよけた。


「お邪魔します」


「そのまま入る気か」


「雨なので」


「ここは室内だ」


「僕の上では、ずっと屋外みたいなものなので」


 蒼夜は、しばらく雨宮先輩を見ていた。


「妙に落ち着いているな」


「慌てると、余計に水が飛ぶので」


「悪くない心がけだ」


 こよみは、少しだけほっとした。


 蒼夜の言葉はいつも素直ではないけれど、雨宮先輩をからかっているわけではない。


 蒼夜は扉を大きく開けたまま、部屋の中を一度見た。


 机の上には、古い本と歯車、青いインクの小瓶。


 窓辺には、月白色の花。


 そして机の引き出しは、今日もきちんと閉まっていた。


 蒼夜は机の上の古い本を手早く閉じ、革の布をそっとかけた。青いインクの小瓶も本から離れた棚へ移す。


 それから、雨宮先輩を入口近くの石床へ案内した。


 そこには本棚がなく、壁に古い時計だけがかかっている。


「ここなら、本には届かない」


「ありがとうございます」


 雨宮先輩は、少しだけほっとした顔をした。


「床は濡れてしまいますが」


「石床だ。あとで拭く」


「すみません」


「謝る必要はない。雨の方が勝手に降っている」


 蒼夜はそう言うと、折りたたまれた布ではなく、古い防水布のようなものを取り出して石床に敷いた。


「座れば」


 雨宮先輩は、濡れた制服を見下ろして、少し迷った。


「座ったら、布が濡れます」


「濡れてもいい布だ」


「本当に?」


「本当に」


「図書室なら、絶対に怒られます」


「ここは図書室じゃない」


 蒼夜は淡々と言った。


「それに、本は離した」


 雨宮先輩は、ようやく防水布の上に腰を下ろした。


 雨は、座っても止まらない。


 頭から髪へ。


 髪から頬へ。


 制服から石床へ。


 ぽつ、ぽつと落ちた雨粒は、防水布の上で小さな青白い光になって消えていく。


「いつから降っている」


 蒼夜が聞いた。


「昨日の朝からです」


「何があった」


「特には」


 蒼夜の目が少し細くなる。


「特には、で人はずぶ濡れにならない」


「月待町なら、なるかもしれません」


「君もそれを言うのか」


 蒼夜は少しだけため息をついた。


 こよみは、雨宮先輩の横顔を見た。


 先輩は穏やかな顔をしている。


 でも、その穏やかさは、雨に濡れても破れないように厚く重ねた紙みたいだった。


「失恋か」


 蒼夜が言った。


 雨宮先輩の肩が、ほんの少しだけ揺れた。


 雨粒が、制服の襟からひとつ落ちる。


「……そう見えますか」


「君の雨雲が、そう言っている」


「雲はおしゃべりですね」


「君よりは」


 蒼夜の声は淡々としていた。


 けれど、冷たくはなかった。


 人を傷つけるための鋭さではない。


 絡まった糸の結び目を、爪の先でそっとほどくような言葉だった。


 雨宮先輩は、しばらく黙っていた。


 それから、濡れた前髪を少しだけ払った。


「卒業した先輩に、好きな人がいました」


 声は、雨より静かだった。


「その人は、去年卒業しました。僕は、何も言いませんでした」


「どうして」


 こよみが聞くと、雨宮先輩は少し笑った。


「迷惑になると思ったから」


 こよみの胸が小さく痛む。


 紗良の手紙を思い出した。


 相手に迷惑をかけないように、自分を消す紙じゃない。


 言えなかった今日を、相手の明日にそっと預ける紙だ。


 雨宮先輩は、その紙すら出さなかったのだ。


「その人から、昨日、手紙が届いたんです」


「手紙?」


 こよみは思わず聞いた。


 雨宮先輩はうなずいた。


「大学で、恋人ができたそうです。とても優しい人だと書いてありました」


 ぽつ。


 雨粒が落ちる。


「先輩は、僕のことを、昔から本の話ができる大事な後輩だと書いてくれていました。これからも、そういう友達でいてくれたらうれしい、と」


「それで」


 蒼夜が静かに促した。


「それで?」


「君は、どう思った」


 雨宮先輩は、少し困ったような顔をした。


「よかったな、と思いました」


「それだけか」


「先輩が幸せなら、よかったな、と」


「それだけか」


 同じ問い。


 けれど二度目の声は、少しだけ深かった。


 雨宮先輩は黙った。


 雨が強くなる。


 ぽつ、ぽつ、ぽつ。


 防水布の上に落ちる雨粒が、青白い光になって消える。


 こよみは、先輩の手が膝の上で握られているのを見た。


 白くなるほど、強く。


「それだけです」


 雨宮先輩は言った。


「大丈夫です。もう終わっていたことなので」


 その瞬間、雨雲が一回り大きくなった。


 ざあ、と雨音が強まる。


 雨宮先輩の髪から水が跳ね、制服の袖からも雫が落ちる。


 こよみは思わず身を引いた。


 蒼夜は、反射的に机の方を見た。


 革の布をかけた本に雨は届いていない。


 そのことを確かめてから、雨宮先輩に視線を戻す。


 雨宮先輩は、自分の手元を見下ろした。


「……大丈夫なんだけどな」


 その声は、初めて少しだけ揺れていた。


 蒼夜は、机から少し離れた棚の上にある砂時計を取り、防水布の端に置いた。


 青い砂が、細く落ち始める。


「泣けない人の代わりに、空が泣いているだけだ」


 雨宮先輩の目が、わずかに見開かれた。


「僕は、泣きたいわけでは」


「泣きたくないなら、それでもいい」


 蒼夜は言った。


「ただ、君の雨は、ずいぶん我慢している」


「雨が、我慢?」


「降っているのに、まだ降りきっていない」


 雨宮先輩はうつむいた。


 前髪から雨粒が落ちて、眼鏡のレンズをすべる。


「……変な言い方ですね」


「よく言われる」


「でも」


 先輩の声が、少しだけ細くなった。


「少し、わかる気がします」


 こよみは、先輩の隣に座った。


 少し距離をあけた。


 けれど、離れすぎないように。


 何を言えばいいのかわからなかった。


 でも、何も言わずに離れることもできなかった。


「雨宮先輩」


「うん」


「よかった、って思ったのは、本当なんですよね」


「うん」


「でも、悲しいのも、本当なんじゃないですか」


 先輩は、すぐには答えなかった。


 雨が落ち続ける。


 ちく、たく。


 ちく、たく。


 時計たちの音と、雨の音が混ざっていく。


「本当は」


 雨宮先輩が、ゆっくり言った。


「少しだけ、ずるいと思いました」


 こよみは黙って聞いていた。


「僕は何も言わなかったのに。勝手に好きでいて、勝手に黙っていて、勝手に友達のふりをしていたのに。手紙を読んだとき、どうして僕じゃないんだろうって思ってしまった」


 雨が、少し強くなる。


「そんなことを思う資格なんてないのに」


 先輩の声が震えた。


「先輩が幸せならいいはずなのに。よかったですねって返事を書けばいいだけなのに」


 眼鏡の奥の目が、濡れていた。


 雨なのか、涙なのか、わからなかった。


「さびしかった」


 ぽつん、と言葉が落ちた。


「すごく、さびしかった」


 その瞬間、雨音が変わった。


 強くなるのではなく、やわらかくなった。


 ざあざあと降っていた雨が、しとしとと細い雨に戻る。


 雨宮先輩は、初めて顔をくしゃりとゆがめた。


「好きでした」


 声がかすれる。


「言わなかったけど、好きでした」


 こよみの胸の奥で、何かが静かにほどける音がした。


 先輩が泣いている。


 雨も降っている。


 どちらも、同じもののように見えた。


 蒼夜は何も言わなかった。


 ただ、青い砂時計を見ていた。


 砂がすべて落ちるころ、雨宮先輩の頭上の雲は小さくなっていた。


 雨粒も、少しずつ細くなる。


 けれど、先輩はまだずぶ濡れだった。


 髪も制服も、すぐには乾かない。


 悲しみを認めたからといって、何もかもが一瞬で元通りになるわけではない。


 最後の雨粒が、ぽつん、と防水布の上に落ちる。


 その場所から、小さな青い花が咲いた。


 細い茎。


 小さな花びら。


 雨粒をそのまま花にしたような、淡い青。


 雨宮先輩は、その花を見つめた。


「これは」


「君の雨が、残したものだ」


 蒼夜が言った。


「悲しみが全部消えるわけじゃない。でも、ちゃんと降らせたものは、どこかで形を変える」


 雨宮先輩は、そっと花に触れた。


「持って帰っても?」


「君のものだ」


「ありがとうございます」


 先輩は花を見つめながら、小さく笑った。


 今度の笑い方は、少し濡れていた。


 でも、前より軽かった。


 雲はもう、ほとんど消えている。


 こよみは、その笑顔を見て、ほっとした。


 同時に、自分の胸の奥が少し怖くなった。


 大丈夫と言って、雨を降らせないようにしているものが、自分にもあるのではないかと思った。

 


 時計塔を出るころには、空は薄い夕闇に変わっていた。


 雨宮先輩は、まだ濡れていた。


 けれど、もう雨は降っていない。


 こよみが渡した乾いたタオルで、前髪と眼鏡をそっと拭いている。


 片手には、小さな青い花を持っていた。


「日向さん」


「はい」


「ありがとう」


「わたしは、何も」


「時計塔に連れてきてくれた」


 先輩は少し笑った。


「それだけ、という顔をしているね」


 こよみは、思わず紗良の言葉を思い出した。


 それが大事だったんだよ。


「……そうかもしれません」


「日向さんも」


 先輩は少し迷ってから言った。


「大丈夫じゃないときは、大丈夫じゃないと言ってもいいと思うよ」


 こよみは、返事に詰まった。


 大丈夫じゃない。


 その言葉は、自分の中でずっと閉じている扉の鍵みたいだった。


「はい」


 こよみは、かろうじてそう答えた。


 雨宮先輩は坂道を下りていった。


 濡れた制服の背中は、少し寒そうだった。


 でも、さっきより軽く見えた。


 こよみは、時計塔の前に残った。


 扉はまだ開いている。


 中から、青白い明かりがこぼれている。


 蒼夜が塔の中から出てくる。


 さっき敷いた防水布を片づけ、本にかけた革の布も外して、机の上を元に戻してから出てきたのだとわかった。


 古い本を守る手つきが、思ったより丁寧だった。


「日向」


 蒼夜の声がした。


 こよみは振り向いた。


「何を怖がっている」


 その声は、いつも通りまっすぐだった。


 いつも通り、少し意地悪で。


 でも、ちゃんと見ている声だった。


「怖がってなんか」


 言いかけて、こよみは止まった。


 今日、雨宮先輩に言ったばかりだ。


 悲しいのも、本当なんじゃないですか。


 それなら、自分も本当のことを見なくてはいけない。


「……わかりません」


 こよみは言った。


「でも、何かが怖いです」


 蒼夜は、静かにこよみを見た。


「君は――」


 そこで、音が抜けた。


 蒼夜の口は動いている。


 すぐ目の前で、こよみに向かって何かを言っている。


 なのに、その一文だけが聞こえない。


 風の音は聞こえる。


 坂の下の商店街のざわめきも聞こえる。


 時計塔の中で、時計たちが刻む音も聞こえる。


 なのに、蒼夜のその言葉だけが、ぽっかり白く抜け落ちた。


 こよみの胸が、冷たくなる。


 まただ。


 でも、今度は湊ではない。


 蒼夜だ。


「……聞いているか」


 そこから先の声は、聞こえた。


 こよみは、笑おうとした。


 でも、笑えなかった。


「すみません。少し、ぼんやりして」


 蒼夜は眉をひそめた。


「本当に?」


「はい」


 嘘だった。


 大事な言葉が抜け落ちた。


 そう言えばいいのに、言えなかった。


 こよみは、自分の手帳を胸に抱きしめた。


 薄い水色の手帳。


 紗良の手紙の夜に書いた一文。


 わたしは、誰の明日に残りたいんだろう。


 真帆の星の夜に、ページの端に浮かんだ小さな星。


 自分の気持ちが見えたら、きれいだと思えるだろうか。


 それらが、胸の中で一斉にざわめく。


 蒼夜の声が聞こえなくなる。


 そのことが、こよみは怖かった。


 湊の言葉が聞こえなかったときより、ずっと。


「帰ります」


 こよみは言った。


 声が少し震えていた。


「送る」


「大丈夫です」


 また言ってしまった。


 大丈夫。


 雨宮先輩の上に降っていた雨を思い出す。


 大丈夫、と言った人は、ずぶ濡れだった。


 自分の中では、何が濡れているのだろう。


 蒼夜は何か言いかけた。


 けれど、言わなかった。


 ただ、こよみを見る目が、ほんの少しだけ揺れた。


「……気をつけて帰れ」


 その声は聞こえた。


 だから余計に、さっきの言葉だけが聞こえなかったことが怖かった。


 こよみは、うなずいて坂道を下りた。


 空には、まだ星は出ていない。


 でも、手帳の中の星が、胸元でほんのり熱を持っている気がした。



 

・*・・・*・・・*・

 



 その夜、こよみは自分の部屋で手帳を開いた。


 薄い水色の手帳。


 今日の日付を書く。


 それから、雨宮先輩のことを書いた。


 失恋すると、雨に濡れる。


 泣けない人の代わりに、空が泣いているだけだ。


 雨宮先輩は、好きでした、と言った。


 雨のあとに、青い花が咲いた。


 そこまで書いて、こよみはペンを止めた。


 蒼夜の言葉が聞こえなかった。


 書こうとして、手が止まる。


 認めたくなかった。


 でも、書かなければ白紙に戻ってしまう気がした。


 こよみは、震える字で書いた。


 蒼夜さんの、大事な言葉が聞こえなかった。


 書いた瞬間、ページの端に浮かんでいた小さな星が、ふっと濃くなった。


 ひとつ。


 また、ひとつ。


 星は二つから、三つになった。


 こよみは息を止めた。


「……違う」


 小さくつぶやく。


 でも、何が違うのか、自分でもわからなかった。


 ページの下に、知らない文字が浮かび始めた。


 こよみの字ではない。


 けれど、どこか懐かしい字。


 夜明けまでに思い出さなければ、


 そこで文字は止まった。


 続きは、にじんで読めない。


 こよみは、手帳を見つめたまま動けなかった。


 夜明けまでに。


 何を。


 誰が。


 思い出さなければ。


 胸の奥で、恋時計が小さくきしんだ。



 

・*・・・*・・・*・

 



 同じころ、時計塔では、蒼夜がひとり、机の前に座っていた。


 月白色の古い手帳が、開かれている。


 幼い字の日記。


 雨の日。


 ぬれたくつした。


 半分でも、ちゃんと月だった夜。


 そして、まだ先の読めない一文。


 そうやくんへ


 蒼夜は、そのページをじっと見ていた。


 今夜は、何かが違っていた。


 手帳の最後のページが、いつもより強く震えている。


 塔の中の時計たちも、落ち着かない。


 ちく、たく。


 ちく、たく。


 ちく、たく。


 まるで、誰かの鼓動をまねているみたいだった。


 蒼夜は、懐中時計を開いた。


 針は、また一分遅れている。


 いや。


 一分ではない。


 四時十二分で止まったままの塔の大時計とは別に、懐中時計の針だけが、少しずつ乱れている。


「古い時計だからな」


 いつものように言おうとして、言葉が途中で止まった。


 もう、その言い訳は薄すぎた。


 こよみが帰ったあと、塔の中の時計が一斉に一秒だけ止まった。


 あれは偶然ではない。


 蒼夜は、自分の胸に手を当てた。


 日向こよみ。


 その名前を思うと、時計が乱れる。


 彼女の声を思い出そうとすると、胸が痛む。


 彼女が「大丈夫です」と言ったときの顔が、頭から離れない。


 大丈夫ではない顔だった。


 雨宮律の雨よりも、わかりやすいくらいに。


 蒼夜は、古い手帳に視線を落とした。


 すると、白いページに、文字が浮かび始めた。


 そうやくんへ


 その下に、ほんの少しだけ続きが見えた。


 泣いた日も、


 蒼夜の息が止まる。


 その先を読もうとした瞬間、文字はにじんだ。


 まるで雨に濡れたように。


「待て」


 蒼夜は手帳を押さえた。


 けれど、文字は消えていく。


 泣いた日も、


 それだけを残して、ページはまた白くなった。


 塔の奥で、重い音がした。


 ぎい、と古い扉が開きかける音。


 蒼夜は顔を上げた。


 時計塔の奥には、普段は開かない扉がある。


 彼が時計塔の魔法使いになるとき、代償として預けたものが眠っている場所。


 そこが、今、わずかに開きかけていた。


 蒼夜の胸元の懐中時計が、かちりと鳴る。


 塔のすべての時計が、一瞬だけ止まった。



 そして、古い手帳のページに、青白い文字が浮かぶ。

 夜明けまでに思い出さなければ、恋時計は止まる。


 蒼夜は、その文字を見つめた。


 誰の恋時計が。


 何を思い出せばいい。


 答えは、喉元まで来ている気がした。


 けれど、そこだけが白く抜け落ちている。


 蒼夜は、手帳を握りしめた。


 窓の外で、月待町の夜が深くなる。


 四時十二分を指したままの時計塔が、静かにきしんだ。


 止まっていた時間が、夜明けを待たずに壊れ始めている音だった。



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