第1話 好きな人の声だけ、聞こえない
月待町の恋時計
第1話 好きな人の声だけ、聞こえない
月待町では、恋をすると少しだけ不思議なことが起きる。
告白する前の手紙が、朝になると白紙に戻ったり。
片思いをしている子の髪に、小さな星が咲いたり。
失恋した人の頭の上にだけ、雨雲がついたり。
町の人たちは、それを大事件のようには言わない。
「ああ、恋時計が動いたんだね」
そんなふうに、商店街のおばあちゃんが、揚げたてのコロッケを紙袋に入れるくらいの温度で言う。
けれど、日向こよみにとって、それは笑い話ではなかった。
こよみには、昔からひとつ、困ったことがあった。
誰かを好きになりそうになると、その人の声の中から、大事な言葉だけが少しずつ抜け落ちるのだ。
最初は、ほんの一言だけ。
次に、聞きたかったはずの返事だけ。
最後には、目の前で相手が何か大切なことを言っていても、口の動きだけが見える。
だからこよみは、恋が苦手だった。
恋が始まる前に、いつも、大事な言葉のほうが先に遠くなる。
まるで心が、こう言っているみたいに。
聞かないほうがいいよ。
大切になってしまったら、なくしたときに痛いから。
その日、月待高校の廊下には、少し湿った風が流れていた。
放課後のチャイムが鳴り終わっても、教室にはまだ数人の生徒が残っている。黒板の端には、掃除当番の名前が白いチョークで書かれていた。
「日向、これ職員室まで持ってくんだっけ?」
こよみが振り向くと、水瀬湊が、プリントの束を片手で持ち上げていた。
湊は同じクラスの男子で、こよみとは図書委員も一緒だった。明るくて、少し軽そうに見えるのに、人の変化には妙に気づく。
「あ、うん。先生に頼まれてたの」
「半分持つよ」
「大丈夫だよ」
「日向の大丈夫って、信用度五パーくらいなんだよな」
湊はそう言って、勝手にプリントの半分を取った。
こよみは少し笑った。
「五パーは低すぎない?」
「じゃあ七パー」
「ほとんど変わってない」
廊下を歩く二人の足音が、夕方の校舎に小さく響く。
窓の外では、運動部の声が遠くで跳ねていた。校庭の向こうに見える坂道の先には、月待町の古い時計塔がある。丘の上に立つその塔は、もう何年も町の公式な時計としては使われていない。
それなのに、夜になると、ときどき鐘が鳴る。
誰も巻いていないはずの時計が、動く。
そんな噂があった。
湊が、ふいに言った。
「日向ってさ」
「うん?」
「人の悩みにはすぐ気づくよな」
こよみは、プリントの端をそろえながら答える。
「そんなことないよ」
「あるよ。昨日も真帆のこと、すぐ気づいてたじゃん。あいつ、笑ってたけど、たぶん泣きそうだった」
「……たまたま」
「たまたまが多い人って、だいたい見てるんだよ」
湊は、いつもより少しだけ静かな声だった。
こよみは足を止めなかった。
見ている。
それは、たぶん本当だった。
誰かが無理に笑っているとき。
「なんでもない」と言う声が少し硬いとき。
教室の中で、ひとりだけ窓の外を見ている子がいるとき。
こよみは、気づいてしまう。
でも、そのたびに思う。
気づいたからといって、何ができるわけでもないのに。
「日向はさ」
湊が、少しだけ歩幅をゆるめた。
こよみもつられて足を止める。
夕方の光が廊下に長く伸びていた。
「ほんとは――」
その瞬間だった。
音が、ふっと抜けた。
湊の口は動いている。
まっすぐこよみを見て、何かを言っている。
けれど、その言葉だけが聞こえない。
廊下の向こうで誰かが笑う声は聞こえる。
窓の外で、サッカーボールを蹴る音も聞こえる。
階段の踊り場で、スリッパが床をこする音も聞こえる。
なのに、湊のその一文だけが、ぽっかり白く抜け落ちた。
こよみの胸が、冷たくなる。
まただ。
湊が、少し困ったように眉を下げた。
「……聞いてた?」
そこから先の声は、聞こえた。
こよみは、笑った。
うまく笑えたかどうかは、わからなかった。
「ごめん。ちょっと、ぼーっとしてた」
「珍しいな」
「そうかな」
「そうだよ。日向って、ぼーっとしてるふりはうまいけど、本当にぼーっとしてることは少ない」
こよみは、返事ができなかった。
湊は軽く笑って、プリントの束を持ち直した。
「まあいいや。職員室、行こ」
「うん」
こよみは歩き出した。
けれど、さっき聞こえなかった言葉の形だけが、胸の中に残っていた。
何を言われたのだろう。
聞きたくない。
でも、知りたい。
その二つが、心の中で小さくぶつかった。
その日の夕方、こよみは寄り道をした。
家とは反対方向の坂道を上ると、町の音が少しずつ遠くなる。商店街のにぎやかさも、駅前の自転車のベルも、コンビニの自動ドアの音も、坂の下へ置いていくみたいだった。
時計塔は、月待町の丘の上にある。
古い煉瓦造りの塔で、壁には蔦がからまり、丸い時計の文字盤はところどころ色あせていた。針は、ずっと四時十二分を指したままだと言われている。
でも、こよみが見上げたとき、その針はほんの少しだけ動いた気がした。
気のせいかもしれない。
そう思った瞬間、塔の木の扉が、きい、と音を立てて開いた。
こよみは息をのむ。
中は暗い。
けれど奥の方に、青白い明かりがともっていた。
「……すみません」
返事はなかった。
こよみは、ゆっくりと中に入った。
時計塔の中は、外から見たよりずっと広かった。
壁一面に、古い時計がかかっている。丸い時計、四角い時計、振り子時計、鳥のついた時計。どれも違う時間を指しているのに、不思議とうるさくはなかった。
ただ、無数の秒針が、ちく、たく、ちく、たく、と静かに呼吸している。
螺旋階段の上から、声がした。
「迷子?」
こよみは顔を上げた。
階段の途中に、ひとりの青年が立っていた。
年は十八歳くらいに見える。
銀灰色がかった黒髪。前髪が少し長く、片目にかかっている。瞳は、夜明け前の空みたいな青だった。
黒い長い上着の胸元には、小さな懐中時計が下がっていた。
「迷子では、ないです」
「じゃあ、恋の迷子か」
こよみは言葉に詰まった。
青年は、静かに階段を下りてくる。足音はほとんどしなかった。
「ここに来る人は、だいたい二種類だ。恋で迷った人か、恋で迷っていることにまだ気づいていない人」
「あなたが……時計塔の魔法使いですか?」
言ってから、こよみは少し恥ずかしくなった。
高校生にもなって、魔法使いなんて。
けれど青年は、笑わなかった。
「町の人は、そう呼ぶ」
「本当に、いるんですね」
「君がここまで来たんだ。いないことにするには、少し遅い」
こよみは、階段の下で立ち止まった。
「あの、わたし……」
「好きになりそうな相手の、大事な言葉だけが聞こえなくなる?」
こよみは、息を忘れた。
「どうして」
「ここは時計塔だ。止まりかけた恋時計の音くらいは聞こえる」
「恋時計……」
「君の胸の奥にある。今は、だいぶ不機嫌そうに止まりかけている」
青年は机のそばに移動した。
そこには古い本が積まれ、歯車や羽ペン、小瓶に入った青いインクが置かれている。窓辺には、月白色の小さな花が咲いていた。枯れているようにも、咲き続けているようにも見える花だった。
青年は机の引き出しに手をかけた。
何かを取り出そうとして、少しだけ動きを止める。
引き出しのすきまから、月白色の古いものが見えた。
手帳、だろうか。
角が少しすり切れていて、色あせたリボンのしおりがのぞいている。
こよみは、なぜか目が離せなかった。
知らないはずなのに。
見たことがないはずなのに。
その月白色だけが、胸の奥に小さく触れた。
青年は、こよみの視線に気づいたように、引き出しを静かに閉めた。
かたり、と小さな音がした。
「座れば」
青年が椅子を指さす。
こよみは、おそるおそる腰かけた。
「名前は?」
「日向こよみです」
青年の指が、ほんの少しだけ止まった。
けれどすぐに、何事もなかったように言った。
「時守蒼夜」
「そうや……さん」
その名前を口にした瞬間、こよみの胸の奥で、何かがかすかに鳴った。
ちいさな鈴のような音。
または、遠い時計の針が一目盛り動く音。
こよみは、自分の胸元を押さえた。
「どうした?」
「いえ……なんでも」
「なんでもない顔をするのが下手だな」
蒼夜は淡々と言った。
湊にも似たようなことを言われたばかりだ。
こよみは少しむっとした。
「初対面で失礼じゃないですか」
「本当のことは、たいてい失礼に聞こえる」
「それ、言い方を直す気がない人の言い訳です」
蒼夜は、初めて少しだけ目を細めた。
「思ったより、言い返す」
「わたしだって、言い返すときはあります」
「いいことだ。ずっと黙っている人間は、心の中が散らかる」
こよみは、机の上に視線を落とした。
青いインクの小瓶の中で、小さな星のようなものが揺れている。
「今日、クラスの男の子に何か言われたんです」
「好きな人?」
「わかりません」
「便利な言葉だな」
「本当に、わからないんです」
こよみは、少し強く言った。
蒼夜は責めるでもなく、続きを待っている。
「その子の声が、急に聞こえなくなって。全部じゃなくて、一文だけ。口は動いてるのに、その言葉だけ、聞こえなくて」
「その前後は?」
「聞こえました。廊下の音も、外の声も。その子がそのあと言った言葉も。でも、その一文だけ」
「何を言われたと思う?」
「それがわからないから困ってるんです」
「違う」
蒼夜は静かに言った。
「君は、わからないんじゃない。聞きたくないんだ」
こよみは顔を上げた。
「そんなこと」
「ある」
蒼夜の声は冷たくはなかった。
けれど、逃げ道を閉じるみたいにまっすぐだった。
「君が聞こえなくしているのは、相手の声じゃない。君に近づいてくる、本当の言葉だ」
「本当の、言葉……」
「好き、という言葉だけが恋じゃない。誰かが君の心の奥に触れようとしたとき、君は先に耳を閉じる」
こよみの指先が、スカートの布をぎゅっと握った。
「どうして、そんなふうに決めつけるんですか」
「決めつけてはいない。見えているだけだ」
「何が」
「君の恋時計」
蒼夜はこよみの胸元を見た。
こよみには何も見えない。
「針が動こうとするたびに、自分で止めている。動いたら困るから」
「困ります」
思わず、そう言っていた。
蒼夜が黙る。
こよみ自身も、自分の声に驚いた。
困る。
どうして?
誰かを好きになることが、どうしてそんなに困るのだろう。
こよみは唇をかんだ。
「好きになったって、どうせ……」
そこで言葉が止まった。
どうせ、何?
いなくなる?
聞こえなくなる?
失くす?
どの言葉も、胸の奥の暗い場所から出てこようとして、途中でほどけてしまう。
蒼夜は、少しだけ声をやわらげた。
「君はたぶん、恋が怖いんじゃない」
「じゃあ、何が怖いんですか」
「大切になったものを、失うことだ」
その言葉を聞いた瞬間、こよみの頭の奥に、雨の匂いがした。
濡れた石畳。
古い塔の下。
誰かの小さな泣き声。
月白色の表紙。
――今日を、ここに。
そこまで浮かんで、すぐに消えた。
こよみは思わず立ち上がった。
「わたし、帰ります」
「逃げ足は速いんだな」
「失礼です」
「本当のことだ」
こよみは扉の方へ歩き出した。
けれど数歩進んで、振り返る。
「……蒼夜さん」
「何」
「その、聞こえなかった言葉は、もう聞こえるようになりますか」
蒼夜は少し考えた。
「相手にもう一度言ってもらえば、音としては聞こえる」
「音としては?」
「でも、本当に聞けるかどうかは、君次第だ」
こよみは、答えなかった。
塔の扉を開けると、外はもう夕暮れだった。
坂の下に、町の灯りがひとつずつともっている。空には細い月が出ていた。半分にも満たない、爪の先のような月。
こよみは坂を下りながら、胸の奥で何度も蒼夜の言葉をくり返した。
君が聞こえなくしているのは、相手の声じゃない。
君に近づいてくる、本当の言葉だ。
次の日、こよみは湊に聞いた。
放課後の図書室だった。
本棚の間に、午後の光が斜めに差している。湊は返却された本を棚に戻していた。
「昨日」
こよみが言うと、湊は振り向いた。
「ん?」
「廊下で、わたしに何か言ったよね」
「ああ」
「聞こえなかったの。だから、もう一回言ってほしい」
湊は少し驚いた顔をした。
それから、困ったように笑った。
「聞こえなかったなら、いいんじゃない?」
「よくない」
「日向がそう言うの、珍しいな」
「わたしも、そう思う」
湊は、本を一冊、棚に戻した。
背表紙を指でそろえてから、こよみを見る。
「じゃあ言うけど」
こよみの胸の奥が、きゅっと縮む。
聞こえるだろうか。
また、消えてしまうだろうか。
湊は、昨日よりも少しやわらかい声で言った。
「日向ってさ、ほんとは誰のことも好きにならないようにしてるだろ」
今度は、聞こえた。
ちゃんと、聞こえた。
聞こえたのに、胸が痛かった。
「……そんなふうに見える?」
「見える」
「ひどいね」
「ごめん。でも、そう見える」
湊は棚にもたれて、窓の外を見た。
「日向って、誰かのことはすぐ見つけるのに、自分のことはすぐ置いていくじゃん」
こよみは、返す言葉を探した。
けれど見つからなかった。
図書室の時計が、静かに針を進める。
「別に、俺のこと好きになれって話じゃないよ」
湊は、少し笑った。
「ただ、誰かを好きになるのを、そんなに怖がらなくてもいいんじゃないって思っただけ」
「……怖がってるように見えるんだ」
「見える」
「湊くんって、意外と容赦ないね」
「日向が意外と聞こえないふりうまいから」
こよみは苦笑した。
昨日、聞こえなかった言葉は、たしかに聞こえた。
けれど不思議なことに、心にいちばん残ったのは湊の声ではなかった。
時計塔の暗い部屋。
青い目。
少し意地悪で、でもまっすぐな言葉。
蒼夜の声だった。
そのことに気づいて、こよみは少し怖くなった。
・*・・・*・・・*・
その夜、時計塔では、蒼夜がひとり机の前に座っていた。
窓の外には、細い月が浮かんでいる。
塔の中の時計たちは、それぞれ違う時間を刻んでいた。けれど、ひとつだけ、蒼夜の胸元の懐中時計が、昨日からわずかに遅れている。
蒼夜はそれを開き、眉をひそめた。
「古い時計だからな」
誰に言うでもなく、そうつぶやく。
けれどその声は、塔の中で妙に頼りなく響いた。
机の引き出しが、かすかに鳴った。
蒼夜はゆっくりと手を伸ばす。
引き出しの奥には、古い手帳が入っていた。
月白色の表紙。
角は少しすり切れていて、リボンのしおりは色あせている。
なぜ自分がそれを大切に持っているのか、蒼夜にはわからない。
ただ、捨てられなかった。
開くと、幼い字が並んでいる。
四月十二日。雨。くつしたがぬれた。
でも、雨のにおいはすき。
六月二十一日。月が半分だった。
半分でも、ちゃんと月だった。
蒼夜は、そのページに指を置いた。
胸の奥が、なぜか痛む。
今日、日向こよみと名乗った少女。
彼女の声を聞いた瞬間、懐中時計が止まった。
彼女の名前を聞いた瞬間、塔のどこかで古い歯車がきしんだ。
初めて会ったはずなのに。
初めてではない気がした。
蒼夜は手帳を閉じようとした。
そのとき、最後の方の白いページに、うっすらと文字が浮かんだ。
まだ読めないほど薄い。
けれど、最初の数文字だけが見えた。
そうやくんへ
蒼夜の指が止まる。
塔のすべての時計が、一瞬だけ沈黙した。
そしてすぐに、また動き出す。
ちく、たく。
ちく、たく。
蒼夜は、手帳を閉じた。
窓の外では、細い月が雲の間に隠れようとしていた。
「……誰なんだ、君は」
その問いに答える声はなかった。
ただ、時計塔の奥で、まだ止まっていたはずの古い時計が、ひとつだけ動き出した。
月待町の夜に、小さな音が落ちる。
恋が始まる前の、いちばん静かな音だった。




