第12話 現実
「私が、ここは現実世界ではないと考える理由は、私自身の身体が正常に動いているからです」
「あなたの身体が……正常に……?」
宮村が眉をひそめる。
それは一体、どういう意味なのか。
僕を含めたクラスメイトたちは、固唾を呑んで三日鈴の話に耳を傾けた。
「私の身体は、この世界に来る直前――いえ、正確には意識が途切れる直前まで、PSP……進行性核上性麻痺の終末期にありました。私は――寝たきりだったのです」
「っ……!?」
寝たきり――。
目の前にいる三日鈴は、何不自由なく身体を動かしている。
そんな彼女が、この世界に来る直前まで、自分の力で起き上がることさえできなかったなんて。
にわかには信じられなかった。
三日鈴は自分の右手へ目を落とした。
確かめるように指を握り、また開く。
「PSPは進行性の病です。根本的な治療法は確立されておらず、病によって失われた身体機能を完全に元へ戻すことはできません」
もう一度、指を動かす。
「それなのに今の私は、自分の意志で指を動かせる。立つことも、歩くことも、こうして皆様と会話することもできます」
その声は落ち着いていた。
けれど、自分の手を見つめる彼女の瞳には、ほんのわずかな揺らぎがある。
僕たちにとっては当たり前の「身体を動かす」という行為そのものが、彼女にとっては当たり前ではなかったのだ。
「これが、私が宮村さんの考えに疑問を持った理由です」
三日鈴は顔を上げる。
「もし、ここが私たちが生きていた現実世界の延長にあるのなら――私の身体が、何事もなかったかのように元へ戻っていることを、どう説明するのでしょうか?」
誰もすぐには言葉を返せなかった。
宮村も沈黙している。
さっきまであれほど堂々とクラス全員を相手にしていた彼女が、初めて返答に詰まっていた。
「……それだけ?」
宮村が口を開いた。
「はい」
「もし、あなたが本当に寝たきりだったのなら、今こうして身体が動いているのは確かに異常でしょうね」
三日鈴は黙って聞いている。
「でも――それだけで、ここが『現実世界ではない』と断定するのは早計じゃないかしら」
「と、言いますと?」
「あなたの病気が治った可能性だってあるでしょう」
「…………」
「今まで治療法がなかったからといって、絶対に治らないと証明されたわけじゃない。あなたが知らない治療を受けたのかもしれない。新しい治療法が見つかったのかもしれない。それこそ――奇跡的に回復した可能性だって、ゼロじゃない」
「奇跡……ですか」
三日鈴の表情が、ほんのわずかに変わった。
「ええ。可能性の話をしているのよ。あなた自身、さっき私に『確かな根拠』があると言ったでしょう?」
宮村の声に、先ほどまでの強さが戻り始める。
「あなたの身体が回復している。それは事実かもしれない。でも、それは『異常な現象が起きた証拠』にはなっても、『ここが現実世界ではない証拠』にはならないわ」
――確かに。
とんでもなく低い可能性だったとしても、「現実では絶対に起こり得ない」と証明できなければ、宮村の主張を完全には崩せない。
「おっしゃる通りです」
「えっ?」
あっさり認めた三日鈴に、今度は宮村が面食らった。
「私の身体だけを根拠に、ここが現実世界ではないと完全に証明することはできません」
「だったら――」
「ですが」
三日鈴が遮る。
「私の身体だけなら、です」
宮村が口を閉ざした。
「先ほどの『洗礼試験』で、私たちはそれぞれ、自分が意識を失う直前の記憶を取り戻しました」
――屋上。
脳裏に、あの光景が蘇った。
「そして本郷先生は、私たち全員が一度死んだ人間だと説明しました。当然、それだけなら学校側が私たちに嘘をついている可能性もあります」
三日鈴は宮村へ向き直る。
「宮村さんのおっしゃるように、記憶そのものを操作されている可能性だって、否定はできません」
宮村は黙ったままだ。
「ですが――少なくとも私については、事情が異なります」
「……どうして?」
「私には、病気だった記憶があるからです」
三日鈴は自分の胸元に手を添えた。
「身体が少しずつ動かなくなっていった記憶。自分では起き上がることすらできなくなった記憶。それでも意識だけは残り続けていた記憶……」
淡々とした口調だった。
だからこそ、その言葉が重く感じられた。
「そのすべてが学校側に作られた偽物だと言われてしまえば、私には否定する術がありません。ですが、そこまで疑うのであれば――今度は宮村さんの側が、それを裏づける根拠を示す必要があるのではありませんか?」
「…………!」
宮村の目がわずかに見開かれた。
「宮村さんは先ほど、証拠がない以上、ここを死後の世界だと断定することはできないとおっしゃいました」
「……ええ」
「それなら同じことです。証拠がない以上、私たちの記憶がすべて偽物だと断定することもできません」
「それは……」
宮村が言葉に詰まった。
いつしか、皆が二人のやり取りに聞き入っていた。
どちらが正しいのか、僕にはまだ分からない。
宮村の言うことにも筋は通っている。三日鈴の言うことにも筋は通っている。
ただ――さっきまで宮村だけが握っていた議論の主導権が、いつの間にか三日鈴の側へ傾き始めていた。
「では、宮村さん」
三日鈴が問いかける。
「あなた自身は、どうなのですか?」
「……私?」
「はい。意識が途切れる直前のことを、どこまで覚えていらっしゃいますか?」
宮村の顔から、わずかに血の気が引いた。
「私……は……」
視線が宙を彷徨う。
答えが出てこない。
「……覚えていないわ」
ようやく絞り出した声は、それまでの宮村からは想像できないほど弱々しかった。
「何も……思い出せない」
僕は思わず宮村を見つめた。
彼女は膝の上で拳を握りしめる。
「でも……だからこそでしょう?」
勢いよく顔を上げる。
「私たちが本当に死んだなんて、断定できないじゃない!」
声が震えていた。
「私たちの記憶が曖昧なのを利用して、学校側が『お前たちは死んだ』と思い込ませているだけかもしれない! 私たちが見た死の記憶そのものが、作られたものかもしれない!」
その必死さに、僕は言葉を失った。
さっきまでとは何かが違う。
理屈で三日鈴に反論しているというより――自分自身に、そう言い聞かせているように見えた。
「その可能性も否定はできません」
三日鈴は宮村の言葉を切り捨てなかった。
「ですが、今の私たちにある情報だけを並べるなら――少なくとも、学校側の説明と私自身の記憶、そして現在の私の身体。この三つには矛盾がありません」
「…………」
「反対に、ここが現実世界であり、私たちが今も生きていると考えるためには――私の身体がなぜ完全に動くのか。なぜ私たちが死にまつわる記憶を持っているのか。そして、なぜ学校側がこれほど大掛かりな嘘をつく必要があるのか」
三日鈴は指を一本ずつ折るようにして数えていく。
「それらすべてに、別の説明が必要になります」
宮村は何も答えなかった。
「私には『死後の世界』という言葉が正しいのかまでは分かりません」
三日鈴はクラス全体へ向き直る。
「ここが天国なのか、異世界なのか、それとも私たちの知らない何かなのか。それを判断できるだけの材料は、まだありません」
最後に、宮村へ顔を向けた。
「ですが少なくとも――ここが、私たちが生きていた世界と同じ『現実』である可能性は、極めて低い。私はそう考えています」
教室は静まり返っていた。
三日鈴は「死後の世界だ」と証明したわけではない。宮村もまた、「現実世界だ」と証明できてはいない。
それでも――さっきまで当たり前のように思え始めていた宮村の「僕たちはまだ生きている」という説に、大きな亀裂が入ったことだけは確かだった。




