第1話 最悪の出会い 前編
気がついたとき、頭上にはどこまでも続くような青空が広がっていた。
雲一つない、澄み切った空だ。
「……え?」
頬を撫でる風が妙に心地よくて、僕は反射的に新鮮な空気を吸い込んだ。
だが、そんな心地良さも束の間。頭がズーンと重い。
思考がうまくまとまらず、記憶もところどころ抜け落ちている。
……なんで、こんなところで寝てるんだ?
疑問が浮かんだ途端、頭のてっぺんから足の先まで鈍い痛みが走った。
「うっ……!」
まるで全身を強く打ちつけた後のような痛みだ。
僕が横たわっていたのは、歩道の端。冷たく固いコンクリートの上だった。
制服はところどころ汚れ、手のひらには小さな擦り傷まである。
起き上がろうと地面に手をつく。
「いっ……!」
わずかに身体を動かしただけで、全身が痛んだ。
本当に、一体何が起きたんだ……?
記憶を辿ろうとしても、霧がかかったように何も浮かんでこない。
状況から考えると、事故か何かに遭って、そのまま気を失っていたのだろうか。
そんなことを考えていると――。
「あなた、大丈夫?」
「えっ……?」
不意に、女の子の声が降ってきた。
顔を上げると、そこには制服姿の少女が立っていた。
どこか凛とした雰囲気を纏った、切れ長の瞳が印象的な美少女だった。
「……あの?」
まっすぐ見られているのが気恥ずかしくなり、僕は顔を背けた。
「あっ……」
猛烈に後悔した。
ちょうど強い風が吹き抜け、少女のスカートが大きく揺れたのだ。
「えっ……?」
少女は僕がどこを見ているのか気づくと、慌ててスカートを押さえ、距離を取るように後ずさった。
「最っ低……!」
「ち、違う! 今のは事故だよ!」
つい先ほどまで心配そうだったその顔に、明らかな嫌悪が浮かぶ。
「ぼ、僕の話を聞いてよ!」
僕は必死に弁解した。
「僕、さっきまで気を失ってたみたいなんだ。事故なのか何なのかも分からないし、前後の記憶も曖昧で……身体も痛くて動けなかったんだよ。だから、わざとじゃないんだ!」
信じてもらえるかは分からない。それでも、自分が把握している限りのことを正直に説明した。
だが、少女から返ってきたのは予想外の言葉だった。
「身体が痛くて動けなかった……?」
「う、うん」
「なら、どうしてあなたは今、普通に立って話しているの?」
「えっ?」
言われて初めて気がついた。
僕はいつの間にか立ち上がっていた。
「……あれ?」
さっきまで確かに感じていた全身の痛みも、嘘みたいに薄れている。
腕を動かしてみる。痛くない。
足を動かしてみても、問題なさそうだ。
「なんか……治った、みたい?」
笑って誤魔化してみたものの、少女の態度はさらに冷たくなっただけだった。
「分かったわ」
「え?」
「あなた、自分の欲望を満たすために、わざとここで倒れていたのね」
「何でそうなるんだよ!?」
「女子生徒が心配して近づいてくるのを待っていたんでしょう。至近距離からスカートの中を覗き見るために。違う?」
「違うって!」
「意識を失ったふりをして、私のような真面目で善良な優等生が声をかけてくれるのを待っていたのね」
「自分で真面目で善良って言うの!?」
「そこは否定するところじゃないでしょう?」
「いや、そもそもの前提から全部違うんだよ!」
もはや何を言っても信じてもらえる気がしない。
少女はまるで事件を解決した探偵のような顔で、すぐそばにある校門を指差した。
「多くの生徒が通る校門の前で、わざわざ倒れていた。それが何よりの証拠よ」
「だから、それは僕にも分からないんだって!」
「言い逃れは見苦しいわ。いい加減、罪を認めなさい」
「だから、誤解だって……!」
どうしたものかと頭を抱えていると、校門脇に設置された大きな立て看板が目に入った。
白い看板には、大きな文字でこう書かれている。
『入学式』
「あっ――入学式!」
そうだ。今日は入学式だった。
きっと僕は学校へ向かう途中で、何らかの事故に遭ったんだ。
そう考えれば、少なくともここにいる理由には説明がつく。
近くに転がっていた通学鞄を拾い上げ、慌てて服についた汚れを払う。
「今さら入学式に行っても遅いわ。完全に遅刻よ」
少女がさらりと言う。
「もしかして……君も新入生?」
「ええ、そうよ」
「じゃあ、君も遅刻じゃないか」
「私は入学式には出るつもりないもの」
「え?」
「どうせ校長先生や在校生代表が、ありきたりで長ったらしい話をするだけでしょう? 聞く価値のない話に時間を費やすのは無駄よ」
……この子、さっき自分のことを『真面目で善良な優等生』って言ってたよな?
「でも、教室には行くんでしょ?」
「当然よ。早いうちからクラスメイトと交流を深めておかないと、あなたみたいな確定ぼっちになるのも嫌だし」
「何で僕が確定ぼっち前提なんだよ」
「…………見た目?」
「おい」
否定してみたものの、実際、これまでの人生で友達と呼べる人間は一人もいなかった。
初対面の相手に、いきなり核心を突かれるとは。地味にダメージが大きい。
「じ……じゃあ、僕は急ぐから」
これ以上傷が深くなる前に退散しよう。
そう思って歩き出したところで、
「待って」
少女に呼び止められた。
「ここで会ったのも何かの縁だし、名前くらい教えなさいよ」
少女は肩にかかった横髪をさらりと掻き上げる。頬が、わずかに赤く見えた。
ここで会ったのも、何かの縁――。
その言葉に、ちょっとだけ期待してしまう。
「僕は野間。野間勇司」
「そう。分かったわ、覗き魔君」
「ちょっと待て。それ、わざとだろ? 野間だよ。の・ま」
「知ってるわよ。覗き魔、野間君」
「……もう好きにしてくれ」
良い雰囲気かもしれないと期待した僕が馬鹿だった。
綺麗な少女ではあるが、かなり変わっているらしい。
「……それで、君は?」
「ん?」
少女がきょとんとする。
「いや、君の名前も教えてよ」
「拒否するわ」
「何でだよ!?」
「教える理由がないもの」
「そっちから名前を聞いたんだろ!? 僕はちゃんと名乗ったのに!」
礼儀という言葉を知らないのか、この子は。
すると彼女は、さも当然のように言った。
「私があなたの名前を聞いたのは、遅刻した理由を学校に説明するためよ」
「……は?」
「『女子生徒を狙う不審者を追及していたため遅れました』って」
「何だその言いがかりみたいな言い訳は!」
何が『ここで会ったのも何かの縁』だ。さっきのときめきを返してほしい。
「安心しなさい。その場であなたを捕まえるつもりはないわ」
「どこに安心できる要素があるんだよ」
「私は学校にこう報告するだけ。『不審者には逃げられました。ただし名前は分かっています。新入生の野間君です』って」
「余計にダメじゃないか!」
「捕まるまで多少の猶予ができるでしょう? 残された余生で青春を謳歌しなさい」
「入学初日に捕まる前提で、どう青春を謳歌しろっていうんだよ!」
この少女、やっぱりおかしい。
「何度も言ってるけど、あれは完全な事故だったんだって!」
「たとえあなたの言い分が本当だったとしても、私が嫌な思いをしたことには変わりないでしょう?」
「だから、本当に覗こうとしたわけじゃ――」
そこまで言いかけて、僕は口を閉じた。
……違う。
僕は何を必死になって、自分を正当化しようとしているんだ。
わざとじゃなかった。事故だった。それは事実だ。
でも、そればかりを言い続けていた僕は、一番大切なことを忘れていた。
「……ごめん」
「え?」
「本当に、ごめん」
僕は少女に向かって深く頭を下げた。
「わざとじゃなかったとしても、嫌な思いをさせたことに変わりはない。それなのに僕は、ずっと自分の言い訳ばかりしてた」
「な、何よ……急に」
「ちゃんと最初に謝るべきだった。本当にごめんなさい」
頭を下げたまま、返事を待つ。
しばらくして、
「……もういいわよ」
少女の声が聞こえた。
顔を上げると、彼女はばつが悪そうにそっぽを向いていた。
「私も、その……少し意固地になっていた部分はあるから」
「じゃあ……許してくれる?」
「だから、もういいって言ってるでしょう。許してあげるわよ」
「ありがとう」
ようやく肩の力が抜けた。
これで一件落着――。
そう思ったのだが。
「……ただし」
「え?」
少女がじっとこちらを見る。
「あなたが見てしまったことは、今すぐ綺麗さっぱり忘れなさい」
「……はい」
「もし忘れられないなら、私が手伝ってあげてもいいわよ?」
彼女は笑っていた。なのに、全く目が笑っていない。
固く握られた拳が、小刻みに震えている。
「い、いえ。大丈夫です。全力で忘れます」
「そう。賢明ね」
「「……はぁ」」
二人同時に溜息が漏れた。
顔を上げると、ちょうど彼女と目が合った。
「……ふっ」
あまりにも綺麗に重なった溜息がおかしくて、僕は吹き出した。
「ちょっと。何笑ってるのよ」
「いや……だって、同時だったから」
「あなたが変なことばかり言うからでしょう?」
そう言いながら、彼女の口元も緩んでいく。彼女もこらえきれなくなったように笑った。
さっきまであれほど険悪だったことが、嘘みたいだ。
その笑顔は、思っていた以上に可愛かった。つい、見入ってしまう。
「あの……」
「何?」
「やっぱり、君の名前を教えてくれないかな?」
気づけば、そんな言葉が口からこぼれていた。
もっと彼女のことを知りたい。そう自覚した途端、頬が熱くなる。
少女は少し驚いた様子だったが、首を横へ振った。
「狭い学校よ」
春風が吹き、彼女の髪を揺らした。
少女は髪を押さえながら、真っ直ぐ僕を見る。
「もし、また会えたなら――そのときに名乗るわ」
「……うん」
不思議と、それ以上は聞こうと思わなかった。
「分かった。また会えるのを楽しみにしてるよ」




