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月待町の恋時計 1 ~好きな人の言葉が聞こえなくなる町で~  作者: 草風緑


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第5話 四時十二分の約束

月待町の恋時計


第5話 四時十二分の約束



 月待町では、恋をすると少しだけ不思議なことが起きる。


 好きになりそうな相手の、大事な言葉だけが聞こえなくなったり。


 告白の手紙が、朝になると白紙に戻ったり。


 片思いをしている子の髪に、小さな星が咲いたり。


 失恋した人の頭の上にだけ、雨雲がついたり。


 それから、どうしても忘れてはいけない恋を忘れてしまうと、時計塔の針が止まったり。




 

 夜明けまでに思い出さなければ、恋時計は止まる。


 手帳に浮かんだその文字を見たまま、こよみは長いあいだ動けなかった。


 部屋の窓の外は、夜だった。


 月待町の家々の明かりが、坂の下にぽつぽつと灯っている。遠くに見える時計塔は、黒い影になって、丘の上に立っていた。


 いつもと同じように。


 誰かを待っているように。


 こよみは、薄い水色の手帳を両手で持っていた。


 ページの端には、小さな星が三つ浮かんでいる。


 真帆の髪に咲いた星よりも、ずっと小さい。


 でも、その光は消えなかった。


 まるで、こよみの中にある気持ちが、もう見えないふりを許してくれないみたいだった。


 夜明けまでに思い出さなければ、その先は、読めない。


 何を思い出せばいいのか。


 誰が思い出さなければいけないのか。


 こよみにはわからなかった。


 けれど、胸の奥だけが知っていた。


 時計塔へ行かなければ。


 蒼夜に会わなければ。


 さっき聞こえなかった言葉を、もう一度聞かなければ。


 こよみは立ち上がった。


 机の上のペンが転がり、小さな音を立てる。


 その音に混じって、どこか遠くから、時計の針がきしむような音が聞こえた。


 ちく。


 たく。


 ちく。


 たく。


 いつもより、少しだけ遅い。


 こよみは手帳を胸に抱きしめて、部屋を出た。



 

 夜の月待町は、昼間よりもずっと静かだった。


 商店街のシャッターは閉まっていて、惣菜屋の前にはコロッケを揚げた油の匂いの名残だけが、ほんの少し漂っていた。


 街灯の下を走ると、こよみの影が長く伸びる。


 坂道を上るにつれて、息が切れた。


 それでも足を止めなかった。


 丘の上の時計塔が、近づいてくる。


 丸い文字盤は、夜の中で青白く光っていた。


 針は、四時十二分を指している。


 夜なのに。


 もう四時十二分であるはずがないのに。


 時計塔は、ずっとその時刻を抱えたまま止まっている。


 こよみは、塔の扉の前に立った。


 木の扉は、少しだけ開いていた。


 中から青白い明かりが漏れている。


「蒼夜さん」


 呼ぶと、塔の奥で時計たちが一斉に鳴った。


 ちく、たく。


 ちく、たく。


 ちく、たく。


 まるで、こよみの声を待っていたみたいに。


 こよみは中へ入った。

 

 時計塔の中は、いつもより暗かった。


 壁一面の時計たちは動いている。


 けれど、どれも少しずつ遅れていた。


 丸い時計も。


 四角い時計も。


 振り子時計も。


 鳥のついた時計も。


 ちく、たく、という音が、乱れている。


 机の上には、月白色の古い手帳が開かれていた。


 その前に、蒼夜が立っている。


 黒い長い上着。


 胸元の懐中時計。


 夜明け前の空みたいな青い瞳。


 でも、その顔はいつもよりずっと苦しそうだった。


「来たのか」


 蒼夜が言った。


「来ました」


「帰れ」


「嫌です」


 こよみは、すぐに答えた。


 蒼夜の目がわずかに揺れた。


「今夜の時計塔は危ない」


「知っています」


「何も知らないだろう」


「知らないから、来ました」


 こよみは、薄い水色の手帳を胸に抱いたまま、蒼夜に近づいた。


「手帳に文字が出ました」


 蒼夜の視線が、こよみの手帳へ落ちる。


「夜明けまでに思い出さなければ、って」


 蒼夜の顔がこわばった。


「君の手帳にも出たのか」


「蒼夜さんの手帳にも?」


 蒼夜は答えなかった。


 代わりに、机の上の月白色の古い手帳をこよみに見せた。


 ページには、青白い文字が浮かんでいる。


 夜明けまでに思い出さなければ、恋時計は止まる。


 こよみは息をのんだ。


「恋時計って、誰の」


「わからない」


 蒼夜は低く言った。


「でも、たぶん」


 そこで、蒼夜は口を閉じた。


 こよみは、胸が苦しくなった。


 たぶん。


 その先を、言ってほしかった。


 聞きたかった。


 でも、言われたら聞こえなくなるかもしれない。


 こよみは怖くなった。


 昨日の夕方、蒼夜の大事な言葉だけが抜け落ちた。


 風の音も、町のざわめきも、時計塔の音も聞こえたのに。


 蒼夜の一文だけが聞こえなかった。


 もし今も、そうなったら。


 もし一番大事な言葉だけ、また聞こえなかったら。


 こよみは、手帳を握りしめた。


「蒼夜さん」


「何」


「昨日、わたし、聞こえませんでした」


 言えた。


 声は震えたけれど、言えた。


 蒼夜は静かにこよみを見る。


「あなたが、何か大事なことを言ったのに、その言葉だけが聞こえませんでした」


 蒼夜は、目を伏せた。


「やはり」


「やはり?」


「君の恋時計が、止まりかけている」


「わたしの?」


「本当の言葉を聞かないようにしている。聞けば、動いてしまうから」


「何が」


「君の心だ」


 蒼夜の声はまっすぐだった。


 痛いほどではない。


 でも、逃げられないくらいに。


 こよみは唇をかんだ。


「じゃあ、もう一度言ってください」


 蒼夜は何も言わなかった。


「昨日、聞こえなかった言葉を、もう一度言ってください」


「言えば、また聞こえなくなるかもしれない」


「それでも、聞きたいです」


 こよみの声が少し強くなった。


「聞こえなかったままにしたくないんです」


 蒼夜は、長いあいだ黙っていた。


 時計の音だけが、ふたりの間を満たしていく。


 ちく、たく。


 ちく、たく。


 ちく、たく。


 やがて、蒼夜は口を開いた。


「昨日、僕は言った」


 こよみの心臓が大きく鳴る。


 蒼夜は、こよみを見た。


「君は、僕にとって――」


 その瞬間。


 また、音が抜けた。


 蒼夜の口は動いている。


 目の前にいる。


 自分へ向かって、何かを言っている。


 けれど、その言葉だけが聞こえない。


 時計の音は聞こえる。


 自分の呼吸も聞こえる。


 窓の外で風が鳴る音も聞こえる。


 なのに、蒼夜のその一文だけが、白く消える。


 こよみの目に涙が浮かんだ。


 やっぱり。


 やっぱり聞こえない。


「……日向?」


 そこから先の声は聞こえた。


 こよみは、首を振った。


「聞こえませんでした」


 蒼夜の顔が、少しだけ傷ついたように歪んだ。


 その表情を見た瞬間、こよみの胸がぎゅっと痛んだ。


 自分が聞こえないことで、蒼夜を傷つけている。


 それが、苦しかった。


「ごめんなさい」


「君が謝ることじゃない」


「でも」


「君の心が、君を守ろうとしているだけだ」


「守るって、何から?」


「失うことから」


 蒼夜は言った。


「大切なものを失う痛みから」


 その言葉を聞いた瞬間、こよみの頭の奥に、雨の匂いがした。


 濡れた石畳。


 古い塔の下。


 小さな男の子の泣き声。


 月白色の手帳。


 こよみは、ふらりと机に手をついた。


「今、何か」


「思い出したのか」


「わかりません」


 こよみは、息を整える。


「でも、雨の匂いがしました」


 蒼夜の指が、月白色の手帳に触れた。


「僕もだ」


「蒼夜さんも?」


「雨の日の記憶だけが、何度も浮かぶ。でも、肝心なところが見えない」


 蒼夜は、手帳を開いた。


 ページには、幼い字が並んでいる。


 四月十二日。雨。くつしたがぬれた。


 でも、雨のにおいはすき。


 六月二十一日。月が半分だった。


 半分でも、ちゃんと月だった。


 こよみはその文字を見つめた。


 かわいらしい、幼い字。


 知らないはずの字。


 でも。


「これ」


 こよみは、そっとつぶやいた。


「わたしの字に似てる」


 蒼夜の呼吸が止まった。


 こよみは、薄い水色の手帳を開いた。


 今の自分の字で書かれた日記。


 それから、月白色の手帳の幼い字。


 似ている。


 丸くて、少し右に傾いていて、「月」の字の最後の線が少しだけ長い。


 こよみは指先でページをなぞった。


 その瞬間、月白色の手帳が強く光った。


 塔の中の時計たちが一斉に止まる。


 ちく、たく、という音が消えた。


 代わりに、遠い雨音が聞こえた。


 

 雨が降っていた。


 古い時計塔の下。


 小さな男の子が、石段に座って泣いている。


 雨に濡れて、黒髪が銀灰色に光っていた。


 握りしめた小さな拳。


 誰かに「ここで待っていて」と言われたのに、誰も迎えに来なかった。


 男の子は、雨に濡れながら言った。


「今日なんて、いらない」


 その声を、幼いこよみは聞いた。


 赤い傘を持っていた。


 でも、風が強くて、傘は半分ひっくり返っていた。


 靴下は濡れていた。


 それでも幼いこよみは、男の子の前にしゃがんだ。


「いらないの?」


「いらない」


「じゃあ、ここにしまっておけばいいよ」


 幼いこよみは、鞄から月白色の手帳を取り出した。


 大事にしていた手帳だった。


 その日の天気や、見つけた花や、おいしかったお菓子や、月の形を書いていた手帳。


 幼いこよみは、それを男の子に差し出した。


「今はいらなくても、あとでいるかもしれないから」


 男の子は、濡れた顔を上げる。


「あとで、いるかな」


「いるよ。たぶん」


「なんで」


「だって、今日がないと、明日に行けないもん」


 男の子は、手帳を見つめた。


「君、誰」


「こよみ」


「こよみ?」


「うん。日向こよみ」


 男の子は、小さな声で言った。


「僕は、蒼夜」


「そうやくん」


 幼いこよみは、にこっと笑った。


 その笑顔が、雨の中で少しだけ明るく見えた。


 こよみは時計塔を見上げる。


「この塔にはね、魔法使いがいるんだって」


「魔法使い?」


「うん。恋とか、さみしい気持ちとか、言えなかった言葉とか、そういうのが迷子になったら、見つけてくれるんだって」


 蒼夜は、時計塔を見上げた。


「本当に?」


「わからない。でも、いたらいいよね」


 幼いこよみは、月白色の手帳を蒼夜の手に押しつけた。


「だから、そうやくんも、今日をなくさないでね」


 雨が、少し弱くなった。


 時計塔の針は、四時十二分を指していた。


 そのとき、鐘が一度だけ鳴った。


 幼い蒼夜は、手帳を胸に抱いた。


「また会える?」


 幼いこよみはうなずいた。


「うん。半分の月の日に、またここで会おう」


「半分の月?」


「半分でも、ちゃんと月だから」


 幼い蒼夜は、泣きながら少しだけ笑った。


「じゃあ、約束」


「約束」


 ふたりは、小指を結んだ。


 雨に濡れた小さな指。


 震えているけれど、確かにつながっていた。


 


 光が消えた。


 時計塔の中へ、こよみは戻ってきた。


 蒼夜も、同じものを見ていたのだろう。


 青い瞳が、大きく揺れている。


「思い出した」


 こよみがつぶやいた。


 声が震えていた。


「わたし、蒼夜さんに手帳を渡した」


 蒼夜は、月白色の手帳を握りしめた。


「君だったのか」


「わたしだった」


 その瞬間、塔の奥で、ぎい、と重い音がした。


 普段は開かない扉。


 蒼夜が時計塔の魔法使いになるとき、代償として預けたものが眠っている場所。


 その扉が、少しずつ開いていく。


 中から、白い光が漏れていた。


 蒼夜は顔をこわばらせた。


「だめだ」


「何が」


「そこにあるのは、僕が預けた記憶だ」


「預けた?」


「時計塔の魔法使いになるために」


 蒼夜の声が低くなる。


「僕は、一番あたたかい今日を預けた」


 こよみの胸が冷たくなった。


「一番あたたかい今日」


「君と会った日だ」


 蒼夜は、苦しそうに笑った。


「君が手帳をくれた日。君が時計塔の魔法使いの話をしてくれた日。君が、今日をなくさないでと言ってくれた日」


「どうして」


「魔法使いになりたかった」


 蒼夜は、奥の扉を見つめた。


「誰かが、僕みたいに今日を捨てようとしたとき、なくさずに預かれる人になりたかった」


「でも、そのために、わたしとの記憶を」


「一番あたたかい今日を置いていけ、と言われた」


 蒼夜の声がかすれた。


「僕は、それが君との今日だとわかっていたはずなのに、置いていった」


 こよみは首を振った。


「違う」


「違わない」


「違うよ」


 こよみは、思わず幼いころの口調になった。


 蒼夜が目を見開く。


「そうやくんは、忘れたかったんじゃない。守りたかったんでしょう」


 蒼夜は言葉を失った。


「今日なんていらないって思った子が、誰かの今日を守りたいって思ったんでしょう」


 こよみの目から涙が落ちた。


「だったら、それは捨てたんじゃないよ」


 月白色の手帳が、また光る。


 ページに、文字が浮かび始めた。


 そうやくんへ


 泣いた日も、

 ちゃんと今日だから。


 いらない日なんて、

 本当はないから。


 もし忘れてしまっても、

 また見つけにいけばいいよ。


 時計塔の魔法使いなら、

 きっと見つけられるよ。


 半分の月の日に、また会おうね。


 こよみ


 蒼夜の手が震えた。


「君が、書いたのか」


「たぶん」


 こよみは涙を拭った。


「わたし、約束したんだね」


「半分の月の日に」


「うん」


「でも、僕は忘れた」


「わたしも忘れてた」


「僕が、君との今日を預けたから」


「でも、今、見つけた」


 こよみは、蒼夜の前に立った。


「ちゃんと見つけたよ。わたしたちの今日」


 その言葉を聞いた瞬間、時計塔の奥の扉が大きく開いた。


 白い光があふれる。


 中には、小さな記憶の欠片が無数に浮かんでいた。


 雨の日。


 赤い傘。


 月白色の手帳。


 小指の約束。


 半分の月。


 泣いていた蒼夜。


 笑っていたこよみ。


 それらが、光の粒になって蒼夜へ向かう。


 蒼夜は目を閉じた。


 記憶が戻っていく。


 痛いくらいに、あたたかく。


 忘れていた今日が、胸の奥に戻ってくる。


「こよみ」


 蒼夜が言った。


 初めて、名字ではなく名前を呼んだ。


 こよみの胸が大きく鳴る。


「はい」


 蒼夜は、こよみを見た。


「僕は、君を忘れていた」


「うん」


「でも、ずっと探していた」


「うん」


「誰かの今日を預かるふりをして、本当は、君がくれた今日の続きを探していた」


 こよみの目に、また涙が浮かぶ。


「蒼夜さん」


「昨日、聞こえなかった言葉を、もう一度言う」


 こよみは怖くなった。


 また聞こえなくなるかもしれない。


 一番大事なところだけ、白く抜けるかもしれない。


 けれど、逃げたくなかった。


 紗良は、忘れられたら怖いと書いた。


 真帆は、応援したいのに悲しかったと認めた。


 雨宮先輩は、言わなかったけど好きでしたと言った。


 みんな、自分の本当の言葉から逃げなかった。


 だから、こよみも逃げたくなかった。


「聞きます」


 こよみは言った。


「今度は、聞きます」


 蒼夜は、静かに息を吸った。


「君は、僕にとって、大切な今日だ」


 聞こえた。


 今度は、ちゃんと聞こえた。


 一文字も欠けずに。


 白く抜けずに。


 こよみの胸の奥で、何かが動いた。


 止まりかけていた針が、かちりと一目盛り進むような音。


 こよみは泣きながら笑った。


「聞こえました」


 蒼夜の目が揺れる。


「聞こえたのか」


「はい」


「全部?」


「全部」


 こよみは、薄い水色の手帳を開いた。


 ページの端の星が、ひとつ、またひとつと光る。


 そして、三つの星は、すっと線で結ばれた。


 小さな星座みたいだった。


 その下に、こよみの字が浮かぶ。


 蒼夜さんは、わたしの大切な今日です。


 こよみは、顔を赤くした。


「勝手に書かないでほしい」


 蒼夜が、ほんの少し笑った。


「手帳は正直だな」


「見ないでください」


「見えた」


「忘れてください」


「それは無理だ」


 蒼夜は、月白色の手帳を閉じた。


「もう、忘れない」


 その言葉は、とても静かだった。


 けれど、時計塔全体に響いた。


 壁の時計たちが、一斉に動き出す。


 ちく、たく。


 ちく、たく。


 ちく、たく。


 乱れていた音が、少しずつそろっていく。


 こよみは、塔の大時計を見上げた。


 ずっと四時十二分を指していた針。


 幼いこよみが蒼夜に手帳を渡した時刻。


 蒼夜にとって、いらなかった今日が、大切な今日に変わった時刻。


 その針が、震えた。


 かちり。


 音がした。


 長い針が、一分だけ動く。


 四時十三分。


 たった一分。


 でも、その一分は、止まっていた何年分もの時間を連れていた。


 蒼夜が、息をのむ。


「動いた」


 こよみはうなずいた。


「今日の続きに行けたんですね」


 蒼夜は、四時十三分を指す時計を見上げたまま、しばらく黙っていた。


 それから、低く言った。


「僕は、あの日からずっと」


 こよみは、蒼夜を見る。


「今日の続きを待っていたんだと思う」


 こよみの胸が、きゅっとなった。


 それは痛みではなかった。


 少し切なくて、少しあたたかくて、泣きたくなるほどやさしい何かだった。


 こよみは言った。


「じゃあ、行きましょう」


「どこへ」


「明日へ」


 蒼夜は、少し驚いた顔をした。


 それから、ほんの少しだけ笑った。


「君は、ときどき強引だな」


「蒼夜さんほどじゃありません」


「そうか?」


「そうです」


 こよみは手を差し出した。


 蒼夜は、その手を見つめた。


 幼い雨の日の、小指の約束を思い出したのだろう。


 蒼夜は、ためらうように手を伸ばした。


 そのとき、時計塔の鐘が鳴った。


 一度。


 二度。


 三度。


 月待町の夜に、澄んだ音が広がっていく。


 こよみと蒼夜は、手をつないだ。


 昔よりも大きくなった手。


 でも、どこか同じ温度がした。



 

・*・・・*・・・*・

 



 夜明け前、月待町の空は薄い青に変わり始めていた。


 時計塔の扉が開く。


 こよみと蒼夜は、丘の上に立った。


 坂の下には、まだ眠っている商店街がある。


 パン屋も、惣菜屋も、文具店も、図書室のある学校も、全部まだ朝の中で静かだった。


 空には、半分の月が残っている。


 半分でも、ちゃんと月だった。


 こよみは、その月を見上げた。


「約束の日だったんですね」


「ああ」


「半分の月の日」


「君は、覚えていなかったのに来た」


「蒼夜さんも、忘れていたのに待っていました」


「似た者同士か」


「そこは否定しないんですね」


「否定すると、君が言い返す」


「よくわかってますね」


 ふたりは少し笑った。


 笑うと、胸の奥で恋時計がやわらかく鳴った。


 こよみは、ふと思い出して手帳を開いた。


 夜明けまでに思い出さなければ、


 と書かれていたページ。


 そこには、続きが浮かんでいた。


 夜明けまでに思い出さなければ、恋時計は止まる。


 でも、思い出した今日から、

 また明日へ行ける。


 こよみはページを見つめた。


「蒼夜さん」


「何」


「恋時計は、止まりませんでした」


「ああ」


「でも、これからも不思議なことは起きますか」


「月待町だからな」


「便利な言い方ですね」


「便利屋ではない」


 蒼夜が真顔で言ったので、こよみは笑ってしまった。


 笑い声が、朝の空に小さく溶ける。


 蒼夜は、少しだけまぶしそうにこよみを見た。


 その視線が、こよみには少し照れくさかった。


「何ですか」


「いや」


「言ってください」


「聞こえなくなるかもしれない」


 こよみは、手帳を胸に抱いた。


 少し怖かった。


 けれど、前ほどではなかった。


「そのときは、もう一度言ってください」


 蒼夜は、静かに笑った。


「わかった」


「何度でも」


「何度でも?」


「はい。聞こえるまで」


 蒼夜は、半分の月を見上げた。


「では、何度でも言う」


 こよみの心臓が鳴る。


 蒼夜は、ゆっくり言った。


「こよみ」


 名前を呼ばれた。


 それだけで、胸の奥があたたかくなる。


「君に会えてよかった」


 聞こえた。


 ちゃんと聞こえた。


 こよみは、少しだけ泣きそうになった。


「わたしもです」


 その言葉も、ちゃんと届いた。


 朝の光が、時計塔の文字盤を照らしていく。


 針は、四時十三分を指していた。


 止まっていた今日が、ようやく明日へ歩き出した。



 

・*・・・*・・・*・

 


 それから、月待町では相変わらず、恋をすると少しだけ不思議なことが起きる。


 告白の手紙は、ちゃんと本音を書くと白紙に戻らなくなる。


 髪に咲いた星は、隠さなくてもいいとわかると、少しやわらかく光る。


 失恋の雨は、ちゃんと降らせると、青い花を残す。


 そして、好きな人の大事な言葉が聞こえなくなったときは。


 もう一度、聞けばいい。


 怖くても。


 震えても。


 聞こえるまで、何度でも。


 時計塔の魔法使いは、今も丘の上にいる。


 何でも直す便利屋ではない。


 けれど、恋で迷った人が来ると、少し意地悪な顔で言う。


「それで、君は何を聞かないふりしている?」


 その隣で、日向こよみは手帳を開く。


 薄い水色の手帳。


 そこには今日も、月待町の小さな不思議が書かれている。


 雨の日のこと。


 星のこと。


 白紙にならなかった手紙のこと。


 半分の月のこと。


 それから、四時十二分で止まっていた時計が、四時十三分へ進んだ日のこと。


 こよみは最後に、こう書いた。


 泣いた日も、

 聞こえなかった日も、

 好きだと気づくのが怖かった日も、

 ちゃんと今日だった。


 今日があるから、

 明日へ行ける。


 ページの端で、小さな星がひとつ光った。


 窓の外では、時計塔の鐘が鳴る。


 今度は、止まった時間を告げる鐘ではない。


 新しい今日が始まる音だった。



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