第2話 告白の手紙が、朝になると白紙になる
月待町の恋時計
第2話 告白の手紙が、朝になると白紙になる
月待町では、恋をすると少しだけ不思議なことが起きる。
好きな人の声だけが聞こえなくなったり。
片思いをしている子の髪に、小さな星が咲いたり。
失恋した人の頭の上にだけ、雨雲がついたり。
それから、告白の手紙が、朝になると白紙に戻ったり。
その朝、こよみが教室に入ると、窓際の席で紗良が机に額をつけていた。
肩までの髪が机の上に広がり、まるで溶けかけのチョコレートみたいになっている。
「紗良?」
こよみが声をかけると、紗良はゆっくり顔を上げた。
目の下に、うっすら影ができている。
「こよみ……」
「どうしたの? 具合悪い?」
「悪い。とても悪い。心の胃もたれ」
「心の胃もたれ」
聞き慣れない言葉に、こよみは少しだけ笑いそうになった。
けれど紗良の顔があまりにも真剣だったので、笑うのはやめた。
紗良は机の中から一枚の便箋を出した。
淡い桜色の便箋。
けれど、そこには何も書かれていなかった。
「また白紙になった」
紗良の声は、泣く直前の紙みたいに薄かった。
「また?」
「うん。三回目」
「三回も?」
「三回も」
紗良は便箋を机に置いた。
朝の光を受けて、白紙の便箋だけが妙にまぶしく見える。
「昨日の夜、ちゃんと書いたの。最後まで。封筒にも入れた。机の引き出しにしまった。なのに朝起きたら、これ」
紗良は便箋を指で軽くたたいた。
「きれいさっぱり、何もなし。わたしの勇気、夜中に脱走した」
「誰に書いたの?」
聞くと、紗良は耳まで赤くなった。
それだけで、こよみはだいたいわかった。
「もしかして、三年の朝倉先輩?」
「声に出さないで」
「今、自分で顔に出したよ」
「顔、やめてほしい。口より正直」
紗良は両手で頬を押さえた。
朝倉先輩は、図書委員の三年生だった。
背が高くて、物静かで、貸出カードの字がきれいな人。読み終わった本を棚に戻すとき、必ず背表紙をそっとなでる癖がある。
紗良は去年から、朝倉先輩のことを好きだった。
こよみは、それを知っている。
本人が言う前から、たぶん知っていた。
紗良は明るくて、誰とでもすぐに話せる。けれど朝倉先輩の前だけ、いつもの半分くらいしか声が出なくなるのだ。
「卒業式、もうすぐだもんね」
こよみが言うと、紗良はうつむいた。
「うん」
たったそれだけの返事に、いろんな気持ちが入っていた。
好き。
言いたい。
でも、怖い。
間に合わなくなる。
「手紙、何て書いたの?」
こよみが聞くと、紗良は鞄からノートを出した。
「下書きなら、ある」
ノートのページには、細かい字がぎっしり並んでいた。
こよみは、そっと読み上げる。
「朝倉先輩へ。突然のお手紙で驚かせてしまったらすみません。先輩の本を大切に扱うところや、誰に対しても静かに優しいところを、ずっと尊敬していました……」
「やめて。音読されたら魂がぬけて、わたしが白紙になる」
「ごめん」
こよみはノートを閉じた。
「でも、ちゃんと書けてると思う」
「でしょ? なのに白紙になるの。わたしの手紙、朝が苦手なのかな」
紗良は冗談めかして言った。
でも、指先は震えていた。
こよみは、桜色の白紙を見つめる。
白紙に戻る告白の手紙。
月待町なら、ありえない話ではなかった。
ただの書き損じでも、寝ぼけて捨てたのでもない。
これはたぶん、恋時計が動いている。
こよみの胸の奥で、先日の記憶が小さく鳴った。
時計塔。
青い目の魔法使い。
自分に近づいてくる、本当の言葉。
「紗良」
「うん?」
「放課後、行きたいところがあるの」
「どこ?」
こよみは、窓の外を見た。
丘の上に、古い時計塔が見える。
「時計塔」
放課後の月待町は、まだ少し明るかった。
坂の下の商店街から、惣菜屋の揚げたてコロッケの匂いが流れてくる。紙袋を抱えた小学生たちが、夕方の道をぱたぱたと駆けていった。
紗良は、時計塔へ向かう坂道の途中で、何度も足を止めた。
「ねえ、ほんとに行くの?」
「うん」
「魔法使いって、本当にいるの?」
「いるよ」
「こよみ、なんでそんなに落ち着いてるの?」
「前に、一度会ったから」
紗良は目を丸くした。
「えっ。いつ? なにそれ。初耳なんだけど」
「この前」
「この前っていつ?」
「昨日の前」
「それは一昨日って言うんだよ」
紗良は少しだけいつもの調子に戻った。
でも時計塔が近づくにつれて、口数は減っていく。
丘の上に立つ時計塔は、今日も誰かを待っているように立っていた。
煉瓦の壁に蔦がからまり、丸い文字盤は夕方の光を受けて、薄く金色ににじんでいる。針は、四時十二分を指している。
こよみが扉の前に立つと、紗良は後ろに隠れた。
「わたし、やっぱり帰ろうかな」
「ここまで来たのに?」
「だって、魔法使いに『恋文ひとつ書けない人間』って思われたらどうしよう」
「そんなこと言わないと思う」
少し考えて、こよみは言い直した。
「……たぶん、言い方は悪いかもしれないけど」
「それ、一番不安になるやつ」
そのとき、扉が内側から開いた。
青白い明かりが、すっと漏れる。
「来ると思っていた」
時守蒼夜が、扉の向こうに立っていた。
黒い長い上着に、胸元の懐中時計。
前髪の隙間から見える夜明け前の青い瞳。
紗良は、小さく息をのんだ。
「ほ、本当にいた」
「噂よりは地味だろう」
蒼夜は淡々と言った。
「えっ、いえ、そんな、地味とかでは」
「派手な魔法を期待していたなら悪いが、炎も出せないし、空も飛べない」
「いえ、むしろ飛ばれたら困ります」
紗良が真面目に返したので、こよみは少し笑ってしまった。
蒼夜は二人を中へ招いた。
時計塔の中には、相変わらずたくさんの時計がかかっていた。どれも違う時間を指しているのに、部屋全体には静けさがあった。
机の上には、古い本と歯車、青いインクの小瓶。
窓辺には、月白色の花。
そして机の引き出しは、今日はきちんと閉まっていた。
こよみは、なぜかその引き出しに目がいった。
この前、蒼夜がそこから何かを取り出しかけていた。
月白色の、古い何か。
手帳のように見えた気がする。
思い出そうとすると、胸の奥に小さなもやがかかった。
「それで」
蒼夜が、椅子を指さした。
「白紙になる手紙は?」
紗良は、びくっと肩を揺らした。
「ま、まだ何も言ってないのに」
「君の鞄から、白紙のくせにうるさい紙の気配がする」
「白紙なのにうるさいんですか」
「本音を書かれ損ねた紙は、たいていうるさい」
紗良は困った顔で、鞄から便箋を出した。
桜色の白紙。
蒼夜はそれを受け取り、机の上に置いた。
指先で軽く触れる。
「三回戻ったな」
「どうしてわかるんですか」
「ため息をついた跡が三つある」
こよみには、ただの白紙にしか見えない。
蒼夜は便箋をしばらく眺めてから、紗良を見た。
「何を書いた?」
紗良は、さっき教室で見せた下書きノートを出した。
蒼夜はそれを受け取り、数行読んだだけで閉じた。
「これは告白じゃない」
紗良の顔がこわばる。
「え」
「好かれるための作文だ」
部屋の空気が、少し冷えた。
こよみは思わず口をはさんだ。
「そんな言い方」
「きれいに書けている。礼儀正しい。相手を困らせない。自分の感情も、なるべく邪魔にならない場所に畳んである」
蒼夜はノートを机に置いた。
「だから、白紙になる」
紗良は唇をかんだ。
「わたし、ちゃんと好きって書きました」
「書いたな」
「じゃあ、どうして」
「好き、という言葉だけでは足りない恋もある」
紗良の目が揺れる。
蒼夜は続けた。
「君は、何を怖がっている?」
「怖がってなんか」
「いる」
紗良は何か言い返そうとした。
でも言葉が出なかった。
こよみは、紗良の膝の上で握られた手を見た。指先が白くなっている。
蒼夜の言葉は鋭い。
けれど、先日と同じだった。
人を傷つけるための鋭さではない。
絡まった糸の結び目を、爪の先でそっとほどくような言葉だった。
「断られるのが怖いのか」
蒼夜が聞いた。
紗良は小さくうなずいた。
「それも、あります」
「それだけか」
沈黙。
時計たちの音だけが、部屋に満ちる。
ちく、たく。
ちく、たく。
紗良はうつむいたまま、ゆっくり言った。
「卒業したら」
声が震えていた。
「先輩、いなくなっちゃうから」
こよみは、何も言わなかった。
紗良の声を、遮りたくなかった。
「今は、図書室に行けば会えるんです。本を返しに来たり、カウンターにいたり。たまに、これ面白かったよって教えてくれたり」
紗良は、桜色の便箋を見つめた。
「でも卒業したら、会えなくなる。先輩の毎日の中に、わたしがいなくなる」
言葉が少しずつ、本当の形になっていく。
「先輩は優しいから、きっと返事もちゃんとしてくれると思うんです。断るとしても、ちゃんと。でも、それより……」
「それより?」
蒼夜の声が、少しだけやわらかくなった。
紗良は、小さく息を吸った。
「忘れられたら、怖い」
その瞬間、机の上の白紙の便箋が、かすかに震えた。
まるで、やっと息ができたみたいに。
「わたしのこと、ただの後輩の一人だったって、なかったみたいになったら怖い。図書室で話したことも、雨の日に傘を貸してくれたことも、同じ本に手を伸ばして笑ったことも、ぜんぶ先輩の中では小さいことで」
紗良は、ぽろりと涙を落とした。
「わたしだけが、ずっと覚えてるのかなって」
こよみの胸が、ぎゅっと痛んだ。
忘れられたら怖い。
その言葉は、紗良だけのもののはずだった。
なのに、なぜかこよみの奥にも落ちてきた。
誰かに忘れられること。
誰かを忘れてしまうこと。
どちらのほうが、さびしいのだろう。
蒼夜はしばらく黙っていた。
それから、紗良に向かって言った。
「なら、それを書けばいい」
「え」
「好きです、だけではなく。忘れられたら怖い、と」
「そんなの、重くないですか」
「軽く見せるために書いた手紙は、もう三回消えた」
「う……」
「恋文は、相手に迷惑をかけないように自分を消す紙じゃない」
蒼夜は、桜色の便箋を紗良の前へ押し戻した。
「言えなかった今日を、相手の明日にそっと預ける紙だ」
紗良は便箋を見つめた。
こよみは、今の言葉を手帳に書き留めたいと思った。
言えなかった今日を、相手の明日にそっと預ける紙。
それは、手紙のことだけではない気がした。
日記も、たぶんそうだ。
自分の今日が、ちゃんとあったことを、未来の自分に預けておくためのもの。
紗良は、その場で手紙を書き直すことになった。
蒼夜は青いインクの小瓶と、古い羽ペンを出した。
「これを使えば、一晩だけ本音が逃げにくくなる」
「逃げるんですか、本音って」
「逃げる。特に、きれいな言葉で囲むとすぐ隠れる」
紗良は羽ペンを持った。
でもなかなか書き出せない。
こよみは席を立って、紗良の手元を見ないようにした。
時計塔の窓の外では、夕方の空が少しずつ青を深めている。
やがて、紗良が一文字目を書いた。
羽ペンが紙をすべる音がする。
小さく、でも確かに。
こよみは、その音を聞いていた。
しばらくして、紗良が手紙を読み上げた。
声は震えていたけれど、逃げてはいなかった。
「朝倉先輩へ」
紗良は一度、息を吸った。
「先輩のことが好きです」
そこまでは、昨日までの手紙にもあった言葉。
でも、その先が違った。
「でも、たぶん、それより怖いのは、卒業したあと、先輩の毎日の中から、わたしがいなくなることです」
こよみは、紗良の横顔を見た。
紗良は泣いていた。
でも、さっきよりずっと強い顔をしていた。
「忘れないでください、とは言えません。でも、少しだけ覚えていてほしいです。図書室で同じ本に手を伸ばしたこと。雨の日に傘を貸してくれたこと。先輩が返却カードに書く字が、きれいだったこと。わたしが、先輩のことを好きだったこと」
部屋の中の時計が、一つだけ、かちりと鳴った。
紗良は最後に、こう書き足した。
「返事は、急がなくていいです。ただ、ずっと言えなかった今日を、先輩の明日のすみに、そっと置かせてください」
こよみは、胸の奥が熱くなった。
蒼夜は何も言わなかった。
ただ、桜色の便箋を見ている。
その目が、ほんの少しだけ遠くを見ている気がした。
「これで、消えませんか」
紗良が聞く。
「さあ」
「さあって」
「消えるかどうかを決めるのは、僕じゃない。君の手紙だ」
「魔法使いなのに」
「魔法使いは、何でも直す便利屋じゃない」
紗良は少しだけ笑った。
「でも、さっきよりは、消えない気がします」
「なら、それでいい」
紗良は手紙を封筒に入れた。
封筒の口を閉じるとき、指先はまだ震えていた。
でも、白紙のときとは違う震えだった。
怖いけれど、逃げていない震え。
時計塔を出るころには、外はすっかり夜になっていた。
坂道の下に、町の灯りが小さくまたたいている。
紗良は封筒を胸に抱いて、何度も深呼吸した。
「こよみ」
「うん」
「わたし、明日渡す」
「うん」
「渡せなかったら、背中押して」
「強め?」
「物理じゃなくて心で」
「わかった」
紗良は少し笑った。
その笑顔は、朝よりずっとやわらかかった。
「ありがとう」
「わたしは何もしてないよ」
「時計塔に連れてきてくれた」
「それだけ」
「それが大事だったんだよ」
紗良はそう言って、坂道を先に下りていった。
こよみは少しだけ遅れて歩く。
途中で、ふと時計塔を振り返った。
塔の上の窓に、青白い明かりがともっている。
そこに、蒼夜がいる。
そう思った瞬間、胸の奥のどこかが小さく鳴った。
こよみは自分の鞄から手帳を取り出した。
今使っている、薄い水色の手帳。
ページを開き、今日の日付を書く。
それから、蒼夜の言葉を書いた。
恋文は、相手に迷惑をかけないように自分を消す紙じゃない。
言えなかった今日を、相手の明日にそっと預ける紙だ。
書き終えると、なぜか手が止まらなかった。
こよみは、その下に小さく書いた。
わたしは、誰の明日に残りたいんだろう。
書いた瞬間、胸が跳ねた。
慌てて手帳を閉じる。
見なかったことにしたい。
でも、もう書いてしまった。
自分の字は、思ったより正直だった。
翌朝、紗良の手紙は白紙に戻らなかった。
こよみが教室に入ると、紗良は机に突っ伏していた。
昨日と同じ姿。
けれど、今日は机の上に、封筒がちゃんと置かれていた。
紗良は顔を上げるなり、こよみの手をつかんだ。
「残ってる」
「よかった」
「残ってる。字が。わたしの字が。ちゃんと昨日のわたしがいる」
紗良は笑いながら泣きそうになっていた。
こよみは、ほっと息をついた。
「渡せそう?」
「無理」
「え」
「無理だけど渡す」
紗良は封筒を鞄にしまった。
「今日の放課後、図書室で渡す。こよみ、廊下にいて」
「うん。心で背中押すね」
「できれば、物理の準備もしておいて」
「わかった」
その日の授業は、紗良にとってほとんど通り雨みたいに過ぎていったらしい。
放課後、図書室の前で、紗良は封筒を握りしめていた。
「むりむりむりむり」
「無理じゃない」
「先輩がいたらどうしよう」
「渡すんでしょ」
「いなかったらどうしよう」
「探すんでしょ」
「こよみ、やさしい顔で逃げ道を消してくる」
「ごめん」
そのとき、図書室の扉が開いた。
朝倉先輩が、本を数冊抱えて出てきた。
紗良の体が、ぴんと固まる。
こよみは、そっと紗良の背中に手を添えた。
押すほどではなく。
逃げないように、そこにいるだけ。
「朝倉先輩」
紗良の声は小さかった。
でも、届いた。
先輩が振り返る。
「水野さん?」
紗良は封筒を差し出した。
両手で。
まるで、壊れやすいものを渡すみたいに。
「読んでください」
朝倉先輩は驚いた顔をした。
けれど、茶化したり、困ったように笑ったりはしなかった。
封筒を両手で受け取る。
「ありがとう。読むね」
紗良は、少しだけ震えていた。
でも、逃げなかった。
「返事は、急がなくていいです」
「うん」
「でも、読んだことだけは、忘れないでください」
言ってから、紗良は真っ赤になった。
朝倉先輩は、封筒を見て、それから紗良を見た。
「忘れないよ」
それだけだった。
返事ではない。
約束でもない。
けれど紗良は、泣きそうな顔で笑った。
「はい」
こよみは、紗良の隣でそれを見ていた。
背中に添えた手のひらに、紗良の小さな震えが残っていた。
恋が叶うかどうかは、まだわからない。
でも、紗良の昨日は、白紙にならなかった。
それだけで、たぶん、今日の紗良は少し前に進めた。
・*・・・*・・・*・
その夜、時計塔では、蒼夜がひとり机の前に座っていた。
窓の外には、細い月が浮かんでいる。
塔の中の時計たちは、それぞれの時間を刻んでいた。
ちく、たく。
ちく、たく。
蒼夜は机の引き出しを開けた。
奥から、月白色の古い手帳を取り出す。
表紙の角はすり切れ、リボンのしおりは色あせている。
なぜ大切なのかは、わからない。
けれど、手放せない。
蒼夜は、いつものようにページをめくった。
幼い字の日記。
雨の日。
ぬれたくつした。
半分でも、ちゃんと月だった夜。
どれも自分の記憶ではないはずなのに、読むたび胸の奥があたたかくなり、少しだけ痛む。
前に浮かんだ最後の方の文字は、また薄くなっていた。
そうやくんへ
その先は、まだ読めない。
蒼夜は指先でその文字をなぞった。
すると、別のページがかすかに震えた。
白紙だったページに、青白い文字が浮かび始める。
それは蒼夜自身の字だった。
けれど、蒼夜には書いた覚えがない。
文字は、途中までしか現れなかった。
こよ……
そこまで。
蒼夜の指が止まる。
こよ。
その先は、にじんで読めない。
こよみ。
そう読める気がした。
けれど、確かめようとすると文字は薄くなっていく。
蒼夜は思わずページを押さえた。
「待て」
声がこぼれた。
誰に向けた言葉なのか、自分でもわからなかった。
消えかけた文字は、最後にもう一度だけ光った。
こよ……
そして、白紙に戻った。
蒼夜はしばらく動けなかった。
今日の紗良という少女は言っていた。
忘れられたら怖い。
蒼夜はその言葉を、他人事のように聞いていたはずだった。
けれど今、胸の奥で何かが軋んでいる。
忘れたのは、誰だ。
忘れられたのは、誰だ。
自分は何を、白紙に戻してしまったのだろう。
そのとき、胸元の懐中時計が、かちりと音を立てた。
見ると、針が一分だけ遅れていた。
蒼夜は低くつぶやいた。
「古い時計だからな」
でも、その言い訳は、もう少し苦しくなっていた。
・*・・・*・・・*・
翌日、こよみは図書室の返却カウンターで、本を並べていた。
紗良はまだ朝倉先輩からの返事をもらっていない。
けれど、昨日よりずっと落ち着いていた。
「読んでくれたかな」
紗良が何度も言う。
「読むって言ってたよ」
「うん。そうだよね。読んでくれたら、それでいいって思ったのに、やっぱり返事も気になる。人間って欲深い」
「恋してるからじゃない?」
「こよみがそれ言う?」
「わたしが言うと変?」
「変っていうか、レア」
紗良はそう言って笑った。
その笑顔を見て、こよみも少し笑った。
図書室の時計が、午後四時を指す。
窓の外には、時計塔の先端が見えた。
こよみは、ふと自分の手帳を開いた。
昨日書いた言葉が、そこに残っている。
わたしは、誰の明日に残りたいんだろう。
消えていない。
白紙にも戻っていない。
こよみは、その一文を指でそっとなぞった。
そのとき、ページの端に、小さな点が浮かんだ。
インクのしみかと思った。
でも違った。
銀色の、小さな星のような点。
こよみがまばたきをすると、それはすぐに消えた。
「こよみ?」
紗良がのぞきこむ。
「どうしたの?」
「ううん。なんでもない」
こよみは手帳を閉じた。
胸の奥で、また小さな音がした。
ちく、たく。
ちく、たく。
まるで、どこか遠くの時計塔で、まだ名前のない気持ちが、そっと針を動かし始めたみたいに。




