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魔素の兆-サイン-  作者: 錦の旗印
第三章 冒険者加入編
25/31

第23話 討伐成功

アルファが地を蹴った。

低く沈んだ巨体が、弾かれたように前へ出る。


灰色の外套をまとった彼女は、

その場から大きくは避けず、

右足を半歩引き、体の向きだけを変える。


爪が空を裂き風音が鳴る。


彼女は、

アルファの前脚が通り過ぎる瞬間に合わせて、

片手の剣を振り上げた。

刃が鼻先をかすめる。


浅い。


だが、血飛沫が飛び上がり、アルファが低く唸る。

彼女は追撃せず剣先を下げたまま、

アルファの正面から外れないように足を運ぶ。


一歩。半歩。また一歩。


その動きは速いというより、

無駄がなかった。


アルファが右に回れば、彼女も体を右へ向ける。

アルファが首を低くすれば、彼女の重心もわずかに沈む。


まるで、互いに鏡を見ているみたいに、

彼女は動きをぴったりアルファに合わせる。


アルファの癖を見て、呼吸を見て、

次にどこへ動くかを読んでいる。


俺たちがさっきまでしていた戦いとは、

まるで別物だった。


その時アルファが突然、体を沈め低い姿勢になる。


来る。


そう思った瞬間には、既に動き出していた。

黒い影が地面を滑るように走る。

左へ飛んでくると見せて、右足を軸に体を回す。


アルファの牙が外套の端を噛み裂いた。

灰色の布が散る。


その内側からは、もう一本の短剣が抜かれている。


彼女は回転の勢いを殺さず、

左手の刃をアルファの脇腹へ突き込む。


鈍い音がした。

肉を裂く音にしては明らかに鈍く硬い。

嫌な手応えを想像させる音だった。


アルファが吠えた。


彼女はすぐに突き刺した脇腹から剣を抜く。


「硬いっ……」


少女が小さく呟いた。


その声には、警戒の色が混じる。


アルファの脇腹から血は出ていた。

だが、傷は浅い。


狼獣の毛皮が異様に厚いのか。筋肉が刃を止めたのか。

それとも、この個体そのものが異常ではないのか。

考える間もなく、アルファが向きを変えた。


速い。

あの巨体で、どうしてそんな動きができるのだ。

アルファの後脚が地面を蹴り、尾が鞭のようにしなる。


少女は剣で受けなかった。受ければ折れる。

そう判断したのだろう。


彼女は後ろへ下がるのではなく、

さらに一歩だけ踏み込んだ。アルファの体の内側へ入る。


爪の軌道が彼女の背中すれすれを通り過ぎた。

俺の息が止まる。少女は低い姿勢のまま、

右手の剣を逆手に持ち替え、

アルファの前脚の付け根を狙った。


刃が入る。今度は深い。

アルファの体勢がわずかに崩れた。


しかし、倒れない。

むしろ、怒りに任せて前脚を振り下ろしてくる。

少女は剣を抜ききれなかった。


「まずっ……」


彼女は素早く剣から手を離す。


短剣がアルファの体に刺さったまま残る。

その直後、巨大な爪が彼女の肩口をかすめた。

革鎧が裂ける。血が飛び散り、少女の体が横へ飛ばされ、

地面を転がり、片膝をつく。


俺は思わず声を上げそうになった。

けれど、その声は出なかった。

出せば、アルファの注意がこっちに戻る。

それが恐ろしく、声が出せない。情けない。

自分の不甲斐なさが嫌になる。



彼女は左手の剣を構え直す。


右手は空いている。


肩を見ると、血が流れている。

それでも、彼女はアルファから目を逸らさない。


アルファがゆっくりと近づく。

刺さった短剣が、前脚の付け根で揺れて、

傷口からは、血が滴っている。

だが、歩き方に大きな乱れはない。


普通なら、足を引きずるはずだ。

普通なら、あの傷で動きが鈍るはずだ。

普通なら.....


その言葉が、何度も頭の中で繰り返された。


彼女は空いた右手を地面につける。

指先に薄い光が灯る。魔術。

「土魔術第三等級ーーマッド・シンク」


地面の枯れ葉が小さく震えた。

土がわずかに盛り上がる。


アルファが踏み込んだ瞬間、その足元が崩れた。

大きな穴ではない。せいぜい足首を取る程度の浅い陥没。

けれど、それで十分だった。


アルファの前脚が沈み、

巨体の体勢が一瞬、崩れる。


彼女はその瞬間を逃さない。

片膝をついたまま、左手の剣を投げた。

刃はまっすぐ飛び、

アルファの左目のすぐ下に突き刺さる。


アルファが悲鳴に近い声を上げ、音圧で、森が震える。

咄嗟に耳を塞いだが、音は貫通してくる。


彼女は立ち上がり、

腰の後ろから、さらに短い予備の刃を抜いた。

本当に短い。短剣というより、

解体用のナイフに近いだろう。

彼女はそれを逆手に持ち、アルファへ向かって走った。


アルファが頭を左右に振る。

左目の下に刺さった剣が邪魔をして、

視界がぶれているのだろう。


その死角へ、彼女は滑り込んだ。

刺さったままの右手の短剣。前脚の付け根。

そこに手を伸ばす。彼女は柄を握った。

そして、体重をかけて、さらに押し込んだ。

アルファの声が途切れる。


巨体が大きく跳ねた。少女の体が持ち上がりかける。

それでも彼女は手を離さない。


地面がもう一度沈む。今度はアルファの後脚の下。

前脚の痛み。視界の乱れ。足場の崩れ。

三つが重なった。アルファの巨体が横へ傾く。


それでも、狼獣は倒れきる直前に爪を出す。

爪が少女の脇腹を狙う。彼女は避けきれない。


そう思った瞬間、彼

女は自分からアルファの首元へ飛び込んだ。牙の内側。

噛むには近すぎる距離。

そして、手にした小さな刃を、

アルファの喉元に突き立てた。


一度ではなく、二、三度ほど突き立てていたと思う。


獣の血が外套を濡らした。アルファが暴れる。


少女の体が地面に叩きつけられそうになる。

彼女はアルファの毛を掴み、離れない。


四度目の刃が入った時、

ようやくアルファの動きが鈍った。

低い唸りが、喉の奥で濁る。

巨体が地面に崩れた。


土が跳ねる。


枯れ葉が舞う。


しばらく、誰も動かなかった。


喉から血を流し、片目の下に剣を刺さったまま、

ぴくりとも動かず、アルファは倒れていた。


彼女はその横で片膝をついていた。肩で息をしている。

外套は裂け、肩口から血が滲んでいた。


彼女は息を整えた後もすぐには立ち上がらなかった。


アルファの口元を見ている。まだ動くかもしれない。

死んだふりかもしれない。そう疑っている目だった。


しばらくして、彼女は小さく息を吐いた。

刺さっていた短剣を一本ずつ抜き、血を払い、鞘に戻す。


その動作はどこか手馴れており、堂々としていた。


「……まったく、狼獣一匹にしては、手間かけさせすぎ。」

その後彼女は倒れたアルファを見下ろし、低く呟いた。


俺はそこでようやく我に返り、

腕の中のカイルを見て、名前を呼ぶ。


「おい、カイル、カイル!?」


カイルはまだ意識がない。

全身の傷を確かめるように見ると、

やはり足元に目が行く。肉が抉られたように取れ、

傷口からは少し骨も見えている。


目を凝らすと骨と比べ、少し色の違う白い何かが

ある、見て、すぐにわかった。

牙だ。狼獣から折れた牙が食いこんでいるのだ。


胃の奥が縮み、

先程の冷静さが嘘のように、また焦りが込み上げてくる。



「動かさないで。」

俺の焦りを抑えるかのように、

彼女の声がした。彼女は俺たちの方へ歩いてくる。


「頭も揺らさないで。傷口にも触らないで。息は?」


「し、してる……と思う。け、けど、

血、血が、血が止まらなくて」


「見れば分かる。」


必死で状況を説明するが、


「あんた、回復魔術使えないの?無理ならどいて。」

と冷たく一言言われ、俺は彼女に押し退けられる。


彼女はカイルに近き、首元に指を当てた。

脈を測っているのだと、少し遅れて分かった。


彼女の視線はすぐにカイルの足へ向かい、

彼女は小さな革袋を取り出した。


中から、布、包帯、小さな瓶、細い金属の道具、

そして短い刃物を取り出し、短く独り言を言う。


「意識がないのが、今だけは都合がいいわね。」


おそらく今から刺さった牙を取り出すのだろう。

確かに、今カイルが目を覚ましたら、

痛みで暴れるかもしれない。そうなれば、傷はさらに開く。



彼女は瓶の蓋を開け、布に中身を染み込ませた。

鼻を刺すような、薬草と酒を混ぜたような匂いがした。



「今から消毒する。痛がると思うけど、押さえなくていい。

あんたが下手に触る方が危ない」


「俺は……」


「邪魔しないで」


彼女はカイルの傷口の周りを拭いた。

布が一瞬で赤く染まり、カイルの体がぴくりと跳ねる。


「カイル……!」


思わず声が出る。

彼女はこっちを見ない。


「呼びかけるのはいい。けど声が大きいわ。

あと絶対揺らさないで。泣くのも後にしなさい。」


「泣いてなんかない」


「そう」


彼女は細い金属の道具で、傷口を軽く開いた。

血。肉。が見え、見ているだけで、

胃の中がひっくり返りそうになる。



さらにその奥に鋭く光る、白い牙。

それが友人の足の中にある。信じたくなかった。


彼女は傷口の奥に指を添え、牙の位置を確かめた。

「深い。でも、折れた先が骨に食い込んでいるわけじゃない。肉に引っかかってる」


「ぬ、抜けるか....?」


「黙って」


彼女は牙を掴んだ。


一気に抜かず、少しずつ、角度を変えながら動かす。


カイルの呼吸が乱れる。

額を見るとじんわり汗が浮かんでいる。


牙がわずかに動く。

傷口から新しい血が滲み、彼女は顔をしかめ愚痴を言う。


「返しみたいになってる。狼獣の牙って、

ほんと厄介な形してるわね。」


その言葉の直後、彼女は角度を変えた。


引くのではなく、少し押してから回す。

そして、ゆっくり抜いた。


ぬるりと、白い牙が傷口から出てくる。

思っていたより大きかった。

指二本分ほどの長さ。

先は折れていたが、根元の方には肉片が絡んでいる。



それを見て腹の奥から胃酸が上がってくる感覚を覚える。


彼女は牙を横に放り、すぐに布で傷口を押さえた。

「抜けた。」


彼女は短く言って、すぐに革袋から包帯と布を取り出す。


それを見て俺も手伝おうとする。


「俺、何かでき」


「要らない」


短く即答される。


布を押さえるとか、包帯を渡すとか、

それくらいならできるんじゃないかと思った。


けれど、彼女は俺の伸ばした手を見もせず拒絶する。

「あんたの手、震えてる。邪魔。」


「でも」


「要らないって言ったでしょ。」


鋭い声だった。俺は手を引っ込めた。

自分の手を見る。本当に震えていた。

指先が小刻みに動いている。腹が立った。


彼女にではない。自分にだ。

俺は何もできない。

カイルが死ぬかもしれない時に、

俺は横で名前を呼ぶことしかできない。


目の前の少女は、傷だらけになりながらアルファを倒し、

そのままカイルの治療までしている。


俺は?

突っ立っているだけだ。何かをしようとして、

邪魔だと言われて、引っ込むだけ。情けない。


彼女は包帯を強く巻いて、

傷口に薬を塗り、布を重ね、足を固定するように締め、

一息つくように、息を漏らす。


「血は止まったし、命に別状はないわ。

だけどなるべく早くギルドか治療所に運んだ方がいいわ。」


俺はカイルを見た。

顔色は悪い。呼吸も浅い。

けれど、まだ生きている。生きている。


それを見て、俺は今、自分に出来ることを考える。

俺に今できることは何だ。


カイルを運ぶのは、俺のこの足じゃおそらく無理だ。

彼女の治療の手伝いもできない。


なら、何ができる。俺は周囲を見た。


倒れた狼獣。血の匂い。

折れた枝。踏み荒らされた土。


八匹。


俺たちを殺しかけた狼獣たちの死体が、

あたりに転がっている。



ギルドの討伐証明は耳だったはずだ。

狼獣の場合、耳の一部を持ち帰れば討伐数が確認される。

それ以外の素材も、状態が良ければ買い取ってもらえる。


牙。爪。


特にアルファの個体。


あれほど大きく、異常な強さを持っていたなら、

牙と爪はかなりの値がつくかもしれない。

そんな考えが頭をよぎる。


瀕死ではないが受けた傷は深い。

倒れているカイルの横で、金のことを考えている、

最低だと思った。


でも、すぐに別の声が胸の奥で返ってくる。

最低でも、金はいる。


カイルの治療費。それに学費。

俺だって金に余裕はない。


俺たちは金が必要だった。

この依頼を受けたのも、そのためだ。

銀貨4枚。


たかが銀貨4枚。でも俺たちには必要だ。


カイルが助かっても、その後に金がなければどうする。

治療費で学費が消えたら?入学を諦めることになったら?


それでいいのか。


よくない。


だったら、今やるしかない。


彼女はカイルの足に包帯を巻き終え、

最後に結び目を作っていた。

俺は無言で立ち上がり、腰のナイフを抜く。


ナイフを持つ手が震える。


一番近くに倒れていた狼獣の死体へ向かう。

死体はまだ温かかった。


耳を切る。討伐証明のために必要な部位。

切り口から血が滲む。気持ち悪い。

けれど、ナイフを持つ手を止めることは無い。


一匹目。


二匹目。


三匹目。


順番に耳を切り取り、布に包んでいく。


その間もカイルの方を見ないようにした。

見たら手が止まってしまう気がした。


「……ちょっと」

背後から声がした。彼女の声だった。

俺は返事をせず、四匹目の耳を切る。


ナイフが硬い軟骨に引っかかる。

手にめいっぱい力を入れて切り落とすと、

嫌な感触が伝わってくる。


「ちょっと、聞いてる?」


返事をしない。


俺は次に、口元を開き、狼獣の牙を確認する。

状態の良さそうなものを選び、

顎を固定し、根元の肉ごと切り落とす。


普通の狼獣の牙でも、いくらかにはなるはずだ。


「……あんた」

彼女の声が低くなった。


「こいつ、友達なんでしょ?」


俺の手が、一瞬だけ止まる。

だが、迷いを払うようにまた動かし始める。

牙を一本外す。血で滑る。布で拭いて、袋に入れる。


「友達が大怪我してるのに、解体始めるって、正気?」

その言葉が、思ったより胸に深く刺さる。


確かに正気じゃないだろう。俺もそう思う。

だが、金が必要なんだ。


このまま帰ったって、

どうせ治療でカイルは1、2週間は動けないだろう。


その間は、討伐依頼も受けられない。

普通の依頼を俺一人でこなしていては、

絶対に間に合わない。


「ねえ、聞いてる?」

彼女が立ち上がる気配がした。

「今やることじゃないでしょ。

さっさと治療所に運ぶのが先。素材なんてあとでも」


あとで?

俺は心の中で吐き捨てた。


あとで戻ってきた時、

死体が全部そのまま残っている保証がどこにある。

他の獣に食われるかもしれない。

血の匂いに誘われて、別の魔物が来るかもしれない。

他の冒険者が見つけて持ち帰ってしまう可能性だってある。


それに、アルファの素材なんて、

誰かに先に取られたら終わりだ。


こっちにだって事情がある、そう言いたかった。

けれど、言わなかった。


命の恩人にそんなこと言えないし。

女はやはりどこか、わからない。怖い。



俺は無言で作業を続けた。

普通の狼獣の耳を切り取り、

牙の状態を見て、使えそうな爪を落とす。

毛皮も採取できないか、試してみるが無理だった。


採取物を見ると、かなり雑でお世辞にも綺麗とは言えない。


もっと丁寧に剥ぎ取れば値が上がるのかもしれない。

でも、時間がない。必要なものだけ。

証明部位と、高く売れそうな部分だけ。


こんな時に、元のノアだったら上手くやるんだろうな....



「信じられない。」

彼女が呟いた。


「さっきまで泣きそうな顔してたくせに。」


泣きそうな顔。

そう見えていたのか。


俺は狼獣の爪に刃を入れた。硬い。


ナイフの刃が滑りそうになる。

手元が危ない。

息を吐き、角度を変える。


「カイルは本当にちゃんと治るのか?」


俺は作業をしながら聞いた。

自分でも驚くほど低い落ち着いた声だった。


彼女は少しの沈黙の後、答える。

「ここでは治らない。けど、さっきも言った通り、

今すぐ死ぬ状態ではないわ。」


俺はその言葉をもう一度しっかり聞き、

少し安堵して、アルファの死体へ向かう。


近くで見ると、改めて大きい。ただの狼獣ではない。

毛は厚く、爪は長く、牙も太い。こいつ一匹で、

普通の狼獣数匹分の価値があるかもしれない。


彼女が倒した獲物だ。

本来なら、素材の権利も彼女にあるのかもしれない。

でも、俺たちの依頼中に出た個体でもある。

いや、そんな理屈は後で考えればいい。


文句を言われたら売値の半分くらいを彼女に払おう。


そう思い、持ち帰れる部位だけ取る。


俺はアルファの耳を切った。

分厚い。刃が通りにくい。

ナイフを押し込むたび、手首に重い抵抗が返ってくる。


次に牙を見る。大きい。明らかに普通の狼獣と違う。


「アルファの牙は高く売れるかもしれない。」

俺は小さく言った。



「だから?」

彼女の声には、明らかに嫌悪が混じっていた。


「カイルの治療費がいる。学費もいるんだ。」


「それで、今?」


「今しかない。」


「……あんた、気持ち悪い。最低ね。」


そう見えるなら、そうなんだろう。


俺はアルファの口元に刃を入れた。

牙の根元を外すのは難しい。無理に引けば折れる。

折れたら価値が下がってしまうだろう。慎重に。でも早く。



牙が外れた。大きな牙だった。

普通の狼獣のものより太く、重い。


俺はそれを布に包む。

布に包んでいても、その硬さが指に伝わってくる。



手についた血を包んだ布の端で拭い、

包んだ布を持って立ち上がると、

それを確認した彼女が口を開く。


「終わったわね。早く下山するわよ。彼の傷もそうだけど、血の匂いが強すぎる。別の魔物が来る可能性がある。」



カイルのそばに戻ると、

彼女が、包帯の上から傷口を確かめている。

足は布と枝で固定されている。

傷口の上から厚く布が重ねられ、

さらに包帯で強く巻かれていた。


血は止まっているように見えたが、

布の一部はまだ赤く湿っている。


「背負うわ。」

彼女が短く言った。


俺は反射的に顔を上げる。

「いや、俺が.....」


「無理。」

即答だった。


彼女の視線が、俺の足と腕に行く。


さっきまでは痛みを考えないようにしていたが、

自分でも確認した途端、傷口の奥がじくりと疼いた。


「その足で彼を背負って下れると思ってるの?」


「でも……」


「途中で転んだら、彼の傷が開く。

あなたも動けなくなる。それで終わりよ」


「彼は私が背負うからあんたは、荷物をまとめて。

で、彼の分もあなたが持って。」


「……分かった」

俺は自分の荷物と、

近くに落ちているカイルの荷物を拾い上げた。

水袋、食料、ランタン、寝袋、剥ぎ取り用の道具。


元々、そこまで多く持ってきたわけではない。

冒険者として最低限のものばかりだった。


そこに、狼獣から取った耳、牙、爪を入れた袋も加える。

肩にかけると、一気に重さが増した。


背負えないほどではない。

捨てなければ歩けないというほどでもない。

だが、怪我をした足で持つには、きつかった。


荷物でこれでは、カイルを背負うのはやはり無理だ。

特にこの子供の体では。


彼女はカイルを背負い上げた。

細い体に、カイルの重さがのしかかる。

一瞬だけ膝が沈んだが、すぐに体勢を立て直し、

こちらを向く。


「じゃあ降りるわよ。」


森の中は暗かった。

戦っている間は、恐怖と必死さで気づかなかったが、

空もだいぶ暗くなっていた。既に深夜なのかもしれない。

木々の隙間から見える空は黒く、

細い月明かりだけが枝の間に引っかかっている。


俺はランタンを取り出し、火を入れた。

小さな灯りが揺れ、足元の土と枯れ葉を黄色く照らす。


山道は下りの方がきつかった。

登る時は足を上げればよかったが、

下る時は体が前へ流れる。

そのたびに、噛まれた足で踏ん張らなければならない。


痛い。


足に体重を乗せるたび、傷口の奥が熱を持つ。

荷物の重さが背中からのしかかり、

戦利品の袋が腰に当たる。


しばらく進むと、前方から水の音が聞こえた。


川だ。来る時に渡った山道の入口にある川。

その音が聞こえた瞬間、体の緊張がゆっくりと解けていく。


どうやら、狼獣と戦闘し始めた時点で、

俺らはだいぶ山を下ってきていたらしい。


近くまで行き、ランタンで照らすと、

光の中に、簡素な木の橋が浮かび上がる。


橋の向こうには、街道が続いている。

土は山道より平らで、草の背も低い。

木々も少くなくなり、

山の中からは完全に出られる。



橋に足を掛ける。川の流れる音に混じり、

橋が少し軋む音がする。




橋を渡りきると、

足元の感触が変わった。

山道の柔らかく荒れた土ではない。

踏み固められた街道の土だった。

俺たちは、山から出た。


さらにしばらく歩くと、街道に出た。


街道は山道よりずっと歩きやすかった。

道幅も広く、木の根もない。

左右には夜の草地と畑が広がっている。


昼は、農具を持った人や荷車が行き来していた。

だが今は、ほとんど何も動いていなかった。

遠くの畑の番小屋に、小さな灯りが一つ見えるだけだった。


さらにしばらく歩くと、

やっと見慣れたアルメリアの街壁が見えてきた。


暗い夜空を背に、

灰色の石壁が黒い線のように立っていて、

門の両脇には松明が焚かれていた。


火の明かりが風に揺れ、

壁に立つ門番の影を大きく伸ばしている。


昼間の門とは違って、人の出入りはほとんどない。

荷車も商人もいない。

門の前には、槍を持った門番が二人立っているだけだった。


俺たちが近づくと、門番の一人がすぐにこちらを向いた。

最初は警戒するように槍を持ち直す。

それから、彼女が背負っているカイルと、

俺たちの血に汚れた姿を見て、表情を変えた。


「おい、止まれ。……怪我人か?」


「狼獣にやられた。

応急処置はした。治療所へ運ぶ。門を開けて。」

彼女が答えた。



門番は一瞬だけカイルの足を見た。

包帯は赤く染まり、固定された枝が月明かりに白く見える。


「分かった。開けろ!」

もう一人の門番が内側へ声をかける。


重い木の扉が、ゆっくりと開いた。

蝶番が低く軋む音が、深夜の静けさに響く。


「治療所まで案内はいるか」


「場所は分かる」


彼女は短く答え、

カイルを背負い直し、門をくぐる。


街の中は静かだった。


昼間なら人の声や荷車の音で満ちている通りも、

今はほとんど眠っている。


店の戸は閉じられ、看板は暗い。

家々の窓には、

わずかに灯りが残っているところもあったが、

多くは黒く沈んでいた。


石畳の上に、俺たちの足音だけが響く。

彼女の足音。俺の足を引きずる音。荷物が擦れる音。

カイルの浅い呼吸。


通りの角で、夜回りらしい男がこちらを見た。

手に持っていた灯りを上げ、俺たちの姿を確認すると、

すぐに道を空ける。


角を曲がり、さらに歩くと、

白い壁の建物が見えてくる。


木の看板には、薬草を束ねたような印が描かれている。

扉の横には小さな灯りが吊るされていた。

完全に閉まっているわけではない。

夜間の怪我人に備えているのだろう。


建物に到着し、扉の前に立ち、彼女が軽くノックをする。


しばらく返事はない。


彼女はもう一度、さっきより強めに扉を叩く。


少しして、中で物音がした。

椅子が引かれる音。誰かが急いで歩いてくる足音。


鍵が外れる音がして、扉が開き、

中から五十代くらいの眠そうな顔をした男が出てきた。

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