第7話 本当に好きだったのか。金なのか。
以前の俺は、
二度と学校には行かないと決めていた。
学校。集団生活。他人と比べられる時間。決められた場所に座り、決められたことを覚え、決められた評価を受ける場所。
そんなものに、
もう一度自分から入りたいと思う日が来るなんて、少し前の俺なら絶対に信じなかった。
けれど、昨日の夜。
布団の中で、何度も何度も考えた。
フェリシアさんの言葉。
アルメリア魔術学園のこと。
魔術のこと。魔素のこと。
この世界の歴史や成り立ち。
考えれば考えるほど、
胸の奥に沈めたはずの感情が、
ゆっくりと浮かび上がってきた。
俺は、学びたい。
魔術を。この世界を。俺自身の中にある、
まだよく分からない何かを。
だから今日、朝食のあとで、
リーネとルツに改めて伝えるつもりだった。
アルメリア魔術学園に行きたい、と。
昨日、ルツにはもう話した。
けれど、それはあくまでルツに相談しただけだ。
本当に行くなら、リーネにも話さなければならない。
二人の前で、自分の口からはっきりと言って、
承諾を勝ち取らなければならない。
そのつもりだった。
そのつもり、だったのだが。
机の上に広げた一枚の地図から、
どうしても目が離せなかった。
昨日、部屋のベッドの裏から見つけた手書きの地図。
古い紙は少し黄ばんでいて、
端の方はところどころ折れ曲がっている。
けれど、破れてはいない。雑に扱った形跡も一切ない。
むしろ、誰かが大事に隠していたようにも見えた。
そこには、森とその周辺らしき地形が描かれていた。
ノアが書いたであろう幼い筆跡。曲がった線。
何度もなぞったような濃い線。
黒く塗りつぶされた小さな跡。
とても上手い地図とは言えない。
けれど、俺には分かる。
これは、あの森だ。
家の近くにある、
いつも俺が野草採集という名目で魔術の練習に行っていた森。昨日も歩いた、あの森。
そして、その地図の奥の方に、
大きく濃い黒字でバツ印が書かれていた。
ただの印にしては、やけに強い。
線が太い。黒い。何度も何度も上からなぞったように、
紙の表面が少し潰れている。
その横には、注釈のようなものも書かれていた。
だが、正直に言って、よく分からない。
文字が潰れている部分もある。
単語の繋がりも妙に曖昧だ。
元のノアが自分だけに分かるように書いたのか、
それとも幼かったせいで上手く言葉にできなかったのか。
何かを見つけた印なのか。
危険な場所という意味なのか。
まったく分からない。
だがただの落書きなら、
わざわざベッドの裏に貼って隠す必要なんてない。
それに、この濃く塗りつぶされたバツ印だけは、
妙に強い意志を持っているように見えた。
ここに何かある。
根拠はない。ただ、そう感じた。
元のノアが何を思ってこの地図を描いたのか。
何を見つけたのか。
何を忘れないようにしたかったのか。
それを確かめないまま、
アルメリア学園の話をする気にはなれなかった。
もちろん、分かっている。
これは逃げなのかもしれない。
リーネに話すのが怖い。ルツに賛成してもらえても、
リーネがどう思うか分からない。
遠くの学園に行きたいなんて言えば、
驚くに決まっている。
だから俺は、地図を理由にして、
報告を少しだけ先に延ばそうとしている。
そこまで分かっていても、手は勝手に地図を丸めていた。
「……少しだけ確認するだけだ」
誰に言うでもなく、そう呟く。
確認して、戻ってきて、それから話せばいい。
今日中に言う。それは絶対に変えない。
そう自分に言い聞かせながら、俺は地図を綺麗に丸め、右手に持ち、部屋を出た。
階段を降りると、朝の匂いがした。
焼いたパンの香ばしい匂い。温かいスープの匂い。それから、リーネがよく使う香草の、少し甘い匂い。
一階へ降りると、リーネとルツはすでに食卓に座っていた。
「おはよう、ノア」
リーネがいつものように柔らかく笑う。
「おはようございます、お母さん。父さん」
俺はできるだけ普段通りに返事をして、椅子に座った。
食卓には、焼き目のついたパンと、野菜の入ったスープ。それから、薄く切った果物と、昨日の残りらしい肉料理が並んでいた。
全部、美味しそうだった。
美味しそうだったのだが。
……味が、あまり分からない。
スープを口に運んでも、舌より先に頭が動く。
学園の話をするべきか。いや、先に地図を確かめたい。
でも、朝食後に話すと決めていた。
いや、でも、あの地図は元のノアが残したものだ。
あのバツ印は何なのか。
あのよく分からない注釈は何を意味しているのか。
元のノアにとって何か大事な場所なのか。
分からない。
分からないからこそ、
一度考え出すと気になって仕方がない。
ここで学園の話をしてしまえば、
たぶん俺はその後家から離れられなくなるかもしれない。
リーネへの説明。ルツとの相談。学費の話。旅の準備。
そうなれば、
あの地図の場所を確かめる機会は、後回しになる。
それが、どうにも嫌だった。
ふと視線を上げると、ルツと目が合った。
ルツは何も言わない。
ただ、いつもより少しだけ静かな目で俺を見ていた。
昨日、学園のことを相談した。
そして明日。つまり今日話そうと言われた。
リーネに切り出すならば今ではないのか。
という彼からの圧力を感じる。
俺はルツからの無言の圧力から逃れようと、
スープを口に運んだ。
朝食の時間は、いつもよりとても長く感じた。
朝食を食べ終え、リーネが皿を片付けようと立ち上がる。
その瞬間、俺も椅子から立ち上がった。
「お母さん、父さん」
言いかけて、喉が止まった。
今、言うべきだ。
アルメリア学園に行きたい。昨日、ルツには話した。でも、改めて二人に聞いてほしい。
そう言えばいい。
たったそれだけなのに、言葉が出てこない。
ルツが静かにこちらを見ている。
リーネは不思議そうに瞬きをした。
「どうしたの、ノア?」
俺は一度、丸めた地図を握り直した。
紙の感触が、手のひらに伝わる。
「……少し、森に行ってきてもいいですか」
俺は逃げた。
俺の言葉を聞いて、
リーネが少し驚いた顔をする。
「森に? 昨日も行ってたでしょう?また行くの?」
「はい。ただ、昨日少し気になるものを見つけて。
朝のうちに確認しておきたいんです」
「気になるもの?」
リーネが少し眉を寄せる。
「はい。でも、まだ何かは分かりません。
危ない場所には行きません。昼前には戻ります」
「でも……」
リーネが不安そうに口を開きかける。
その横で、ルツがゆっくりと俺を見た。
「一人で行くのかい?」
「はい」
ルツはしばらく俺を見ていた。
その目は、怒っているわけではなかった。けれど、
俺が何かを隠していることくらい、たぶん分かっている。
「……昼前には帰ってくるんだよ」
「はい」
「それと、帰ってきたら話がある。ノアも、そうだろう?」
胸が一瞬、詰まった。
やっぱり、気づかれている。
俺は小さく頷いた。
「はい。帰ってきたら、必ず話します。」
ルツはそれ以上何も聞かなかった。
リーネはまだ少し不安そうだったが、俺とルツを交互に見て、最後には小さく息を吐いた。
「分かったわ。でも、本当に気をつけてね。」
「はい。ありがとうございます」
俺は一度部屋に戻り、小さな革袋に必要なものを入れた。
水筒。短いナイフ。布。それから、昨日見つけた地図。
地図を革袋に入れようとして、やめた。
すぐに確認できるように、右手に持っておくことにした。
家の扉を開けると、朝の空気が肌にやさしく触れる。
まだ日差しは柔らかい。畑の土は少し湿っていて、
遠くから鳥の声が聞こえる。
振り返ると、家の窓からリーネがシリウスを抱きながらこちらを見ていた。
その奥で、ルツも立っている。
俺は軽く頭を下げ、森へ向かって歩き出した。
森の入り口に着くと、俺は一度足を止めた。
木々の間に伸びる細い道。湿った土の匂い。
草の葉に残った朝露。鳥の声。遠くで枝が揺れる音。
すべてがいつも通りのはずなのに、
俺の意識だけが違っている。
俺は丸めていた地図を開いた。
紙の端が、少しだけ湿った指に張り付く。
描かれている線は、相変わらず頼りない。
道の太さも正確ではないし、木の位置も大雑把だ。
目印らしいものも、丸や三角で描かれているだけで、何を表しているのか分からないものが多い。
それでも、よく見ると、
いくつか見覚えのある形があった。
森の入り口近くにある大きな岩。
少し曲がった細い小道。倒れた木。小さな沢。
たぶん、あれだ。
俺は地図と実際の景色を何度も見比べながら、
ゆっくりと森の中へ入っていった。
足元の枝を踏まないように注意しながら進む。
何度か立ち止まり、地図を広げる。周囲を見回す。
また歩く。
そんなことを繰り返した。
最初のうちは、正直かなり怪しかった。
元のノアが描いた地図は、方角も距離感もかなり曖昧だ。
子供が描いたものだから当然なのだが、
こっちはそれを頼りに森の中を歩いている。
もし少しでも読み違えれば、
全然違う場所に着くかもしれない。
それでも、地図に描かれた特徴は、
完全なでたらめではなかった。
小さな沢を越えたところで、俺はまた足を止める。
地図を見る。
沢の線。そこから右に折れる細い道。その先に描かれた、
妙に大きな丸。そのさらに奥に、例のバツ印。
俺は周囲を見回した。
右側に、獣道のような細い道があった。
いや、道というより、草の倒れ方が少しだけ違うだけだ。
知らなければ見逃す。でも、地図を見ていれば分かる。
ここだ。
俺は息を吸い、ゆっくりとその道へ足を踏み入れた。
森の奥へ進むにつれて、日差しは少しずつ弱くなっていく。木々の枝が重なり、空が細くなる。
足元の土は柔らかく、落ち葉が何層にも重なっていた。
数分歩いたところで、
地図に描かれていた大きな丸の意味が分かった。
大きな古木だった。
幹は太く、表面には深い皺のような樹皮が走っている。
根は地面の上に大きく張り出し、
まるで地面を掴んでいるようだった。
地図の丸は、この木を表していたのだ。
俺はその古木の前で地図を広げる。
バツ印は、この木からさらに少し進んだところにある。
注釈の文字は、やはりよく分からない。
ただ、いくつか読めそうな部分がある。
右。石。下。
たぶん、そう書いてある。
本当にそれが正しいのかは分からない。
けれど、この古木を基準に右へ行き、石の下を見る。
そういう意味なら、辻褄は合う。
俺は古木の右側へ回り込んだ。
そこから先は、ほとんど道らしい道ではなかった。
草が伸びている。細い枝が顔の高さに張り出している。
地面には落ち葉が厚く積もっていて、
どこに何があるのか分かりにくい。
しばらく探していると、低い草の中に、
少しだけ不自然な膨らみが見えた。
近づいて、しゃがむ。
石があった。
大きさは、俺の頭より少し大きいくらい。
苔がついていて、周りの土とほとんど同じ色になっている。
だが、たぶん、昔からここにある石ではない。
そう思った理由は、石そのものではなく、
その周りの草だった。
周囲の草木は、自然に伸びている。
背丈も向きもばらばらで、落ち葉も均等に積もっている。
けれど、その石の周辺だけ、少し違った。
草の生え方が妙に薄い。若い芽が多い。土の色も、
周りより少しだけ濃い。
時間が経って、かなり分かりづらくなっている。
草木も生え変わっているし、落ち葉も積もっている。
何も知らずに通り過ぎれば、絶対に気づかない。
でも、地図を見て、バツ印を意識して探せば分かる。
ここだけ、周りと違う。
確かに、ここに何か埋まっている。直感的にそう感じた。
喉が鳴った。
俺は周囲を見回した。
人の気配はない。動物の気配もない。聞こえるのは、
風に葉が揺れる音と、遠くの鳥の声だけだ。
よし、掘り起こそう.....
魔術を使えば、掘るのは簡単だと思った。
土を動かす。石をどかす。風で落ち葉を払う。
今の俺でも、それくらいならできる。
けれど、俺は魔術を使わなかった。
理由は、はっきりとは分からない。
ただ、ここにあるものを荒っぽく掘り起こしたくなかった。
元のノアが残したものだ。
それが何なのかは分からない。
価値があるものなのかも分からない。
ただのガラクタかもしれない。
それでも、俺ではないノアが、
自分の手でここに埋めたものなら、
俺も自分の手で掘り起こすべきだと思った。
俺は革袋から短いナイフを取り出した。
刃を土に差し込む。
硬い。
表面の土は落ち葉で柔らかく見えたが、
その下は思ったより締まっていた。
石の周りの土を、少しずつ削る。
一気には掘らない。焦って刃を深く差し込みすぎれば、
中にあるものを傷つけるかもしれない。
草を抜く。落ち葉を払う。土を少し削る。小さな根を避ける。また土を削る。
そんな作業を、ゆっくりと続けた。
手が汚れる。
爪の間に土が入る。膝に湿った土がつく。額に汗が滲む。
子供の体には、思ったよりきつい作業だった。
それでも、やめようとは思わなかった。
今、自分は元のノアに近づいている。
そんな感覚があった。
やがて、ナイフの先が何か硬いものに当たった。
石とは違う。
鈍い音ではなく、乾いた音。
俺は動きを止めた。
少しずつ、周囲の土を払う。
丸みのある表面が見えた。
瓶だ。
土に汚れているが、確かに瓶だった。
そこそこ大きい。両手で抱えるほどではないが、
片手で簡単に扱えるほど小さくもない。
口にはしっかりと蓋がされていて、
その上から布のようなものが巻かれている。
さらに、紐で何重にも縛られていた。
俺は慎重に土を掘り広げ、瓶の周囲を露出させた。
十分に掘ってから、瓶の胴を両手で掴む。
少し力を入れる。動かない。
もう少し周りを掘る。
もう一度、ゆっくり引く。
土が小さく崩れ、瓶がわずかに浮いた。
「……よし」
思わず声が漏れた。
俺はさらに慎重に瓶を引き上げた。
土の中から完全に出てきた瓶は、
思っていたよりも重かった。
中に何かが詰まっている。
俺は近くの根元に腰を下ろし、瓶についた土を布で拭った。
蓋の周りに巻かれた布は、古くなって少し硬くなっている。紐も乾いていて、指で触るとざらついた。
俺はナイフで紐の端を少しだけ切り、
少しずつほどいていき、
掛かっている布を外す。蓋に手をかける。固い。
何年も開けられていなかったのかもしれない。
俺は瓶を膝の間に挟み、ゆっくりと力を込めた。
ぎ、と小さな音がした。
蓋が少し動く。
もう一度、力を入れる。
乾いた音とともに、蓋が外れた。
その瞬間、瓶の中から、乾いた草の匂いが立ち上った。
青臭さはほとんどない。むしろ、少し甘く、少し苦い。森の匂いとは違う、濃く凝縮された自然由来の匂い。
俺は中を覗き込んだ。
そこには、乾燥された薬草が入っていた。
束にされ、いくつかに分けられている。
ただ突っ込まれているのではない。
種類ごとに小さな紐でまとめられ、薄い紙が挟まれている。
その紙には、名前らしき文字が書かれていた。
俺は一枚を手に取る。字は幼い。
だが、必死に丁寧に書こうとした跡がある。
薬草の名前。採った場所。乾燥させた日付らしき数字。
そして、その横に、小さく売り値の目安が書かれていた。
銅貨何枚。銀貨何枚。ものによっては、銀貨数枚。
俺は息を止めた。
瓶の中にある薬草は、少なくない。
一束一束は小さい。けれど、全部合わせれば、
かなりの量になる。
俺は紙を何枚も確認した。
薬草の名前。状態。売値。合計のような数字。
元のノアは、ただ薬草を集めていただけではない。
売るつもりだったのだ。
ちゃんと乾燥させて、種類ごとに分けて、
値段まで調べていた。たった七歳の子供が。
俺は、別の紙を手に取った。
そこには同じ薬草の名前が、何度も書かれていた。
一度書いて線で消してまた横に書き直しているものもある。効能の説明も、途中から字が小さくなって、
無理やり余白に押し込まれていた。
そのほかにも乾燥させる時の注意。採ってはいけない時期。似た形の毒草。安く買い叩かれないための見分け方。
俺は瓶の中をさらに確認した。
奥の方に、薬草とは別の紙束が入っていた。
湿気を避けるためか、何重かに折られ、
薄い油紙のようなものに包まれている。
俺はそれを取り出し、慎重に開いた。
中に入っていたのは、地図だった。
俺が今持っている森の地図とは違う。
もっと広い地図。
エルナト地方。街道。宿場らしき印。川。山。
そして、ずっと遠くに描かれた別の地方。
ディリー地方。そのさらに先に小さな文字で書かれていた。
「アルメリア魔術学園。」
文字を見て心臓が、一瞬強く跳ねる。
俺は地図を持つ手に力を入れた。紙が小さく震える。
アルメリア。
なぜ、ここにその地図がある。
なぜ、元のノアがそれを持っている。
俺は地図の隅に書かれた文字を追った。
街道の名前。途中で泊まる場所。必要になりそうな日数。
食料の目安。そして、費用。
その横に、また小さな文字があった。
入学。試験。学費。足りない。
それを見た瞬間、頭の中で、
ばらばらだったものが繋がった。
薬草。売り値。地図。アルメリア。学費。
俺は、瓶の中の薬草を見た。
それから、アルメリアの地図を見た。
そして、もう一度、元のノアの文字を見た。
「……元のノアもアルメリアに行こうとしていたんだ……」
声が、ほとんど息のように漏れた。
胸の奥が、急に熱くなった。
俺だけが思っていたわけじゃなかった。
この体の元の持ち主も、同じ場所を見ていた。
アルメリア魔術学園。遠い場所。高い学費。
子供一人ではどうにもならない現実。
それでも元のノアは、諦めなかった。
森で薬草を集め。乾燥させ。種類ごとに分け。
売り値を調べ。地図を手に入れ。道を調べ。
必要な金額を計算していた。
たぶん、誰にも言えなかったのだと思う。
子供が、遠くの魔術学園に行きたいなんて。
そんなことを言っても、困らせるだけだと思ったのかもしれない。笑われると思ったのかもしれない。
無理だと言われるのが怖かったのかもしれない。
だから、一人で調べ、一人で集め、そして隠した。
いつか行くために。足りない分を補うために。
俺は瓶の前で、しばらく動けなかった。
元のノアも、当たり前なのだが、ここにいた。
この地図に。この薬草に。この不器用な文字に。
この瓶を土の中に隠した、小さな手の跡に。
俺が今立っている場所に、確かにいた。
俺は、瓶の中の薬草をそっと指で撫でた。
乾燥した葉が、かさりと小さく鳴る。
この瓶の中に入っているのは、ただの乾燥薬草じゃない。
諦めきれなかった願いだ。
売り値の計算は、正確とは言えない。
たぶん、相場をそのまま信じて書いただけで、
実際に売ればもっと安く買い叩かれるかもしれない。
薬草の保存状態だって、完璧ではない。乾燥はしているが、何年も経てば価値が落ちている可能性もある。
この瓶一つで学費が足りるとは思えない。
旅費にも、入学費にも、生活費にも、まだまだ遠い。
けれど、そんなことは問題ではなかった。
これは金じゃない。これは、意思だ。
元のノアが、ここまでして残した意思。
アルメリアに行きたい。魔術を学びたい。
もっと遠くへ行きたい。
その願いが、形になってここに埋まっていた。
俺は、薬草をひと束取り出す。
この薬草は、売るために集められたものだ。
元のノアが、自分で調べて、自分で乾かして、
自分で相場まで書いたもの。
なら、これは飾っておくものじゃない。
思い出として、大事にしまっておくものでもない。
使うためのものだ。
アルメリアに行くために。
元のノアが、そうしようとしていたのだから。
俺は瓶を抱え直し、静かに息を吸った。
「……ありがとう。そしてごめん。ノア。」
「俺、頑張るよ。」
喉の奥が熱くなる。
自分でも情けないくらい、声が震えていた。
「だから……使わせてくれ......」
瓶の中の薬草を見つめる。
これは元のノアのものだ。
俺が勝手に使っていいものなのか。
そんな考えが一瞬、胸をよぎる。
でも、すぐに思い直した。違う。
これは、元のノアがアルメリアに行くために集めたものだ。
なら、俺がアルメリアに行くために使うことは、きっと間違っていない。
少なくとも、土の中で誰にも見つからず、腐るまで眠らせておくよりは、ずっといい。
俺は蓋を閉めながら、そう呟いた。
「お前が集めた薬草、少しでも高く売って、
学園に行くために使わせてもらう.....」
言葉にすると、
胸の奥にあった迷いが少しずつ形を変えていった。
罪悪感が完全になくなったわけではない。
元のノアの努力を、
自分が横から奪っているような気持ちは、少しある。
でも、それ以上に、託されたような気がする。
もちろん元のノアが本当にそう思っていたかは分からない。
それでも。
この瓶を見つけたのが俺で。この体で生きているのも俺で。アルメリアに行きたいと願っているのも俺なら。
背負う。俺は俺のために行く。
けれど、それだけじゃない。
元のノアが残した願いも、一緒に持っていく。
俺はアルメリアの地図を丁寧に畳んだ。
薬草の束も、紙も、できるだけ元の形に戻していく。
瓶の蓋を閉めて、俺は瓶を革袋に入れて、
手に抱え持って帰ることにした。
俺は立ち上がり、もう一度周囲を見渡す。
草木は静かに揺れている。掘り返した土だけが、
そこに何かがあったことを示していた。
元のノアが、一人でここに来て、一人で瓶を埋めた場所。
俺はその場所に向かって、小さく頭を下げた。
「行くよ。俺が行く。アルメリアに。」
怖くないわけではない。
学園に行くのは怖い。とても怖い。遠くへ行くのも怖い。
リーネとルツを置いていくのも怖い。
試験に落ちるかもしれない。金が足りないかもしれない。自分より優秀な人間に囲まれて、
また何もできなくなるかもしれない。
それでも。
俺は俺のために、そして、元のノアのために、行く。
あいつが見ようとした景色を、俺が見る。
あいつが辿り着けなかった場所へ、俺が辿り着く。
俺は瓶を抱え直し、来た道を戻り始めた。
森の中の道は、相変わらず分かりにくい。
行きよりも、足取りは重い。瓶を抱えているせいで、
腕も疲れる。何度も持ち直さなければならない。
それでも、心は少しだけ前を向いていた。
木々の隙間から差し込む朝の光が、行きよりも明るく見える。
俺は地図を抱え、瓶を抱え、森を抜けていく。
家に帰ったら、話そう。
リーネに。ルツに。
俺はアルメリア魔術学園に行きたい。
いや、違う。行きたい、ではないな。
行かなければいけない。
元のノアが残したこの瓶と、
この地図とこの願いを持って。
アルメリア魔術学園に必ず行く。
.......だが、最後に一つだけ気になったことがあった。
なぜ、植物の図鑑や本をノアはほとんど、
持っていないのだろうか。
家にも植物、特に花や薬草に関する本は一冊ずつしかない。
なぜなのだろう。本を買う金がなかったのだろうか。
でも、あの家は、
本や図鑑を全く買えないほど困窮しているわけではない。
実際、ルツの畑に関する本はいくつかあったのだから。
でもそのような詳しいことは、
ノア本人にしかわからないか。
そう思い、俺は森を出て、瓶を抱え、帰路についた。
家には、図鑑一冊。新しい図鑑を買おうとする形跡もない。
さらに、家には花などが飾られている形跡も一切ない。
部屋にも花や植物を感じさせる要素がない。
ノアは、植物が好きで調べていたんでしょうか。




