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月待町の恋時計 1 ~好きな人の言葉が聞こえなくなる町で~  作者: 草風緑


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第3話 片思いをすると、髪に星が咲く

月待町の恋時計


第3話 片思いをすると、髪に星が咲く



 月待町では、恋をすると少しだけ不思議なことが起きる。


 好きになりそうな相手の、大事な言葉だけが聞こえなくなったり。


 告白の手紙が、朝になると白紙に戻ったり。


 失恋した人の頭の上にだけ、雨雲がついたり。


 それから、片思いをしている子の髪に、小さな星が咲いたり。



 

 朝の昇降口は、いつも少しだけ騒がしい。


 靴箱の扉がぱたぱた鳴り、誰かの笑い声が廊下に転がり、体育館のほうからバスケットボールの跳ねる音が聞こえてくる。


 こよみが上履きに履き替えていると、後ろから小さな声がした。


「こよみ先輩」


 振り向くと、後輩の真帆が立っていた。


 真帆は一年生で、図書委員の後輩だった。


 肩につくくらいのやわらかいボブで、いつもは耳の横の髪を小さなピンで留めている。声は控えめで、人と話すとき、少しだけ上目づかいになる癖があった。


 でも今日の真帆は、いつもと違っていた。


 前髪から頭の上まで、太めの黒いヘアバンドをつけている。


 いつもの真帆なら選ばない、少し大きすぎるヘアバンドだった。


「おはよう、真帆」


「お、おはようございます」


 真帆は、やけにぎこちなく笑った。


 こよみは、黒いヘアバンドを見る。


「そのヘアバンド、かわいいね」


「えっ。あっ。これは、その、寝ぐせ対策です」


「寝ぐせ?」


「はい。寝ぐせが、すごく……星座みたいになってしまって」


「星座」


 こよみが聞き返すと、真帆はますます目を泳がせた。


 そのとき、ヘアバンドの端、こめかみのあたりから、きら、と小さな光が漏れた。


 ほんの一瞬。


 銀色の光。


 こよみは、息を止めた。


「真帆」


「はい」


「もしかして」


「違います」


「まだ何も言ってないよ」


「違います」


 真帆は両手でヘアバンドを押さえた。


 押さえたせいで、ヘアバンドのすきまから、またひとつ、小さな光がこぼれた。


 それは星だった。


 髪の毛の中に咲いた、銀色の小さな星。


 月待町では、強い片思いをすると、髪に星が咲くことがある。


 こよみは、何度か噂で聞いたことがあった。


 でも、実際に見るのは初めてだった。


 真帆の髪の中で、星は小さくふるえている。


 まるで、見つかったことに驚いているみたいに。


「真帆」


 こよみは声をひそめた。


「誰にも言わないから」


 真帆の目に、涙が浮かんだ。


「……ほんとですか」


「うん」


「笑いませんか」


「笑わないよ」


「呪いみたいって、思いませんか」


「思わない」


 こよみは、そっと首を振った。


「きれいだと思う」


 真帆は泣きそうな顔で、ヘアバンドを握りしめた。


「きれいなんかじゃないです」


 その声は、思ったより強かった。


「こんなの、困ります」

 



 真帆の片思いの相手は、同じ一年生の新堂葵だった。


 葵はサッカー部で、明るくて、よく笑う男の子らしい。


 そして、真帆の親友である結衣とも仲がよかった。


 昼休み、図書室の奥の席で、真帆はこよみにぽつぽつ話した。


 太い黒のヘアバンドをつけたまま、両手で紙パックのいちごミルクを持っている。


 ストローは刺してあるのに、ほとんど減っていなかった。


「結衣ちゃん、すごくいい子なんです」


 真帆は最初にそう言った。


「明るくて、優しくて、誰とでもすぐ仲良くなれて。わたしがクラスでひとりだったときも、最初に声をかけてくれて」


「うん」


「葵くんとも、結衣ちゃんが先に仲良くなったんです。わたしはその横にいただけで」


 真帆は、いちごミルクのパックを両手で少しつぶした。


「でも、気づいたら好きになってて」


 その瞬間、ヘアバンドのすきまから、また星がひとつ光った。


 こよみは、それを見ないふりをした。


 見つめすぎたら、真帆の気持ちまで裸にしてしまう気がしたから。


「結衣ちゃんは、葵くんのこと好きなの?」


「わかりません」


「そっか」


「でも、仲いいんです。すごく。葵くん、結衣ちゃんと話すとき、楽しそうで」


 真帆は笑おうとした。


 でも失敗した。


「わたし、結衣ちゃんのこと大好きなんです。だから、応援したいって思うんです。もし結衣ちゃんが葵くんを好きなら、ちゃんと応援したい」


「うん」


「でも」


 真帆の声が小さくなる。


「ふたりが楽しそうに話してると、胸がぎゅってなって。結衣ちゃんのこと、大好きなのに。ちょっとだけ、見たくないって思っちゃって」


 こよみは何も言わなかった。


 図書室の時計が、静かに針を進める。


「そう思う自分が、いやなんです」


 真帆の手が、ヘアバンドに触れた。


「こんな星、咲かなければよかった。誰にも見られたくない。結衣ちゃんに知られたら、ぜんぶ壊れちゃう」


 ヘアバンドの下で、星がひとつ増えた。


 隠せば隠すほど、光る。


 まるで、心が暗いところで息をしているみたいだった。


 こよみは、自分の鞄の中にある手帳の重みを感じた。


 先日、手帳に浮かんだ小さな星のしみ。


 あれは、ただの見間違いだったのだろうか。


 そう思おうとしたけれど、胸の奥の時計が、ちく、と小さく鳴った。


「真帆」


「はい」


「放課後、行きたいところがあるの」


 真帆は、いちごミルクから顔を上げた。


「まさか」


「時計塔」


「やっぱり」


 真帆は泣きそうになった。


「魔法使いに、星を取ってもらえるんですか」


「わからない」


「取れなかったら?」


「そのときは、一緒に考えよう」


 真帆はしばらく黙っていた。


 それから、小さくうなずいた。


「……わたし、星を消したいです」


 こよみは、その言葉にすぐには返事ができなかった。


 星は、真帆にとって困ったものなのだろう。


 でも、こよみにはそれが、ただの失敗や呪いには見えなかった。


 言えなかった気持ちが、夜の花みたいに咲いている。


 そんなふうに見えた。


 

 放課後の月待町には、まだ星は出ていなかった。


 坂の下の商店街から、店じまいのシャッターの音や、部活帰りの笑い声がのぼってくる。真帆は黒いヘアバンドの上からフードをかぶり、何度も前髪を押さえていた。


「暑くない?」


「暑いです」


「取ったら?」


「取れません」


「だよね」


 こよみは、無理には言わなかった。


 時計塔へ続く坂道を上る。


 丘の上に立つ時計塔は、今日も誰かを待っているように立っていた。


 煉瓦の壁に蔦がからまり、丸い文字盤は夕方の光を受けて、薄く金色ににじんでいる。針は、四時十二分を指している。


 こよみが扉の前に立つと、真帆が小声で言った。


「こよみ先輩」


「うん?」


「魔法使いさんって、こわいですか」


 こよみは少し考えた。


「言い方は、あまり優しくない」


「こわいじゃないですか」


「でも、ちゃんと見てくれる」


「それも少しこわいです」


「うん。わかる」


 こよみが扉に手を伸ばす前に、内側から扉が開いた。


 青白い明かりの向こうに、時守蒼夜が立っていた。


「今日は、星か」


 真帆がびくっとした。


「まだ何も言ってません」


「隠したつもりだろうが、フードの端から光が漏れている」


 蒼夜は淡々と言った。


 真帆は両手でフードを押さえた。


「漏れてますか」


「だいぶ」


「うそ……」


「嘘は苦手だ」


 こよみは、蒼夜を見た。


「もう少し、やわらかく言えませんか」


「星はやわらかく言っても消えない」


「そういう問題では」


 蒼夜は、少しだけ目を細めた。


「入れば」


 二人は時計塔の中に入った。


 時計塔の中には、相変わらずたくさんの時計がかかっていた。どれも違う時間を指しているのに、部屋全体には静けさがあった。


 机の上には、古い本と歯車、青いインクの小瓶。


 窓辺には、月白色の花。


 そして机の引き出しは、今日もきちんと閉まっていた。


 こよみは、その引き出しを見ないようにした。


 見ないようにしたのに、胸のどこかが、そこにある月白色を覚えている。


 蒼夜は真帆に椅子をすすめた。


「フードとヘアバンドを取って」


「ここでですか」


「隠したままでは、何が起きているのかわからない」


 真帆はこよみを見た。


 こよみは、うなずいた。


「大丈夫」


 真帆は震える手でフードを下ろし、太い黒のヘアバンドを外した。


 肩につくくらいの髪が、ふわりと広がる。


 その中に、銀色の星がいくつも咲いていた。


 大きさは、小さなボタンくらい。


 星たちは前髪のすきま、こめかみのあたり、耳の横の髪の中に、ぽつぽつと浮かぶように咲いている。


 真帆が少し動くたびに、きら、きら、と小さく光った。


 こよみは思わず息をのんだ。


 きれいだった。


 でも、真帆の顔は泣きそうだった。


「見ないでください」


 真帆は両手で頭を隠そうとする。


 蒼夜が静かに言った。


「隠した恋は、暗いところでよく光る」


 真帆の手が止まった。


「……これ、恋なんですか」


「違うと思うなら、なぜ隠す」


「だって」


「だって?」


「知られたら、嫌われるかもしれない」


「誰に」


 真帆は唇をかんだ。


「結衣ちゃんに」


 蒼夜は、机の上の砂時計を逆さにした。


 青い砂が、細く落ち始める。


「好きな相手に知られるのが怖いんじゃないのか」


「それも怖いです。でも、それより、結衣ちゃんに知られるほうが怖い」


「親友だから?」


 真帆は小さくうなずいた。


「結衣ちゃんに、ずるい子だって思われたくない。結衣ちゃんのそばにいながら、葵くんのこと好きになってたなんて」


「好きになった順番に、罪はない」


 蒼夜の声は静かだった。


「でも、応援したいのに、悲しくなるんです」


「悲しくなることにも罪はない」


「でも」


「でも、が多いな」


 真帆はぎゅっと膝の上で手を握った。


「だって、そんなの、わがままです」


 蒼夜は、真帆の髪の星を見た。


「わがままな気持ちは、なかったことにしないといけないのか」


「だって、人に迷惑をかけるから」


「気持ちそのものは、誰にも迷惑をかけない」


 蒼夜は机の上の小さな歯車を指先で回した。


 かちり、と音がした。


「困るのは、気持ちをなかったことにしようとして、自分の中で腐らせるほうだ」


 真帆は黙った。


 星たちが、ほんの少し明るく光る。


 こよみは、その光を見つめながら、先日の紗良の手紙を思い出していた。


 言えなかった今日を、相手の明日にそっと預ける紙。


 紗良は、言えなかった気持ちを書いた。


 真帆は、言えなかった気持ちを髪に咲かせている。


 どちらも、白紙のままではいられなかったものなのだ。


「星を消す方法はありますか」


 真帆が聞いた。


 声は小さかった。


 蒼夜は答えた。


「ある」


 真帆の顔が上がる。


「本当ですか」


「ただし、消すには条件がある」


「何でもします」


「本当の気持ちを、ひとつだけ認めること」


 真帆は、目を伏せた。


「葵くんが好きってことですか」


「それもある」


「他にも?」


「結衣という子に対して、きれいな気持ちだけではいられないこと」


 真帆の肩が揺れた。


「それを認めたら、わたし、ひどい子になります」


「認めないまま隠しても、君は今、自分をひどい子だと思っている」


 蒼夜はまっすぐ真帆を見た。


「なら、せめて自分にだけは嘘をつくな」


 真帆の目から涙が落ちた。


 星が一つ、涙に反応するように光った。


 こよみは、そっと真帆の隣に座った。


「真帆」


「はい」


「告白しなくてもいいと思う」


 真帆がこよみを見る。


「無理に、誰かに言わなくてもいい。でも、自分の気持ちを悪者にしなくてもいいと思う」


「悪者じゃ、ないですか」


「うん」


「結衣ちゃんと葵くんが話してるのを見て、悲しくなるのに?」


「悲しくなるのは、好きだからだよ」


 こよみは、自分で言いながら胸の奥が少し痛んだ。


 好きだから、大事な言葉が聞こえなくなる。


 好きだから、逃げたくなる。


 好きだから、星が咲く。


 恋は、いつもかわいい顔ばかりしていない。


 ときどき、自分の中の見たくない場所を、月明かりで照らしてしまう。


 真帆はうつむいたまま、長い時間黙っていた。


 それから、小さく言った。


「わたし、結衣ちゃんに、知られたくないです」


「うん」


「でも、隠してるのも、苦しいです」


「うん」


「葵くんのことが好きです。でも、結衣ちゃんのことも大好きです」


 真帆は泣きながら言った。


「応援したいのに、ちょっとだけ悲しかった」


 その瞬間、真帆の髪の星たちが、ふわりと淡く光った。


 まぶしい光ではなかった。


 夜道の足元を照らす、小さな灯りみたいな光だった。


 蒼夜は言った。


「消えないな」


 真帆が顔を上げる。


「えっ」


「星は消えていない」


「そんな」


「でも、痛そうではなくなった」


 こよみは、真帆の髪を見た。


 本当だった。


 さっきまで針のようにきらきらしていた星が、今はやわらかな光になっている。


 真帆はおそるおそる、自分の髪に触れた。


「……消えないんですか」


「恋がすぐ消えるなら、人は苦労しない」


 蒼夜は言った。


「でも、隠すために光っていた星は、隠さなくていいとわかれば、少しおとなしくなる」


「じゃあ、これからどうすれば」


「決めるのは君だ」


「またそれですか」


「魔法使いは、何でも直す便利屋じゃない」


 真帆は涙の跡が残る顔で、少しだけ笑った。


「なんだか、答えをもらいに来たのに、宿題をもらったみたいです」


「宿題?」


 こよみが聞くと、真帆は小さくうなずいた。


「でも、たぶん……わたしが自分で考えないといけないことなんですよね」


 蒼夜は少しだけ目を伏せた。


「わかっているなら、十分だ」


 その言い方が少しそっけなくて、でも冷たくはなくて、真帆はくすっと笑った。


 笑った拍子に、髪の星がひとつ、ぽん、と小さくはじけるように光った。


 それは、少しだけかわいかった。



 

 真帆は、その日の帰り道、結衣に会った。


 時計塔から坂道を下りて、学校近くの文具店の前を通りかかったときだった。


「あ、真帆ちゃん!」


 結衣が手を振って駆け寄ってくる。


 明るい声。


 軽い足音。


 真帆は、びくっと肩を揺らした。


 まだ黒いヘアバンドは手に持ったままだった。


 つまり、髪の星は見えている。


「その髪、どうしたの?」


 結衣は目を丸くした。


 真帆は顔を真っ赤にした。


「これは、その、寝ぐせで」


「寝ぐせで星は咲かないよ」


「ですよね」


 こよみは少し離れたところで見守っていた。


 蒼夜は時計塔に戻っている。


 ここから先は、真帆自身の時間だった。


 結衣は真帆の髪を見つめた。


 それから、にこっと笑った。


「きれい」


 真帆の目が大きく開いた。


「……きれい?」


「うん。本のページに、星のしおりをはさんだみたい」


「しおり?」


「うん。大事なところが、すぐわかるみたいで」


 結衣はそう言って、少し首をかしげた。


「でも、真帆ちゃんが泣きそうな顔してるから、たぶん、ただのかわいい星じゃないんだよね」


 真帆は唇を震わせた。


 それから、か細い声で言った。


「結衣ちゃん」


「うん」


「わたし、言いたいことがある」


「うん」


「でも、嫌われたらどうしようって思ってる」


「じゃあ、嫌いにならない準備して聞く」


「そんな準備できるの?」


「できる。たぶん」


 結衣は真剣な顔で言った。


 真帆は少し笑って、すぐに泣きそうになった。


「わたし、葵くんのことが好き」


 結衣は黙っていた。


 真帆は急いで続けた。


「でも、結衣ちゃんと葵くんが仲良くしてるのを見ると、悲しくなるときがあって。でも結衣ちゃんのことも大好きで。だから、そんなふうに思う自分が嫌で」


 声が震える。


 でも、止まらなかった。


「応援したいのに、ちょっとだけ悲しかった」


 言い終えたあと、真帆はぎゅっと目を閉じた。


 結衣がどんな顔をしているか、怖くて見られなかった。


 少しだけ沈黙があった。


 それから、結衣の声がした。


「そっか」


 真帆は目を開けた。


 結衣は怒っていなかった。


 ただ、少し驚いて、少し困って、でもちゃんと真帆を見ていた。


「言ってくれて、ありがとう」


「怒らないの?」


「びっくりはした。でも怒らないよ。好きになるのは、真帆ちゃんの自由だもん」


「でも」


「それに」


 結衣は少し照れたように笑った。


「わたし、葵くんのこと、たぶんそういう好きじゃないよ」


 真帆はぽかんとした。


「え」


「話しやすいし、友達としては好き。でも、恋の好きとは違うと思う」


「そう、なの?」


「うん。たぶん。わたしの恋時計、今のところ静か」


 結衣は自分の胸に手を当てて、おどけてみせた。


 真帆は、力が抜けたようにその場にしゃがみこみそうになった。


「よかった……」


「でも、真帆ちゃん」


「うん」


「もしわたしも葵くんのこと好きだったとしても、真帆ちゃんのこと嫌いにはならなかったよ」


 真帆の目から、涙がこぼれた。


「ほんと?」


「ほんと。少し複雑にはなるかもしれないけど、嫌いにはならない」


 結衣は、真帆の髪の星をそっと見た。


「これ、いつまで咲くの?」


「わからない」


「じゃあ、隠さなくてもいいよ。明日、ヘアバンドで隠したくなったら隠せばいいし、見せてもいいし」


「見せてもいいの?」


「うん。だってきれいだもん」


 真帆は泣きながら笑った。


 その瞬間、髪の星たちが、ふわりと淡く光った。


 いくつかは小さな光の粒になって、夕方の空へほどけていった。


 全部は消えなかった。


 でも、真帆はもう、両手で隠さなかった。


 こよみは少し離れた場所で、その光を見ていた。


 胸がじんわり温かかった。


 自分の気持ちを誰かに話すことは、怖い。


 それでも言葉にした瞬間、心の中の夜は少しだけ広くなる。


 星が咲いてもいいくらいに。



 

・*・・・*・・・*・

 



 その夜、こよみは自分の部屋で手帳を開いた。


 薄い水色の手帳。


 蒼夜に出会ってから、そこに書く言葉が少し変わった気がする。


 今日の日付を書き、真帆のことを書いた。


 片思いをすると、髪に星が咲く。


 隠した恋は、暗いところでよく光る。


 真帆は、応援したいのに悲しかった、と言った。


 結衣ちゃんは、きれいだね、と言った。


 そこまで書いて、こよみはペンを止めた。


 きれい。


 誰かの隠した気持ちを見て、そう言える人は強いと思った。


 こよみはページの下に、小さく書いた。


 わたしは、自分の気持ちが見えたら、きれいだと思えるだろうか。


 書いた瞬間だった。


 ページの端に、銀色の点が浮かんだ。


 前にも見た、小さな星のような点。


 今度は、消えなかった。


 ひとつ。


 また、ひとつ。


 小さな星が二つ、手帳の端に浮かんでいる。


 こよみは息を止めた。


「なに、これ」


 指で触れようとすると、星は紙の中に沈むように淡くなった。


 でも完全には消えない。


 まるで、こよみの中で何かが始まった印のように。


 こよみは、胸を押さえた。


 湊の言葉がよみがえる。


 ほんとは誰のことも好きにならないようにしてるだろ。


 それから、蒼夜の声。


 君が聞こえなくしているのは、相手の声じゃない。


 君に近づいてくる、本当の言葉だ。


 こよみは手帳を閉じた。


 心臓が、少し速い。


 違う。


 違うと思いたい。


 これは真帆の魔法を近くで見たから、うつっただけ。


 月待町では、そういうこともあるのかもしれない。


 そう思おうとした。


 けれど、手帳を抱えた腕の中で、星はほんのり温かかった。



 

・*・・・*・・・*・

 



 同じころ、時計塔では、蒼夜がひとり、天井を見上げていた。


 塔の中の時計たちは、今日もそれぞれ違う時間を刻んでいる。


 机の上には、月白色の古い手帳が開かれていた。


 幼い字の日記。


 雨の日。


 ぬれたくつした。


 半分でも、ちゃんと月だった夜。


 そして、まだ先の読めない一文。


 そうやくんへ


 蒼夜はそのページを見ていたが、文字はそれ以上浮かばなかった。


 代わりに、塔の天井に異変が起きていた。


 いつもは暗い天井の一角に、小さな光が灯っている。


 星だった。


 銀色の、細い光。


 それは真帆の髪に咲いていた星によく似ていた。


 蒼夜は眉をひそめる。


「まだ、残っているのか」


 真帆の恋時計の残り香だろうか。


 そう思って、しばらく見ていた。


 けれど違った。


 その星は、真帆のものではない。


 誰かの恋のはじまりが、時計塔に映ったものだ。


 蒼夜には、人の恋のはじまりが見える。


 星、針、花、雨、手紙。


 形は人によって違う。


 けれど、この星は妙だった。


 見えるのに、誰のものかわからない。


 いや。


 わからないのではない。


 見ようとすると、胸元の懐中時計が一秒だけ止まる。


 蒼夜は懐中時計を開いた。


 針は、また少し遅れている。


「古い時計だからな」


 いつもの言葉をつぶやく。


 けれど、その言い訳は、もう薄くなっていた。


 天井の星が、かすかにまたたく。


 その光を見た瞬間、蒼夜の脳裏に、一瞬だけ映像が走った。


 雨。


 小さな手。


 月白色の手帳。


 子どもの声。


 半分でも、ちゃんと月だった。


 蒼夜は息をのんだ。


 けれど次の瞬間、その映像は消えてしまう。


 残ったのは、胸の奥の痛みだけだった。


 机の上の古い手帳が、かすかに震えた。


 蒼夜はページを見る。


 白い紙の上に、薄い文字が浮かびかける。


 けれど、それは言葉になる前に消えた。


 代わりに、小さな銀色の星が一つ、ページのすみに浮かんだ。


 蒼夜は、その星に触れようとした。


 触れる直前、星はふっと消えた。


 窓の外では、月待町の夜が静かに深くなっている。


 蒼夜は、誰もいない部屋でつぶやいた。


「……何が始まっている」


 答える声はなかった。


 ただ、塔の天井の小さな星だけが、消えずに光っていた。


 恋が始まる前の、いちばん隠しきれない光だった。



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