10話 俺は俺で、できることをするだけ
入学式から二ヶ月が過ぎた頃。エヴァンジェリン様が一つ、ため息をついた。いつもの一、二週に一度くらいの間隔である、放課後のお茶会の席でのことだ。
俺はいつものように、頼まれた相手の髪に複雑な編み込みを入れてやったり、ダイエットに良いレシピの話をしたり、肌トラブルの相談に乗ったりと、完全に美容部員のような役割を果たしていた。
何でみんなしてエヴァンジェリン様を差し置いて俺のことを「エヴァ」なんて愛称で呼ぶのかと訊いたら、エヴァンジェリン様のことは恐れ多くて愛称などでは呼べない、と、まず言われた。その上で、女生徒たちの間で俺のことを話題に出す時、明らかな男性名だと、婚約者でもない相手のことを気安く名前呼びしている軽い女に見えかねない、とのことだった。貴族女性って色々難しいんだな。
「エヴァンジェリン様、何か心配事でも?」
俺が尋ねると、エヴァンジェリン様は困ったように眉を下げて、頬に手を当てた。
「いえ、ね。ローヴェルク殿下が学園に入られて、女生徒たちが騒ぐのはもう、あの方の立場と見目の良さを考えれば当然起こるものと予測していたのだけれど……一人、やたらとニアミスする方がいる、と仰っていて。それが、あまりにもタイミングが良すぎるとのことで」
「どういうことです? 教室に押しかけたり、後ろを追っかけ回しているとか?」
休み時間のたびに教室に来ては、王太子殿下やアスティのことをチラチラ見ている女生徒は、確かに何人かいる。
「そういうわかりやすい感じではないの。ただ、私がおそばにいなかったり、お一人になられるタイミングを見計らったように現れるのですって。それこそ、気まぐれに行き先を変えた時にも」
「へえ、なんか、待ち伏せされているようで少し怖いですね。情報が漏れてる、みたいな」
「そうなの、それをローヴェルク殿下も少し気にされていて。今のところ、当たり障りのない挨拶や、ほんの少しの会話で立ち去るらしいのだけれど……そのくらいだと、婚約者とはいえ私から注意するのも、少し変な話でしょう?」
そう言って、もう一つため息を落とされた。ああいった人気者の婚約者ともなると、色々大変なんだな。
「君の他にも、もう一人治癒魔法を教えることになったんだよ」
翌日の放課後に、アンガス先生のところに治癒魔法を習いに行くと、そんなことを言われた。
「彼女のほうは明確に治癒魔法に適性があるため、今の学園には教えられる者が私しかいないということで、魔法の授業の際にここで教えることになったんだ。だから、生徒としてはあちらの方が正式な相手だね」
「へえ、適性があるなんて羨ましいなぁ」
「魔力量もそれなりに多いらしいから、上手く扱えるようになれば、国からも期待されることになるだろうね。専門の治癒魔法使いは貴重だから」
「それはすごい」
こちらの内心を探るように、目を覗き込まれる。俺の目の中に期待した反応がなかったのか、すぐに離れていった。
「嫉妬とかないんだね」
「え、その彼女にってことですか?」
俺が驚いて言うと、アンガス先生は少し人が悪い顔つきで首を傾げて見せる。
「自分にはない才能を持つ相手を、羨ましいと思わないのかい?」
「いや、そりゃあ羨ましいですよ! 治癒魔法、覚えたいですもん」
「でも、妬ましいとは思わないんだね、君は」
少し面白げに口角が上がる。もしかして、ちょっと腹黒いところがあるのかな、この人。
その表情に、毒舌家だった彼女を思い出す。甘原めい。見た目の甘さにそぐわぬ毒舌で、見た目の甘さに油断しているところを刺すのが楽しいと、よく笑って言っていた。
「自分にあるもので勝負するしかないですからね」
俺が答えると、つまらなそうに肩をすくめて見せる。
そのあとは、真面目に治癒魔法のやり方を丁寧に教えてくれた。何度も繰り返しているうちに、何とか手のひらにほのかな光が灯り、発動の一歩手前みたいなところまでは辿り着く。
「今、あとちょっとで発動しそうになってませんでしたか!?」
俺が興奮して言うと、アンガス先生は雑に「もう一歩と言うより、もう三歩くらいかな」と答えて、俺を落胆させた。
「君が教えてくれた、このスクワットというトレーニング、なかなか良いな。下半身を鍛えるだけでなく、体に一本芯が通るような気がする」
放課後の裏庭で、ランディアスがそう言って朗らかに笑う。そうなんですよ。体幹を鍛えるのにももってこいなんだよね、スクワット。俺も毎晩欠かさずやっている。
貴族令息としての礼儀、ボウ・アンド・スクレープとか、上半身を倒す時に体幹と下半身を鍛えていないと、結構みっともなくグラグラするからね。良い姿勢をとるのにも、筋肉は必要だ。
「相変わらず君は細いままだが、筋肉はやはりつかないか」
「そうなんだよね。最近少しだけ筋肉ついてはきたけど、引き締まるだけで盛り上がる筋肉じゃないって言うか……」
「君の見た目にはそのほうがモテそうだが。儚げで繊細そうで」
面白がる口調でランディアスが言う。言外に、中身は違うけど、っていう雰囲気を隠していない。
「弱っちそうなのより、頼り甲斐がある見た目の方が良いのに」
「弱っちいのと繊細は、だいぶ違うだろう。口を閉じて図書室で詩集でも読んでいたら、好ましいと思う女性はいそうだけどな」
「俺の口が悪いって話〜?」
「そう聞こえたか」
そう言って面白そうに笑う姿は、相変わらず男前だ。さっぱりとした気風もあって、ユーモアもあって、かなり付き合いやすい。初めて会った時に比べて、何と言うか余裕、のようなものを感じられるようになった。
いや、真面目にコツコツ努力している姿は変わらないんだけどね。最初に会った時の悲壮さとか、空回りしている感じとか、そういうものが消えた気がする。
安心、安定。そんな感じ。
良いことだ、と、そう思う。優秀と評判の兄と比べられて、劣等感に苛まれていた時の悄然とした様子がなくなって、泰然として見える。俺は俺。そういう芯が見つかったようだった。
「ランディアス、やっぱりお前、格好いいよな」
俺が言うと、ランディアスはただ「何だ、褒めても何も出ないぞ」と笑って見せた。
鼻歌を歌いながらアスティの髪の毛を梳かしていると、それまで本を読みながら椅子に腰掛けていたアスティが、急に身じろぎをしながら振り返った。
「その曲、何だ? さっきから同じところをぐるぐると」
前世の流行り曲を無意識に歌っていたらしい。危ねえ。
「え、いや……何となく頭に浮かんだ曲だけど、うろ覚えで」
俺がしどろもどろにそう答えると、胡散臭げな顔をしてしばらく俺の目を見つめてから、鼻を鳴らしてまた前に向き直る。手を入れ始めてからある程度の時間が経って、アスティの特徴的な紫色の長い髪は、前に比べて明らかに艶が良くなった。指通りもスルスルで、ピカピカで、今ならシャンプーのCMにだって出られそうだ。
キツく感じないようなゆるさで、でもだらしない感じがしない抜け感を意識して、三つ編みを作っていく。最後を髪ゴムで止めて、この世界、本当に都合が良いなと思った。
だってちゃんと髪ゴムがある。俺が知っている中世ヨーロッパだったら、絶対に紐かリボンで結んでいるはずだ。
家には風呂もあるし、捻るだけで水や湯の出てくる蛇口もあるし、トイレも水洗だしな。いや、便利なのは良いことなんだけど。
教室の連中は、もう俺たちのそういった様子に慣れたのか、何も言われない。俺がアスティの髪の手入れをするのにも、最初のうちはめちゃくちゃ注目を浴びていたが、今では「またやってるな」くらいの感じで見られている。
人というのは慣れていく生き物だよな。アスティだって、最初のうちは動物病院に連れてこられた猫みたいに固まっていたけど、今は普通に読書しながらされるがままになっている。
手入れが終わったと同時くらいにチャイムが鳴り、短い休み時間が終わった。次の授業の支度をするために席に戻る。
前の席のやつとは、結局あまり打ち解けていない。初日にアスティにガツンと行ってしまって、ドン引かれたままである。
良いんだよ。別に。アスティという男友達はちゃんとできたから! 王太子殿下とは友達……とは言えないけれど、ランディアスとはもう友人と言っても良い関係だと思うし。
記憶が蘇る前の前髪で目を隠して俯いていた僕だったらとても声をかけられないような相手と友達になってる。そんな今の自分が割と俺は好きだ。
相変わらず、次兄は胡乱げな様子で、鮮烈な学園デビューを飾った俺を観察しているが。




