9話 俺より俺のことをわかっている友人
「馬鹿か、お前は」
ある日の放課後、アウスティスが吐き捨てるように言った。冷たい言葉や態度とは裏腹に、俺の頬に伸ばされた手はおっかなびっくりだ。
「痛てっ」
殴られた場所に触れられた俺が反射的に呟くと、まるで火傷したみたいなすごい勢いで手を引っ込める。
「エヴァ……ごめんなさい! 私のせいで」
傍では、女子生徒——エルメラ・グローディル伯爵令嬢が、小刻みに身を震わせながら涙目で俺に謝っていた。
「もう良いって。エルメラ嬢が殴られなくて良かったよ」
俺が言うと、機嫌の悪そうなアウスティスの顔つきがますます怖くなる。
「エヴァリオ……お前」
クラスメイトのエルメラ嬢とは、エヴァンジェリン様の開いた女子会をきっかけに、以前から婚約者との関係についての相談に乗っていた。
話を聞いていると、どう聞いても相手のモラハラ、と言うかフキハラ? がひどくて、でもエルメラ嬢は自分が至らないせいだからとしょげていた。
そこを、それは違うんじゃないのかな? 悪いのは君じゃなくない? 的に少しずつ掘り下げて行った結果、エルメラ嬢は親に相談をして、婚約は解消されることになった。
ただ、相手がそれに納得がいっていないようだったので、どうしても一度学園で話がしたいと呼び出されて——俺は、そこについて行って、相手の男に殴られたのだった。お前のせいで! みたいな。
「ついて行って、正解だった。一人で行かなくて良かったんだ。ちゃんと俺に声をかけられて……自分を守れて偉かったね、エルメラ嬢」
逆上した元婚約者の男に頬を殴られて、唇の端が少し切れてしまったけれど、男だし別に大したことではない。似たようなことは、前世でも何度かあったしな。
「帰り、一人で大丈夫? 馬車乗り場まで送ろうか?」
エルメラ嬢は、俺がそう言うと首を振った。
「もう、すぐそこだから大丈夫。でも、本当にごめんなさい。あの人はこれまで物に当たることはあったけど、直接私に手を上げたことはなかったから……まさか、エヴァのことを殴るなんて。私のことはもう平気だから、お願い。早く保健室に行って治癒してもらって。見ているだけで痛そうだわ」
ずっと態度で威圧して、言いなりにしていた相手が、急に洗脳から覚めたみたいに行動して婚約を解消したことに、奴なりに不信感があったんだろう。俺が相談に乗ってその洗脳を解いたと、すぐに気がついたようだった。
一発目は、急に殴りかかられたのでうっかり喰らってしまった。彼女を狙った二発目は結界を張って許さなかったし、その後は振り上げた腕を掴んで静止したら、俺が思いがけず力が強かったことと怯まなかったことで、手を振り払って逃げていったけれど。
オラオラ系のホストに入れ上げてボロボロになっていた、キャバ嬢の美梨を助け出した時も似たような展開になったから、モラハラ男と俺は、お互いに天敵なのかもしれない。
「そう? なら、気をつけて帰ってね」
「エヴァリオ、もう良いだろう。すぐ、保健室に行くぞ」
アウスティスが、見送ろうとしている俺の腕を掴んで引っ張る。俺はその手に引きずられるようにして、保健室に向かうことにした。
「引っ張らなくてもちゃんと行くから、アウスティス……って、やっぱりちょっと長いよな。なんか愛称とかないの?」
保健室に向けて歩きながら俺が前から思っていたことを訊くと、アウスティスは一瞬固まって、不機嫌そうに「そんなものはない」と、答えた。
「えー、なら勝手に付けていい? 呼びやすい名前」
「お前は本当に勝手気ままだな」
「そうかな?」
勝手気ままというのは昔から猫の代名詞であって、どちらかというとアウスティスのほうに似合うのではないかと思うのだが。
「アウス、アウティ、アスティ……アスティでどうよ?」
「僕に拒否権はあるのか?」
「もちろん! 本気で嫌なら呼ばない」
俺が答えると、疑わしげな視線で見つめられる。何だよ。俺は、どちらでも良さそうなことは多少強引に進めることもあるが、本当に嫌がられることはしない主義だぞ。
「……好きにしろ」
「おう、じゃあ好きに呼ぶわ、アスティ。お前も、俺のことをエーヴと呼んでもいいんだぞ」
「呼ばない」
即答されて、ちょっと残念に思う。愛称で呼び合う仲って、親友っぽくて良いなと思ったんだが。
保健室に到着した。入学式でお世話になって、翌日お礼のフレーバーティーを持って行って以来だ。一ヶ月半ぶりくらいか。
「アンガス先生?」
声をかけながら扉をノックし、開ける。癖のある派手なオレンジ髪のアンガス先生は、椅子に腰を下ろして、たった今まで何か手元の書類に書き込んでいたという姿勢で、こちらに視線を向けた。
「おや、レイジントン君……って、その顔、どうした? 殴られたみたいだけど、喧嘩かい? 相手は?」
「女を庇って殴られた、ただの馬鹿だ。相手は把握している。女の家からも抗議が行くだろうし、グローガー侯爵家からもする」
「え、アスティ関係ないじゃん。それに、相手伯爵家なのに侯爵家から抗議行ったら、オーバーキルすぎない?」
「元々無関係のお前を殴った男だぞ? なぜお前が庇う」
キッと睨まれる。気のせいかいつもより瞳の色が明るくて、黒にも見える暗い紫紺の瞳が、今ははっきりと紫色に見えた。
「俺は……まあ、余計な口出しして、相談に乗って、それで結果として彼女がもう嫌だってなって婚約が駄目になったのは事実だから、多少逆恨みっぽくても全くの無関係ではないと言うか」
「それなら、僕だってお前と関わりがあるのだから、無関係ではないだろう」
「へ、屁理屈〜」
「仲が良くて何よりだけど、早く治癒しようか。ここに座って傷を見せて」
アンガス先生が見かねたように口を挟む。俺は大人しく、アンガス先生の前の丸椅子に腰を下ろした。
「君は、何と言うか、見た目が繊細そうなのに、ずいぶんサッパリした性格だね」
「俺って繊細そうに見えます?」
「見た目だけはな。中身は相当に図太い男だぞ、そいつは」
俺が鸚鵡返しに訊くと、すかさずアスティが茶々を入れる。アンガス先生は小さく苦笑を浮かべる。
保健の先生相手なのに、アスティは完全なタメ口だ。それを咎めることもしないなんて、アンガス先生は大人だな。
「口の中も少し切れているようだね。治癒の魔法をかけよう」
殴られた頬に触れるか触れないかという位置に手を翳し、アンガス先生が歌のような、詩のような不思議な響きの呪文を唱える。翳された手のひらからほんのりと明るい金色の光が放たれたのが、視界の端に見えた。
じんわりと顔全体が暖かくなる。冬の日の陽だまりに横たわった動物のような気持ちで、それを味わう。
意識がある時に治癒魔法を受けるのは初めてだけど、すごく心地よいものなんだな。温泉に入っているような、リラックスした心地になる。こんなのが自分も使えたら、相手のことをリラックスさせられて良いのにな。治癒魔法って、俺でも覚えられるものなのかな。
「治癒魔法って心地よいものなんですね〜。俺も覚えたいな」
光が消えて治療が終わったタイミングで俺が言うと、アンガス先生は俺の内側を探るような目つきで片目を眇めて見せた。
「魔導師団が管理する攻撃魔法のような秘匿魔法ではないけれど、学園の授業ではやらないだろうね」
「そうなんですか……残念」
「なぜ? 私のように、専門の治癒魔法使いになりたいわけではなさそうだけど。それに、適性のない人が扱うと、消費する魔力が多くなって非効率だ」
「適性がないのも、魔力量が足りないのもわかってますけど、治癒魔法って普通に心地よくて、リラックスするじゃないですか。それだけでも、安心して楽になれる女の子は、結構いると思うんですよね」
特に生理の時とか。前世を思い出しながら、俺はそんなことを思う。
女性は月に一度ほぼ煩わされる、それ。よく、唸りながら横になっている彼女の、お腹を温めてあげた。本当に辛い時には痛み止めももちろん飲むけど、ずっと飲み続けるのも胃に悪いと、結構ギリギリまで我慢する人が多かった。
「女の子に、ねぇ?」
目の奥に、面白いものを見つけたみたいな好奇心がチラッと見えた。
「良いよ、教えても」
「え、本当ですか!?」
「エヴァリオ、お前、もう少しちゃんと考えろ。軽率すぎるだろう」
俺が飛びつくと、アスティが厳しい声を投げてくる。
「お前は魔力量も多くはないのに、僕と放課後に生活魔法の開発もしていて、さらに学園の授業と別に治癒魔法まで習おうなんて……無謀だと思わないのか」
「確かに魔力量は少ないけど、こんなチャンス滅多にないから逃したくない」
俺が言うと、眉間に皺を寄せて睨みつけてきた。
「アンガス先生、こいつに治癒魔法なんて教えたら、ちょっとくらい怪我をしても、自分で治せるから良いだろうって考えるようになるに決まっている。考え直すべきだ」
えっ、そんなこと……するかもしれないけど。なんだ、アスティ。俺より俺のこと詳しいな?
「私はどちらでも構わないけれど……」
「いや待って、本当に教えて欲しいんですけど! 何ならちゃんと謝礼払いますから!」
アンガス先生は必死に頼み込む俺と、不機嫌を大っぴらに表に出しているアスティを交互に眺めてから、面白そうに笑った。
「レイジントン君からいただいたフレーバーティーが美味しかったから、お礼なら今度もそれで良いよ」
そういうことになった。




