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魔素の兆-サイン-  作者: 錦の旗印
第一章 村編
9/31

第8話 アルメリア魔術学園について


森を抜ける頃には、太陽はだいぶ高くなっていた。


まだ昼には少し早い。


けれど、朝の冷たさはもうほとんど消えていて、

額に滲んだ汗が、風に触れるたび少しだけ冷えた。


帰り道を歩く間、何度も腕が辛くなり、

持ってきた瓶を持ち直す。


元のノアが、土の中に隠していた瓶。


乾燥させた薬草。

幼い字で書かれた名前。

採取した日付。

売り値の目安。

そして、アルメリア魔術学園までの地図。


元のノアが、一人で集め、一人で調べ、一人で隠したものだ。俺は俺のために、アルメリアへ行きたいと思っていた。


魔術を学びたい。

魔素のことを知りたい。

この世界の歴史を知りたい。

そして、自分の中にある、まだよく分からない力がどこまで届くのか、確かめてみたい。


けれど今は、それだけではなくなっていた。

元のノアも、同じ場所を見ていた。

同じ学園を目指していた。

同じように、金が足りなくて、それでも諦めきれずに、森で薬草を集めていた。


そう思うと、胸の奥がじんと熱くなる。

俺がこの瓶を見つけたことに、

特別な意味があるのかは分からない。


神の導きだとか、運命だとか、

そんな大げさなことを言うつもりはない。


ただ、元のノアが残したものを、

今の俺が見つけた。それだけは確かだった。

そしてそれを見つけた以上、もう知らないふりはできない。


家が見えてきた。


見慣れた屋根。

見慣れた畑。

見慣れた玄関。


その全部が、今朝出た時よりも少し違って見えた。

ここを離れるかもしれない。

そう思ったからかもしれない。

俺はズレた瓶の口をしっかり閉じなおす。


このことは、リーネにもルツにも言えない。

言えるはずがない。


瓶を見つけたことも。

元のノアがアルメリアを目指していたらしいことも。

俺が、その願いを勝手に受け取ったような気になっていることも。言えない。


両親から見れば、俺はノアだ。

少し変わっていて、妙に大人びていて、

急に魔術に興味を持ち始めたノア。


それだけだ。


だから、俺が話せるのは、学園に行きたいということだけ。

瓶のことは言えない。

元のノアのことも言えない。


俺はただ、森に行って帰ってきた。

それだけだ。


玄関の扉を開けると、ちょうどリーネが奥から顔を出した。


「ノア!」


少し大きい声だった。

驚きと安堵が混じったような声。


「ただいま戻りました」


俺がそう言うと、リーネは俺の姿を上から下まで確認した。


服には土がついている。

膝も少し汚れている。

手も、爪の間まで完全には落としきれていない。


まあ、森に行ったのだから、不自然ではない。

ただ、少し汚れすぎている気はする。


「大丈夫?怪我とかはない?」


「はい。大丈夫です。少し、土で汚れただけです」


「本当に?」


「はい」


リーネはまだ少し心配そうに俺を見ていた。

その奥から、ルツも姿を見せる。

ルツは俺の顔を見て、安心したように少しだけ表情を緩める。


「昼前には戻ると言っていたね」


「はい。遅くなってすみません」


「遅れてはいないよ。約束通りだ」


そう言って、ルツは少しだけ目を細めた。


「ただ、帰ってきたら話があるんだったね」


俺は小さく息を呑んだ。

逃げられない。いや、逃げるつもりはもうない。


森であの瓶を見つけた時点で、俺の中の迷いはほとんど決まっていた。怖くないわけではない。

でも、既に決めたことだから。


「はい。話があります」


俺はそう答えた。


「まず、手を洗ってきなさい」


ルツが静かに言う。


「そのまま食卓につくと、リーネに怒られるよ。」


「怒りません。....けど手は洗ってきなさい。」


リーネが頬を少し膨らませてから、少し間を置いて言った。


いや、たぶん怒ると思うけど.....

俺は少しだけ笑いそうになったが、すぐに堪えた。


背中にある瓶がバレないよう急いで自室に戻り、

机の上に革袋に被った瓶をそっと置く。



「……ちゃんと使わせてもらうから」


小さく呟いた。



それから部屋を出て、洗い場で手と膝についた泥を落とした。爪の間に入った土はなかなか取れない。

何度かこすってから、布で手を拭く。


そして食卓へ戻ると、ルツとリーネはすでに席についていた。リーネの横には、ベビーベッドで横になっているシリウスがいる。朝食の後片付けは終わっていて、食卓の上には水差しと、切り分けられたパンが少しだけ残っていた。


俺は椅子に座り、背筋を伸ばす。


息を吸う。

ここからは、ちゃんと話さなければいけない。

瓶のことは言えない。

元のノアのことも言えない。


でも、アルメリアに行きたいという気持ちは、しっかり伝えよう。


「お母さん、父さん」


リーネが少し緊張した顔でこちらを見る。

ルツは黙って俺を見ている。


「僕、アルメリア魔術学園に行きたいです」


言った。

言ってしまった。


部屋の中の空気が、一瞬だけ止まったような気がした。

リーネが目を見開く。


「アルメリア魔術学園……?」


「はい」


「急に、どうして?」


当然の反応だった。

俺は膝の上で拳を握る。


「この世界のことや魔術のことをもっともっと知りたいからです。昨日、父さんには少し相談しました。でも、本当に行きたいなら、二人にちゃんと話すべきだと思いました」


リーネの視線がルツへ向く。


「昨日聞いたんだ。ノアが学園に行きたいって。」


ルツは静かに答えた。


リーネは困惑したように眉を寄せた。

俺は、できるだけ順番に説明した。

これまで、野草採集と偽って森へ行き、

独学で魔術の練習をしていたこと。


そこでフェリシアさんという女性に出会ったこと。

第三等級魔術で行き詰まっていた時、

彼女にコツを教えてもらったこと。

彼女によれば、俺は魔核の容量が多く、

魔術の才能もあるかもしれないこと。


そして、アルメリア魔術学園という場所があることを教えてもらったこと。


魔術を、理論から学びたいこと。

魔素のことも、この世界の歴史も、もっと知りたいこと。

今のまま独学で続けるには限界があること。

そして昨日、それをルツに相談したこと。


話している間、リーネは一度も遮らなかった。

ただ、じっと俺を見ていた。

優しい目だった。

でも、その奥には不安もある。


俺が話し終えると、

リーネは困ったようにルツへ視線を向けた。


「あなたは、いいの?」


声は静かだった。

けれど、声音には動揺が混じっているのがわかる。


「ノアが遠くに行くこと、賛成なの? 

この子はまだ十二歳なのよ。あと少しで十三歳とはいえ、

まだ子供よ。私たちはノアの魔術の練度も、魔核の容量も、ちゃんと分かっているわけじゃないのよ?」


ルツは少しだけ腕を組み、考えるように目を伏せた。

そして、ゆっくりと口を開いた。


「賛成だよ。」


その言葉に、リーネが小さく息を呑む。


「ノアは、この歳にしては恐ろしいくらいに大人だ。もちろん、まだ年齢的には子供だ。たまに危なっかしいところもある。」


ルツは俺を一度見てから、またリーネへ視線を戻した。


「でも、この子は考えている。自分が何をしたいのか、何が必要なのかを、自分なりに考えている。」


「それに、すでに一部とはいえ第三等級魔術まで使える。普通なら第一等級、よくて第二等級を覚えて人生を終える人も多い。十二歳でそこまで届いているなら、才能があると言っていいはずだ。」


ルツの声は、いつもより少しだけ強かった。


「畑は僕が教えられる。生きるための知恵もある程度なら教えられる。でも、魔術は違う。才能があるなら、相応の場所で学んだ方がいい。ノアに才能があるのにそのまま埋もれていくことの方が僕は怖い。」


リーネはしばらく黙っていた。

その沈黙の間、俺は食卓の木目を見ていた。


何も言えなかった。

リーネに本気で止められたら、どうするのか。

その答えは、俺は持っていない。


やがてリーネは、ふっと息を吐いた。


「……そう。そうなのね。」


そして、少しだけ笑った。


「ノアが自分でそう言って、あなたが賛成するなら、私は止めないわ」


「お母さん……」


「本当は、寂しいわよ。遠くに行くなんて言われて、はいそうですか。なんて簡単には思えない。でも」


リーネは俺を見た。少し寂しそうに。でも、優しく。


「あなたが自分で決めたなら、応援したいわ。」


目の奥が少し熱くなる。


「ありがとうございます」


俺は頭を下げた。


「僕、必ず入ります」


ルツが短く頷いた。


「なら、次は現実の話だ」


おっと。来た。一番重要なこと。


「問題は金だ」


ですよね。


アルメリア魔術学園は、エルナト地方の隣、ディリー地方にある。


気軽に行って帰ってこられる距離ではない。


旅費。

受験料。

入学金。

学費。

寮費。

生活費。


考えれば考えるほど、必要な金が増えていく。

俺の頭には、机の上の瓶が浮かんでいた。

あの中の薬草を売れば、少しは足しになる。

いや、少しどころではないかもしれない。

元のノアが残したメモの売り値が本当なら、

それなりの金額にはなるはずだ。

けれど、それをここで言うわけにはいかない。


なぜそんな薬草を持っているのか。

なぜ黙っていたのか。

どこで見つけたのか。

聞かれたら説明が出来ない。


ルツは少し考えてから言った。


「うちの畑や農具、農作物を一部売ることも考えよう」


「待ってください」


俺は反射的に言っていた。


「それは嫌です」


ルツが眉を上げる。


「嫌?」


「はい。父さんがあれだけ手間暇かけた畑や農具を売ってまで、僕の学費に充てるのは嫌です。それなら、僕は別の方法を考えます。」


「馬鹿なことを言ってはいけないよ」


ルツの声が少しだけ硬くなった。


「君はまだ子供だ。いくら第三等級魔術が使えるといっても、稼ぐと言って簡単に稼げるものじゃない。

冒険者として迷宮にでも入るかい? 右も左も分からず死ぬだろう。そんなに楽に稼ぐ方法なんて世の中にはないんだ。」


「それでも嫌です」


俺は真っ直ぐ言った。


「父さんの畑を売るくらいなら、僕は別の方法を探します。まずは、学園にどれくらいお金が必要なのか、ちゃんと調べたいです。学費の免除制度などがあるかもしれません。」


ルツはしばらく俺を見ていた。


それから、小さくため息をついた。


「本当に、君は変に頑固だね」


「すみません」


「謝るところではないよ。時にはそんな頑固さも大事だ。」


その時、黙っていたリーネがゆっくり立ち上がった。


「二人とも、少し待っていて」


そう言うと、リーネは火のついていない暖炉の方へ歩いていった。


そして、暖炉の奥のレンガを二つほど動かす。

出てきた穴に手を入れ、小さな袋を取り出した。


リーネはそれを大事そうに両手で持ち、食卓へ戻ってくる。


「はい、これ。」


袋が、ことりと机の上に置かれた。


「お母さん、これは?」


「開けてみて。」


言われるまま袋を引き寄せる。思ったより重い。


紐を解いて中を見ると、大量の銅貨と、

そこそこの量の銀貨、そして数枚の金貨が入っていた。


「えっ……」


声が漏れた。


「これ、どうしたんですか」


「私が内緒で貯めていたお金よ」


リーネは少し照れたように笑った。


「いつか、もしかしたら、あなたが外に出たいと言う日が来るかもしれないと思って。その時のために、少しずつね。まあ、こんなに早く来るとは思っていなかったけれど。」


「リーネ……僕にも内緒でこんなに……」


ルツが何とも言えない顔をしている。

少し面白い。けれど、笑う空気ではなかった。


「母さん……ありがとうございます。」


結局、それだけしか言えなかった。


リーネは優しく笑った。


「いいのよ。でも、お金使って行ったのに受かりませんでした、なんてことになったら、お母さん怒るからね。」


冗談めかして言っている。


でも、本気も少し混じっている気がした。


「はい。」


俺は袋を両手で握った。


「絶対に入ります。」


ルツが短く笑った。


「言ったからには、必ず通るんだよ。」


「はい。」



なんとしてでも学園に入る。

そのために、できることを一つずつやる。


「じゃあ、まずは図書館に行ってきなさい」


リーネがパンを片付けながら言った。


「まだ、学園についての詳しいことはあまり知らないのでしょう?」


「はい。学費や試験内容について、詳しく調べてきます。」


そう答えながらも、俺の頭の中には別のことがあった。

図書館に行く前に、寄らなければいけない場所がある。


質屋だ。

あの薬草を売らせてもらう。

それも、全部。


「司書さんに失礼のないようにね。」


「分かってます。」


俺は一度、自室へ戻った。


机に置いた革袋を引き寄せる。中には瓶がある。

蓋を開けると、乾いた薬草の匂いがふわりと広がった。


少し甘く、少し苦い。

森の匂いとは違う、濃く凝縮された植物の匂い。

元のノアが、どれだけ時間をかけてこれを集めたのか。

それを考えると、全部売ってしまうことに、少しだけためらいが生まれた。


でも、これは飾っておくためのものではない。

元のノアは、これを売るために集めた。

アルメリアへ行くために。

なら、俺がそれを使うことは、きっと間違っていないはず。


「……ありがとう。」


誰にも聞こえないくらいの声で呟く。


「使わせてもらうよ。」


俺は瓶の中の薬草を、種類ごとに布へ包んだ。

小さな紙片も一緒に入れる。


薬草の名前。採った日付。

乾燥の注意。似た毒草との違い。売り値の目安。


これがあれば、質屋でも多少は話ができるはずだ。

今度はしっかりと瓶を入れてもあまりラインが浮き出ないであろう大きめの革袋に瓶を入れてそれを背負い、

部屋を出て階段を降りた。


玄関の近くで、シリウスを抱いたリーネがこちらを見る。

「行ってらっしゃい。」


俺は図書館を行く旨を伝えて、家を出た。

村の中央へ向かう道を歩く。

朝に比べて、人通りは増えていた。


荷車を押す男。野菜を並べる女性。井戸端で話す老人たち。

走り回る子供たち。いつもの村だ。


まずは薬草を売る。

それから図書館で、アルメリア魔術学園について調べる。

やることがはっきりしていると、不安は少しだけ薄くなる。

村の端に、小さな質屋がある。

古道具や宝飾品、薬草、珍しい石などを買い取っている店だ。


正直、子供一人で入るには少し気が引ける。

だが、立ち止まっていても仕方ない。


俺は店の前で一度息を吸い、扉を開けた。

中は少し薄暗かった。

棚には古びた壺や金属の飾り、使い込まれた道具、本、石、布などが雑多に並んでいて、

奥のカウンターには、痩せた男が座っていた。


男は俺を見ると、少しだけ眉を上げた。


「いらっしゃい。坊や、何か探し物か?」


完全に子供扱いだ。

まあ、実際子供なので仕方ない。


俺は革袋をカウンターに置いた。


「薬草の買取をお願いしたいです」


男の目が、ほんの少しだけ変わった。


「薬草?」


「はい。状態を見て、値段を教えてください」


男はゆっくりと立ち上がり、革袋の中を覗いた。

それから、瓶を開けて薬草を一束、手に取る。

匂いを嗅ぎ、葉の筋を指でなぞり、

乾燥具合を見るように、軽く折る。


ぱき、と小さな音がした。

男の目つきが、さっきよりも少し鋭くなる。


「……どこでこれを?」


「森です。」


「君が採ったのかい?」


「はい。」


嘘ではない。

俺が採ったわけではないが。


男は俺を見た。

疑っているようにも、値踏みしているようにも見える。


「これは、そこらの雑草じゃない。種類も悪くない。乾燥も丁寧だ。ただ……少し古いな」


やっぱり、そこは見抜かれるか。

俺は表情に出さないよう、真顔を通す。


「値はつきますか?」


「ああ。」


男は薬草をもう一束取った。


「全部で、金貨一枚と銀貨三枚。」


安い。安すぎる。

元のノアが残した紙に書かれていた売り値を合計すると、

状態がよければ金貨三枚近くはいくはずだった。もちろん、

古くなって価値が落ちていることは分かっている。

それでも、金貨一枚と銀貨三枚は低すぎる。

俺は革袋に手を伸ばした。


「では、今日は持ち帰ります」


男の眉が動いた。


「待ちな。坊や、金貨一枚と銀貨三枚だぞ。

子供が持ってきた薬草にしては破格だ。」


「子供が持ってきた薬草だから、その値段なんですよね。」


男の口元がわずかに止まった。


「……何?」


「状態が少し古いのは分かっています。でも、種類は悪くないはずです。乾燥も雑ではありません。束ごとに分けてありますし混ざりも少ない。金貨一枚と銀貨三枚は、状態の評価ではなく、僕の年齢を見た値段だと思います」


言ってから、自分でも少し怖くなった。

相手は大人だ。

ここで怒らせれば、交渉どころではない。


でも、引けない。

元のノアが集めた薬草を、

安く見られたまま売るわけにはいかない。


男はしばらく黙って俺を見ていた。

それから、低く笑った。


「面白いことを言うな、坊や。」


「間違っていますか?」


「間違ってはいない。だが、商売では、相手の年齢や信用も値段に入る。」


「薬草そのものの値段はいくらですか。」


「……」


男の目が細くなった。

俺は革袋から、元のノアが書いた紙を取り出した。

もちろん、全部は見せない。

ただ、薬草の名前と、乾燥方法、似た毒草との違いが書かれた部分だけを見せる。


「これを見てください」


男は紙を受け取った。

最初は軽く見るだけだった。

だが、途中で目が止まる。


「……この字、君が書いたのか?」


「はい。」

そう答えるしかない。


男は紙を見下ろしたまま、指で一部を軽く叩いた。


「似た毒草との違いまで書いてある。よく調べているな」


「だから、

ただの雑草として売りに来たわけではありません。」


男はしばらく黙った。


店の中に、棚の奥で小さな金属が揺れる音だけが響いた。

やがて男は、紙をカウンターに置いた。


「金貨一枚と銀貨八枚」


「持ち帰ります。」


「おいおい、上がっただろう。」


「まだ低いです。」


「強気だな。」


「これを売るために来ました。

でも、安く売るために来たわけではありません。」


男は腕を組んだ。


「じゃあ、いくらならいい。」


俺は一度息を吸った。

ここで高く言いすぎれば、交渉が壊れる。

低く言いすぎれば、負ける。


元のノアの紙に書かれた合計。

保存状態の劣化。

子供という信用の低さ。

質屋が再販売する時の利益。


それらを考える。


「金貨二枚と銀貨五枚。」


男が鼻で笑った。


「馬鹿を言うな。新品同然の薬草ならともかく、これは古い。保存がいいとはいえ、香りは落ちている。効能だって多少は弱まっているだろう。金貨二枚と銀貨五枚は出せない。」


「では、他へ行きます。」


俺は革袋を閉じようとした。


男の手が、それを止めた。


「まあ待てよ....」


俺は手を止める。

男は少し苛立ったように息を吐いた。


「金貨二枚。」


「金貨二枚と銀貨五枚です。」


「強情だな。」


「必要なので。」


「学費か?」


心臓が少し跳ねた。


顔に出さないようにしたつもりだったが、男はそれを見逃さなかったらしい。


「図星か。アルメリアか?」


俺は黙った。


男は少しだけ笑う。


「この辺で、そんな目をした子供が金を欲しがる理由なんて限られてる。アルメリア魔術学園。違うか?」


「……違いません。」


「なら、なおさら金は必要だろう。金貨二枚で手を打て。」


「だからこそ、銀貨五枚が必要です。」


男の眉がぴくりと動く。


俺は続けた。


「これは、僕にとってただの薬草ではありません。売れば終わりの品です。もう同じものは二度と用意できません。

だからこそ、納得できる値段でなければ売れません。」


正確には、これは俺の薬草ではない。

元のノアの薬草だ。だからこそ、安く売れない。


男は俺をじっと見た。

その視線に、値踏みだけではないものが少し混じる。


「……金貨二枚と銀貨二枚。」


「五枚です。」


「三枚。」


「五枚です。」


「四枚。」


「五枚です。」


男は深くため息をついた。


「坊や、お前、商人に向いてるよ。」


「ありがとうございます。」


「褒めてない。」


その後、男はしばらく黙っていたが、

やがてカウンターの下から小さな木箱を取り出した。


鍵を開ける。


中から金貨を二枚、銀貨を五枚取り出し、

カウンターに並べる。


金属の音が、やけにはっきり響いた。


「金貨二枚と銀貨五枚。これ以上は一枚も出さない。」


俺はすぐには手を伸ばさなかった。

薬草を見る。

革袋の中に詰まった、元のノアの努力。

これを渡せば、もう戻らない。


土の中で眠っていた願いが、金に変わる。

それが正しいことなのかは、まだ分からない。

でも、元のノアは、きっとそのために集めた。


俺は小さく息を吸った。


「分かりました。その値段でお願いします。」


男は革袋を引き寄せ、薬草を奥へしまった。

俺は金貨二枚と銀貨五枚を受け取る。


手のひらに乗った金貨は、思ったより重かった。

これが、元のノアが残した薬草の値段。


学園へ向かう道が、本当に少しだけ開けた気がした。


「大事に使えよ。」


男がぼそりと言った。


「はい。」


「あと、学園に行くなら覚えておけ。金は、持っているだけじゃ意味がない。使い方を間違えると、金貨十枚あってもすぐ消える。」


「......覚えておきます。」


俺は金を革袋の奥にしまい、店を出た。

外の光が、少し眩しかった。

手元には金貨二枚と銀貨五枚。



次は図書館だ。

アルメリア魔術学園について、

もっと詳しく調べなければならない。


試験。

学費。

年齢制限。

推薦状。

特待生制度。


知らないことが多すぎる。

俺は図書館へ向かって歩き出した。

図書館の前に着き、

いつものように扉の前で一呼吸してから中へ入る。

カウンターには、いつもの司書さんが座っていた。


細い金縁の眼鏡をかけ、本を閉じる音が静かに響く。


「どうも、マックイーンさん。お久しぶりです。」


「はい。今日は、長らく借りていたこちらの本の返却と、学園について知りたくて来ました。」


「学園?」


司書さんが少し驚いたように眉を上げる。


「アルメリア魔術学園です。」


「ずいぶん大きなところを選びましたね。」


「行こうと思っています。」


司書さんは少し目を細め、口角を上げた。


「なるほど。少々お待ちください。」


そう言って、足早に奥の棚へ消える。


その間、俺はカウンターに置かれた古い本の山をぼんやり見ていた。


アルメリア。

その名前を口に出した瞬間から、

胸の奥がずっとざわざわしている。


「お待たせしました。」


しばらくして、司書さんが数冊の本と折り畳まれた地図を抱えて戻ってきた。


「こちらが学園の概要になります。こちらは地理関係です。」


「ありがとうございます。」


テーブルに並べてもらい、ページを開く。


『アルメリア魔術学園。

ディリー地方北西端に位置する教育都市アルメリアに設立。

創立はおよそ一二〇年前。

学年は八年制で、原則満二十歳以上で卒業。

初代校長は第六等級魔術師、リヴィア=ファルナード。』


へえ.....


そんなに昔からあるのか。


学園って、なんとなく最近できた便利施設みたいなイメージだったけど、思ったより歴史がある。


次のページには、入学条件要項が書かれていた。


・人物像:一定の基礎教養を有し、学問に対して真摯に取り組む意志を持ち、集団生活に適応できる者。

・年齢:原則十三歳以上 (推薦制度あり)

・基礎魔術の実技試験

・一般知識試験(読み書き、計算、地理等)

・特別試験(試験内容は年度ごとに異なり、受験者の思考力・判断力・応用力・魔術適性等を総合的に評価する。)



「十三歳以上……」


俺は思わず呟いた。

今の俺は十二歳だ。

あと少しで十三歳になるとはいえ、条件には届いていない。

いや、待て。

だったら十三歳になるまで待てばいいのか?

一瞬そう思った。


でも、すぐにフェリシアさんの言葉が頭をよぎる。


「あなたなら、行けますよ。」



その言葉を頭の中で繰り返していると、

司書さんが続きを読んでくれる。


『十三歳未満の志願者については、認可術者による推薦状、および保護者の同意を条件として、例外的に受験資格を認める場合がある。

推薦受験者については、基礎魔術の実技、魔核容量の推定、術式理解の柔軟性を重視する。』



通常入学なら十三歳以上。

でも、十二歳でも推薦があれば受けられる。



次の項目は学費。


ざっと読む。


入学金は金貨二枚と銀貨二枚。


一年ごとの学費は金貨三枚。


その他、寮費、食堂利用費、教材費。


「うわ……高っ」


思わず口から出た。


質屋で受け取った金貨二枚と銀貨五枚。

入学金には届く。

届くが、本当にそれだけだ。

一年ごとの学費、寮費、食堂利用費まで考えれば、全然足りない。


司書さんが小さく笑い、補足を入れてくれる。


「だから、特待生制度があるんです。」


「特待生.....」

やっぱりあるのか。


「成績優秀者には、学費や寮費が一部免除される枠があります。ただし、ほんの数人だけですが。」


「推薦受験でも、特待生になれるんですか?」


「なれます。むしろ、年齢例外で推薦されるような受験者は、実技評価の方を高く見られることが多いですね。もちろん、筆記が極端に悪ければ落ちますが。」


なるほど。


つまり、俺が狙うべきなのは普通の合格ではない。

推薦を使って受験資格を得る。

実技で評価を取る。

筆記で落ちない程度に点を取る。

そして、特待生か、最低でも準特待に入る。


これしかない。


「試験はどこで受けるんですか?」


「地方ごとの試験会場があります。エルナト地方なら、いくつかありますよ。この村から一番近い街ならベルリナですね。ここからだと三日ほどでしょうか。」


「三日……」


馬車で行ける距離ではある。

でも、泊まりになる。


地図を開くと、村の位置、街道、その先にあるベルリナの町が示されていた。

そこからさらに北東へ行けば、ディリー地方。

その端に、アルメリアの名前がある。


こうして見ると、本当に遠い。

ここに行くのか。

リーネやルツとも、長い間会えなくなる。

フェリシエさんにも、簡単には会えなくなる。

それでも。

知りたいことがある。



司書さんがページの一部分を、指先で欄外を軽く叩いた。


「ここ、大事ですよ。ノアさんは、現在十二歳ですよね?」


「はい」


「十三歳未満なら、認可のある術者の推薦状が必要です。署名と印章、もしくは印に準ずる証明があれば、例外受験が認められます」


「推薦者は、村の外の方でも問題ありませんか?」


「規定上は、所在地を問いません。ただし、一定以上の魔術の素養がある人物である必要があります。」


フェリシアさん。


頭の中に、その名前が浮かんだ。


ここで避けて通れない。


推薦状を頼まなければいけない。


「それに、推薦者がいる受験者は、特待生にも選ばれやすい傾向があります。特待生については、筆記の総合成績と実技評価の合算で、上位から若干名。年度によって席数は変わるようですね。」


「若干名……具体的には?」


「過去の記録では、三名から五名ほどの年が多いです。地方ごとに準特待のような部分免除枠が出る年もあります」


三人から五人。


狭い。


いや、狭すぎる。

でも、ここで弱気になってどうする。

元のノアは、一人で薬草を集めていた。

リーネは、俺のために金を貯めてくれていた。

ルツは、行くことを認めてくれた。

なら、俺が最初から諦めるわけにはいかない。


「試験の時期は春の半ば。もうすぐですね。書類と、未成年の場合は保護者の同意書。推薦入学希望者は認可術者の推薦状。人物保証は、村長さんがいいでしょう」


司書さんが机の隅から紙と炭筆を差し出した。


「必要なものをまとめておくといいですよ。」


「助かります。」


俺は紙がずれないように手で押さえ、必要事項を書き出した。


・出願締切

・保護者同意書

・推薦状

・人物保証

・旅程計画

・受験料

・筆記試験対策

・実技試験対策

・特待生制度の確認

・年齢例外の条件


よし。


抜けはない。


たぶん。


「それから、こちらをどうぞ」


司書さんが、小さめの本を二冊持ってきた。


『街道地理の手引き 北部編 第三版』

『アルメリア魔術学園とは』


「貸し出し期限は二週間です」


「必ず返します。」


「返すのはもちろんですが、使い切って返してください。」


「はい。」


その後、写しが済んだ紙一式を揃え、地図を丁寧に三つ折りにし、借りた本の中に挟んだ。


司書さんにお礼を言って、外に出る。


図書館の外に出ると、明るい日差しが目に入った。


暗いところから急に外に出たせいで、昼過ぎの光が目に刺さり、少し顔をしかめる。


広場では、行商が声を上げていた。

香辛料の匂いが、風に混じって薄く流れてくる。

俺は革袋の中の金貨と銀貨を指先で確かめた。

金貨二枚と銀貨五枚。


入学金と、少し。

リーネが貯めてくれていた金。

ルツの言葉。

元のノアが残した薬草。


そして、図書館で写した学園の情報。

全部が、少しずつ一本の道になり始めている。

でも、まだ足りない。


金も足りない。

準備も足りない。

推薦状もない。

筆記の対策も必要だ。


それでも、昨日までよりは確かに前へ進んでいる。


「さて…次は、フェリシアさんに推薦状を頼まないとな。」


小さく呟いて、俺は森へ続く道の方を見た。


俺は借りた本を抱え直し、フェリシアさんに会うため、もう一度森の方へ歩き出した。


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