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魔素の兆-サイン-  作者: 錦の旗印
第一章 村編
8/31

第7話 本当に好きだったのか。金なのか。

以前の俺は、

二度と学校には行かないと決めていた。


学校。集団生活。他人と比べられる時間。決められた場所に座り、決められたことを覚え、決められた評価を受ける場所。


そんなものに、

もう一度自分から入りたいと思う日が来るなんて、少し前の俺なら絶対に信じなかった。


けれど、昨日の夜。

布団の中で、何度も何度も考えた。


フェリシアさんの言葉。

アルメリア魔術学園のこと。

魔術のこと。魔素のこと。

この世界の歴史や成り立ち。


考えれば考えるほど、

胸の奥に沈めたはずの感情が、

ゆっくりと浮かび上がってきた。


俺は、学びたい。

魔術を。この世界を。俺自身の中にある、

まだよく分からない何かを。


だから今日、朝食のあとで、

リーネとルツに改めて伝えるつもりだった。

アルメリア魔術学園に行きたい、と。


昨日、ルツにはもう話した。

けれど、それはあくまでルツに相談しただけだ。


本当に行くなら、リーネにも話さなければならない。


二人の前で、自分の口からはっきりと言って、

承諾を勝ち取らなければならない。


そのつもりだった。

そのつもり、だったのだが。


机の上に広げた一枚の地図から、

どうしても目が離せなかった。


昨日、部屋のベッドの裏から見つけた手書きの地図。


古い紙は少し黄ばんでいて、

端の方はところどころ折れ曲がっている。

けれど、破れてはいない。雑に扱った形跡も一切ない。

むしろ、誰かが大事に隠していたようにも見えた。


そこには、森とその周辺らしき地形が描かれていた。

ノアが書いたであろう幼い筆跡。曲がった線。

何度もなぞったような濃い線。

黒く塗りつぶされた小さな跡。

とても上手い地図とは言えない。


けれど、俺には分かる。

これは、あの森だ。


家の近くにある、

いつも俺が野草採集という名目で魔術の練習に行っていた森。昨日も歩いた、あの森。


そして、その地図の奥の方に、

大きく濃い黒字でバツ印が書かれていた。

ただの印にしては、やけに強い。

線が太い。黒い。何度も何度も上からなぞったように、

紙の表面が少し潰れている。


その横には、注釈のようなものも書かれていた。

だが、正直に言って、よく分からない。

文字が潰れている部分もある。

単語の繋がりも妙に曖昧だ。


元のノアが自分だけに分かるように書いたのか、

それとも幼かったせいで上手く言葉にできなかったのか。

何かを見つけた印なのか。

危険な場所という意味なのか。

まったく分からない。



だがただの落書きなら、

わざわざベッドの裏に貼って隠す必要なんてない。


それに、この濃く塗りつぶされたバツ印だけは、

妙に強い意志を持っているように見えた。


ここに何かある。

根拠はない。ただ、そう感じた。

元のノアが何を思ってこの地図を描いたのか。

何を見つけたのか。

何を忘れないようにしたかったのか。


それを確かめないまま、

アルメリア学園の話をする気にはなれなかった。

もちろん、分かっている。


これは逃げなのかもしれない。

リーネに話すのが怖い。ルツに賛成してもらえても、

リーネがどう思うか分からない。

遠くの学園に行きたいなんて言えば、

驚くに決まっている。


だから俺は、地図を理由にして、

報告を少しだけ先に延ばそうとしている。

そこまで分かっていても、手は勝手に地図を丸めていた。


「……少しだけ確認するだけだ」

誰に言うでもなく、そう呟く。

確認して、戻ってきて、それから話せばいい。

今日中に言う。それは絶対に変えない。

そう自分に言い聞かせながら、俺は地図を綺麗に丸め、右手に持ち、部屋を出た。

階段を降りると、朝の匂いがした。


焼いたパンの香ばしい匂い。温かいスープの匂い。それから、リーネがよく使う香草の、少し甘い匂い。

一階へ降りると、リーネとルツはすでに食卓に座っていた。


「おはよう、ノア」


リーネがいつものように柔らかく笑う。


「おはようございます、お母さん。父さん」


俺はできるだけ普段通りに返事をして、椅子に座った。

食卓には、焼き目のついたパンと、野菜の入ったスープ。それから、薄く切った果物と、昨日の残りらしい肉料理が並んでいた。

全部、美味しそうだった。

美味しそうだったのだが。

……味が、あまり分からない。

スープを口に運んでも、舌より先に頭が動く。


学園の話をするべきか。いや、先に地図を確かめたい。


でも、朝食後に話すと決めていた。


いや、でも、あの地図は元のノアが残したものだ。


あのバツ印は何なのか。


あのよく分からない注釈は何を意味しているのか。


元のノアにとって何か大事な場所なのか。


分からない。


分からないからこそ、

一度考え出すと気になって仕方がない。


ここで学園の話をしてしまえば、

たぶん俺はその後家から離れられなくなるかもしれない。


リーネへの説明。ルツとの相談。学費の話。旅の準備。

そうなれば、

あの地図の場所を確かめる機会は、後回しになる。

それが、どうにも嫌だった。


ふと視線を上げると、ルツと目が合った。

ルツは何も言わない。

ただ、いつもより少しだけ静かな目で俺を見ていた。


昨日、学園のことを相談した。

そして明日。つまり今日話そうと言われた。

リーネに切り出すならば今ではないのか。

という彼からの圧力を感じる。


俺はルツからの無言の圧力から逃れようと、

スープを口に運んだ。


朝食の時間は、いつもよりとても長く感じた。







朝食を食べ終え、リーネが皿を片付けようと立ち上がる。


その瞬間、俺も椅子から立ち上がった。


「お母さん、父さん」

言いかけて、喉が止まった。


今、言うべきだ。

アルメリア学園に行きたい。昨日、ルツには話した。でも、改めて二人に聞いてほしい。

そう言えばいい。

たったそれだけなのに、言葉が出てこない。

ルツが静かにこちらを見ている。

リーネは不思議そうに瞬きをした。


「どうしたの、ノア?」


俺は一度、丸めた地図を握り直した。

紙の感触が、手のひらに伝わる。

「……少し、森に行ってきてもいいですか」


俺は逃げた。


俺の言葉を聞いて、

リーネが少し驚いた顔をする。


「森に? 昨日も行ってたでしょう?また行くの?」


「はい。ただ、昨日少し気になるものを見つけて。

朝のうちに確認しておきたいんです」


「気になるもの?」


リーネが少し眉を寄せる。


「はい。でも、まだ何かは分かりません。

危ない場所には行きません。昼前には戻ります」


「でも……」

リーネが不安そうに口を開きかける。


その横で、ルツがゆっくりと俺を見た。

「一人で行くのかい?」


「はい」


ルツはしばらく俺を見ていた。

その目は、怒っているわけではなかった。けれど、

俺が何かを隠していることくらい、たぶん分かっている。


「……昼前には帰ってくるんだよ」


「はい」


「それと、帰ってきたら話がある。ノアも、そうだろう?」


胸が一瞬、詰まった。

やっぱり、気づかれている。

俺は小さく頷いた。


「はい。帰ってきたら、必ず話します。」


ルツはそれ以上何も聞かなかった。

リーネはまだ少し不安そうだったが、俺とルツを交互に見て、最後には小さく息を吐いた。


「分かったわ。でも、本当に気をつけてね。」


「はい。ありがとうございます」


俺は一度部屋に戻り、小さな革袋に必要なものを入れた。

水筒。短いナイフ。布。それから、昨日見つけた地図。

地図を革袋に入れようとして、やめた。


すぐに確認できるように、右手に持っておくことにした。


家の扉を開けると、朝の空気が肌にやさしく触れる。

まだ日差しは柔らかい。畑の土は少し湿っていて、

遠くから鳥の声が聞こえる。


振り返ると、家の窓からリーネがシリウスを抱きながらこちらを見ていた。

その奥で、ルツも立っている。

俺は軽く頭を下げ、森へ向かって歩き出した。








森の入り口に着くと、俺は一度足を止めた。


木々の間に伸びる細い道。湿った土の匂い。

草の葉に残った朝露。鳥の声。遠くで枝が揺れる音。

すべてがいつも通りのはずなのに、

俺の意識だけが違っている。


俺は丸めていた地図を開いた。

紙の端が、少しだけ湿った指に張り付く。

描かれている線は、相変わらず頼りない。

道の太さも正確ではないし、木の位置も大雑把だ。

目印らしいものも、丸や三角で描かれているだけで、何を表しているのか分からないものが多い。

それでも、よく見ると、

いくつか見覚えのある形があった。


森の入り口近くにある大きな岩。

少し曲がった細い小道。倒れた木。小さな沢。

たぶん、あれだ。

俺は地図と実際の景色を何度も見比べながら、

ゆっくりと森の中へ入っていった。



足元の枝を踏まないように注意しながら進む。

何度か立ち止まり、地図を広げる。周囲を見回す。

また歩く。

そんなことを繰り返した。


最初のうちは、正直かなり怪しかった。

元のノアが描いた地図は、方角も距離感もかなり曖昧だ。

子供が描いたものだから当然なのだが、

こっちはそれを頼りに森の中を歩いている。


もし少しでも読み違えれば、

全然違う場所に着くかもしれない。

それでも、地図に描かれた特徴は、

完全なでたらめではなかった。

小さな沢を越えたところで、俺はまた足を止める。


地図を見る。

沢の線。そこから右に折れる細い道。その先に描かれた、

妙に大きな丸。そのさらに奥に、例のバツ印。

俺は周囲を見回した。


右側に、獣道のような細い道があった。

いや、道というより、草の倒れ方が少しだけ違うだけだ。

知らなければ見逃す。でも、地図を見ていれば分かる。


ここだ。


俺は息を吸い、ゆっくりとその道へ足を踏み入れた。

森の奥へ進むにつれて、日差しは少しずつ弱くなっていく。木々の枝が重なり、空が細くなる。

足元の土は柔らかく、落ち葉が何層にも重なっていた。


数分歩いたところで、

地図に描かれていた大きな丸の意味が分かった。

大きな古木だった。

幹は太く、表面には深い皺のような樹皮が走っている。

根は地面の上に大きく張り出し、

まるで地面を掴んでいるようだった。


地図の丸は、この木を表していたのだ。

俺はその古木の前で地図を広げる。

バツ印は、この木からさらに少し進んだところにある。

注釈の文字は、やはりよく分からない。

ただ、いくつか読めそうな部分がある。

右。石。下。

たぶん、そう書いてある。


本当にそれが正しいのかは分からない。

けれど、この古木を基準に右へ行き、石の下を見る。

そういう意味なら、辻褄は合う。


俺は古木の右側へ回り込んだ。

そこから先は、ほとんど道らしい道ではなかった。


草が伸びている。細い枝が顔の高さに張り出している。

地面には落ち葉が厚く積もっていて、

どこに何があるのか分かりにくい。


しばらく探していると、低い草の中に、

少しだけ不自然な膨らみが見えた。

近づいて、しゃがむ。


石があった。

大きさは、俺の頭より少し大きいくらい。

苔がついていて、周りの土とほとんど同じ色になっている。


だが、たぶん、昔からここにある石ではない。

そう思った理由は、石そのものではなく、

その周りの草だった。


周囲の草木は、自然に伸びている。

背丈も向きもばらばらで、落ち葉も均等に積もっている。


けれど、その石の周辺だけ、少し違った。

草の生え方が妙に薄い。若い芽が多い。土の色も、

周りより少しだけ濃い。


時間が経って、かなり分かりづらくなっている。

草木も生え変わっているし、落ち葉も積もっている。

何も知らずに通り過ぎれば、絶対に気づかない。

でも、地図を見て、バツ印を意識して探せば分かる。


ここだけ、周りと違う。

確かに、ここに何か埋まっている。直感的にそう感じた。


喉が鳴った。

俺は周囲を見回した。

人の気配はない。動物の気配もない。聞こえるのは、

風に葉が揺れる音と、遠くの鳥の声だけだ。


よし、掘り起こそう.....

魔術を使えば、掘るのは簡単だと思った。

土を動かす。石をどかす。風で落ち葉を払う。


今の俺でも、それくらいならできる。

けれど、俺は魔術を使わなかった。


理由は、はっきりとは分からない。

ただ、ここにあるものを荒っぽく掘り起こしたくなかった。


元のノアが残したものだ。

それが何なのかは分からない。

価値があるものなのかも分からない。

ただのガラクタかもしれない。


それでも、俺ではないノアが、

自分の手でここに埋めたものなら、

俺も自分の手で掘り起こすべきだと思った。

俺は革袋から短いナイフを取り出した。

刃を土に差し込む。


硬い。

表面の土は落ち葉で柔らかく見えたが、

その下は思ったより締まっていた。


石の周りの土を、少しずつ削る。

一気には掘らない。焦って刃を深く差し込みすぎれば、

中にあるものを傷つけるかもしれない。


草を抜く。落ち葉を払う。土を少し削る。小さな根を避ける。また土を削る。


そんな作業を、ゆっくりと続けた。

手が汚れる。

爪の間に土が入る。膝に湿った土がつく。額に汗が滲む。

子供の体には、思ったよりきつい作業だった。


それでも、やめようとは思わなかった。

今、自分は元のノアに近づいている。

そんな感覚があった。


やがて、ナイフの先が何か硬いものに当たった。

石とは違う。

鈍い音ではなく、乾いた音。


俺は動きを止めた。

少しずつ、周囲の土を払う。

丸みのある表面が見えた。


瓶だ。


土に汚れているが、確かに瓶だった。

そこそこ大きい。両手で抱えるほどではないが、

片手で簡単に扱えるほど小さくもない。

口にはしっかりと蓋がされていて、

その上から布のようなものが巻かれている。

さらに、紐で何重にも縛られていた。


俺は慎重に土を掘り広げ、瓶の周囲を露出させた。


十分に掘ってから、瓶の胴を両手で掴む。

少し力を入れる。動かない。

もう少し周りを掘る。

もう一度、ゆっくり引く。

土が小さく崩れ、瓶がわずかに浮いた。


「……よし」


思わず声が漏れた。

俺はさらに慎重に瓶を引き上げた。

土の中から完全に出てきた瓶は、

思っていたよりも重かった。


中に何かが詰まっている。

俺は近くの根元に腰を下ろし、瓶についた土を布で拭った。

蓋の周りに巻かれた布は、古くなって少し硬くなっている。紐も乾いていて、指で触るとざらついた。


俺はナイフで紐の端を少しだけ切り、

少しずつほどいていき、

掛かっている布を外す。蓋に手をかける。固い。


何年も開けられていなかったのかもしれない。

俺は瓶を膝の間に挟み、ゆっくりと力を込めた。

ぎ、と小さな音がした。


蓋が少し動く。

もう一度、力を入れる。

乾いた音とともに、蓋が外れた。


その瞬間、瓶の中から、乾いた草の匂いが立ち上った。

青臭さはほとんどない。むしろ、少し甘く、少し苦い。森の匂いとは違う、濃く凝縮された自然由来の匂い。


俺は中を覗き込んだ。

そこには、乾燥された薬草が入っていた。


束にされ、いくつかに分けられている。

ただ突っ込まれているのではない。

種類ごとに小さな紐でまとめられ、薄い紙が挟まれている。


その紙には、名前らしき文字が書かれていた。

俺は一枚を手に取る。字は幼い。

だが、必死に丁寧に書こうとした跡がある。


薬草の名前。採った場所。乾燥させた日付らしき数字。

そして、その横に、小さく売り値の目安が書かれていた。

銅貨何枚。銀貨何枚。ものによっては、銀貨数枚。


俺は息を止めた。

瓶の中にある薬草は、少なくない。

一束一束は小さい。けれど、全部合わせれば、

かなりの量になる。


俺は紙を何枚も確認した。

薬草の名前。状態。売値。合計のような数字。

元のノアは、ただ薬草を集めていただけではない。


売るつもりだったのだ。

ちゃんと乾燥させて、種類ごとに分けて、

値段まで調べていた。たった七歳の子供が。


俺は、別の紙を手に取った。

そこには同じ薬草の名前が、何度も書かれていた。


一度書いて線で消してまた横に書き直しているものもある。効能の説明も、途中から字が小さくなって、

無理やり余白に押し込まれていた。


そのほかにも乾燥させる時の注意。採ってはいけない時期。似た形の毒草。安く買い叩かれないための見分け方。


俺は瓶の中をさらに確認した。

奥の方に、薬草とは別の紙束が入っていた。

湿気を避けるためか、何重かに折られ、

薄い油紙のようなものに包まれている。


俺はそれを取り出し、慎重に開いた。

中に入っていたのは、地図だった。

俺が今持っている森の地図とは違う。

もっと広い地図。


エルナト地方。街道。宿場らしき印。川。山。

そして、ずっと遠くに描かれた別の地方。

ディリー地方。そのさらに先に小さな文字で書かれていた。


「アルメリア魔術学園。」


文字を見て心臓が、一瞬強く跳ねる。

俺は地図を持つ手に力を入れた。紙が小さく震える。


アルメリア。


なぜ、ここにその地図がある。

なぜ、元のノアがそれを持っている。


俺は地図の隅に書かれた文字を追った。

街道の名前。途中で泊まる場所。必要になりそうな日数。

食料の目安。そして、費用。

その横に、また小さな文字があった。


入学。試験。学費。足りない。


それを見た瞬間、頭の中で、

ばらばらだったものが繋がった。

薬草。売り値。地図。アルメリア。学費。

俺は、瓶の中の薬草を見た。

それから、アルメリアの地図を見た。

そして、もう一度、元のノアの文字を見た。


「……元のノアもアルメリアに行こうとしていたんだ……」

声が、ほとんど息のように漏れた。


胸の奥が、急に熱くなった。

俺だけが思っていたわけじゃなかった。


この体の元の持ち主も、同じ場所を見ていた。

アルメリア魔術学園。遠い場所。高い学費。

子供一人ではどうにもならない現実。


それでも元のノアは、諦めなかった。

森で薬草を集め。乾燥させ。種類ごとに分け。

売り値を調べ。地図を手に入れ。道を調べ。

必要な金額を計算していた。


たぶん、誰にも言えなかったのだと思う。

子供が、遠くの魔術学園に行きたいなんて。

そんなことを言っても、困らせるだけだと思ったのかもしれない。笑われると思ったのかもしれない。

無理だと言われるのが怖かったのかもしれない。


だから、一人で調べ、一人で集め、そして隠した。


いつか行くために。足りない分を補うために。


俺は瓶の前で、しばらく動けなかった。

元のノアも、当たり前なのだが、ここにいた。

この地図に。この薬草に。この不器用な文字に。

この瓶を土の中に隠した、小さな手の跡に。

俺が今立っている場所に、確かにいた。

俺は、瓶の中の薬草をそっと指で撫でた。

乾燥した葉が、かさりと小さく鳴る。


この瓶の中に入っているのは、ただの乾燥薬草じゃない。

諦めきれなかった願いだ。


売り値の計算は、正確とは言えない。

たぶん、相場をそのまま信じて書いただけで、

実際に売ればもっと安く買い叩かれるかもしれない。


薬草の保存状態だって、完璧ではない。乾燥はしているが、何年も経てば価値が落ちている可能性もある。


この瓶一つで学費が足りるとは思えない。

旅費にも、入学費にも、生活費にも、まだまだ遠い。

けれど、そんなことは問題ではなかった。

これは金じゃない。これは、意思だ。

元のノアが、ここまでして残した意思。

アルメリアに行きたい。魔術を学びたい。

もっと遠くへ行きたい。


その願いが、形になってここに埋まっていた。

俺は、薬草をひと束取り出す。


この薬草は、売るために集められたものだ。

元のノアが、自分で調べて、自分で乾かして、

自分で相場まで書いたもの。

なら、これは飾っておくものじゃない。

思い出として、大事にしまっておくものでもない。

使うためのものだ。

アルメリアに行くために。

元のノアが、そうしようとしていたのだから。

俺は瓶を抱え直し、静かに息を吸った。


「……ありがとう。そしてごめん。ノア。」


「俺、頑張るよ。」


喉の奥が熱くなる。

自分でも情けないくらい、声が震えていた。


「だから……使わせてくれ......」


瓶の中の薬草を見つめる。

これは元のノアのものだ。

俺が勝手に使っていいものなのか。

そんな考えが一瞬、胸をよぎる。

でも、すぐに思い直した。違う。


これは、元のノアがアルメリアに行くために集めたものだ。

なら、俺がアルメリアに行くために使うことは、きっと間違っていない。


少なくとも、土の中で誰にも見つからず、腐るまで眠らせておくよりは、ずっといい。


俺は蓋を閉めながら、そう呟いた。


「お前が集めた薬草、少しでも高く売って、

学園に行くために使わせてもらう.....」


言葉にすると、

胸の奥にあった迷いが少しずつ形を変えていった。

罪悪感が完全になくなったわけではない。

元のノアの努力を、

自分が横から奪っているような気持ちは、少しある。


でも、それ以上に、託されたような気がする。

もちろん元のノアが本当にそう思っていたかは分からない。


それでも。

この瓶を見つけたのが俺で。この体で生きているのも俺で。アルメリアに行きたいと願っているのも俺なら。

背負う。俺は俺のために行く。


けれど、それだけじゃない。

元のノアが残した願いも、一緒に持っていく。


俺はアルメリアの地図を丁寧に畳んだ。

薬草の束も、紙も、できるだけ元の形に戻していく。


瓶の蓋を閉めて、俺は瓶を革袋に入れて、

手に抱え持って帰ることにした。


俺は立ち上がり、もう一度周囲を見渡す。


草木は静かに揺れている。掘り返した土だけが、

そこに何かがあったことを示していた。


元のノアが、一人でここに来て、一人で瓶を埋めた場所。

俺はその場所に向かって、小さく頭を下げた。


「行くよ。俺が行く。アルメリアに。」


怖くないわけではない。

学園に行くのは怖い。とても怖い。遠くへ行くのも怖い。

リーネとルツを置いていくのも怖い。

試験に落ちるかもしれない。金が足りないかもしれない。自分より優秀な人間に囲まれて、

また何もできなくなるかもしれない。


それでも。

俺は俺のために、そして、元のノアのために、行く。


あいつが見ようとした景色を、俺が見る。

あいつが辿り着けなかった場所へ、俺が辿り着く。


俺は瓶を抱え直し、来た道を戻り始めた。

森の中の道は、相変わらず分かりにくい。


行きよりも、足取りは重い。瓶を抱えているせいで、

腕も疲れる。何度も持ち直さなければならない。

それでも、心は少しだけ前を向いていた。

木々の隙間から差し込む朝の光が、行きよりも明るく見える。


俺は地図を抱え、瓶を抱え、森を抜けていく。



家に帰ったら、話そう。

リーネに。ルツに。

俺はアルメリア魔術学園に行きたい。

いや、違う。行きたい、ではないな。

行かなければいけない。


元のノアが残したこの瓶と、

この地図とこの願いを持って。

アルメリア魔術学園に必ず行く。




.......だが、最後に一つだけ気になったことがあった。

なぜ、植物の図鑑や本をノアはほとんど、

持っていないのだろうか。


家にも植物、特に花や薬草に関する本は一冊ずつしかない。

なぜなのだろう。本を買う金がなかったのだろうか。


でも、あの家は、

本や図鑑を全く買えないほど困窮しているわけではない。

実際、ルツの畑に関する本はいくつかあったのだから。


でもそのような詳しいことは、

ノア本人にしかわからないか。


そう思い、俺は森を出て、瓶を抱え、帰路についた。

家には、図鑑一冊。新しい図鑑を買おうとする形跡もない。

さらに、家には花などが飾られている形跡も一切ない。

部屋にも花や植物を感じさせる要素がない。





ノアは、植物が好きで調べていたんでしょうか。

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