地下の悪夢
9話地下の悪夢
ときやは、地下へのエレベーターで降下していく。一人だ。地下1階、2階、3階、4階…表示が進むたびに、空気が重くなっていく。不協和音が聞こえてくる。壁の向こうから、何かを唱える声。地下5階。扉が開く。そこから先は、階段だった。ときやは階段を駆け下りた。音が大きくなる。100人の声が重なった、異様な詠唱。そして――最下層へのドアを開けた瞬間、目に飛び込んできた光景に、ときやは息を呑んだ。
広大な空間。中央には巨大な祭壇。そして、その周りを円状に、100人を超える男女が跪いていた。全員、虚ろな目をしている。表情はなく、ただ口だけが動き、言葉にならない言葉を唱え続けている。洗脳された生贄たちだ。
「これは…」
中央の壇上には、スーツ姿の男性が立っていた。痩せた体躯。鋭い目。中年の、理知的な顔立ち。だが――その目だけが、異様な光を放っている。男は両手を天に掲げ、目を閉じて詠唱を続けている。その周囲には、淡い光の膜のようなものが張られていた。
ときやの全身に、悪寒が走った。この男は――山頂の男とは、明らかに違う。体格も、雰囲気も、何もかもが。そして何より――「圧」が違う。まるで、空間そのものがこの男を中心に歪んでいるかのような。
「コンヌちゃん!」
コンヌは祭壇の手前で立ち止まっていた。その前には、目に見えない壁があるかのように。
「ときや君!」
コンヌがときやに気づいた。その額には汗が浮かび、呼吸が荒い。
「近づけないの…結界みたいなものが…」
コンヌは拳で空間を叩いた。ドンッ。鈍い音がして、空気が歪む。しかし、突破できない。
「くそっ…」
教祖は詠唱を続けている。その声に合わせて、100人の生贄たちも唱和する。
「星辰の彼方より…門を開け…封印を砕け…」
祭壇の奥、壁に巨大な亀裂が走っていた。その向こうから、邪悪な光が漏れている。黒と緑が混ざったような、不気味な光。
「お父さん…」
コンヌが震える声で呟いた。
「あの向こうに、お父さんがいるんだ…」
ときやは状況を素早く分析した。
「コンヌちゃん!」
ときやが叫んだ。
「正面から行っても無理だ!まず、この人たちの洗脳を解かないと!」
「え…」
「生贄たちの詠唱が止まれば、儀式のエネルギーが途切れる!そうすれば結界も弱まるはず!」
コンヌの目が見開かれた。
「そっか…!」
ときやは天井を見上げた。そこには、無数のスピーカーが設置されている。不協和音を流し続けている。
「洗脳部屋と同じだ…音と光で意識を支配している!」
ときやは祭壇の中央を見た。巨大な結晶体が、妖しく明滅している。天井から、壁から、亀裂から漏れる光を、すべて集めて屈折させ、特殊なパターンを作り出している。
「あの結晶が光の源…!」
ときやはコンヌを見た。
「二段階で行く!まず俺がスピーカーを破壊して音の洗脳を解く!その後、コンヌちゃんが結晶を破壊して光の洗脳を解く!」
「分かった!」
ときやは走り出した。生贄たちの間を縫うように。
「すみません、通してください!」
だが、生贄たちは動かない。虚ろな目のまま、ただ詠唱を続けている。ときやは彼らを押しのけながら、壁際へ向かった。
その時――
ゴゴゴゴゴ…
壁の亀裂が、さらに広がった。黒い触手のようなものが、亀裂から這い出してきた。
「うわっ…!」
触手がときやに襲いかかる。ときやは咄嗟に身を屈めて回避。触手は壁に激突し、石を砕いた。
「これが…門の向こうから…」
触手は意志を持っているかのように、再びときやを追ってくる。
「ときや君!」
コンヌが叫んだ。コンヌは近くの折りたたみ椅子を掴むと、触手めがけて投げつけた。
ガン!
触手が怯む。その隙に――
「今だ!」
ときやは壁に手をかけ、よじ登った。スピーカーが目の前にある。
「くそっ…硬い!」
拳で叩くが、スピーカーはびくともしない。ときやは周囲を見回した。消火器がある。
「これだ!」
ときやは消火器を掴み、スピーカーに叩きつけた。
バリン!
一つ目のスピーカーが破壊された。不協和音が、一部途切れた。
「よし…!」
ときやは次のスピーカーへ向かう。だが――触手が再び襲いかかってきた。今度は二本。
「まずい…!」
コンヌが走った。触手の前に立ちはだかる。
「ときや君!私が引きつける!その間にスピーカーを!」
「コンヌちゃん、危ない!」
「大丈夫!」
コンヌは触手を蹴りで弾いた。だが、触手は数を増やしていく。三本、四本…
「くっ…」
コンヌは必死に触手を避け続ける。しかし、徐々に追い詰められていく。
「コンヌちゃん!」
ときやは焦りながらも、スピーカーを破壊し続けた。
バリン!バキン!
二つ目、三つ目…不協和音が途切れ途切れになっていく。
その時――生贄たちの詠唱が、僅かに乱れた。
「あ…れ…?」
一人、また一人と、虚ろな目に光が戻り始める。
「効いてる…!」
ときやは残りのスピーカーに消火器を叩きつけた。
バキン!バリン!
四つ目、五つ目…
「もう少し…!」
その時――
教祖の詠唱が、一段と高まった。
「星辰の名において…門を完全に開け…!」
ゴゴゴゴゴゴ!
地面が激しく揺れた。壁の亀裂が、一気に拡大する。
「やばい…間に合わない…!」
だが、ときやは諦めなかった。最後のスピーカーに消火器を叩きつける。
バキィン!
すべてのスピーカーが破壊された。その瞬間――不協和音が、完全に止んだ。静寂。そして――
「こ、ここは…?」
「私たち…何を…?」
100人を超える生贄たちが、次々と正気に戻っていった。詠唱が止まる。教祖の周囲に張られていた結界が、揺らいだ。
「今だ、コンヌちゃん!」
コンヌは結界に手をかけた。さっきまで硬かった壁が、今は柔らかい。
「抜けられる…!」
コンヌは結界を突破し、祭壇へ走った。教祖は目を開けた。だが、詠唱は止めない。その目がコンヌを捉える。教祖が片手で印を結んだ。すると――壁から、さらに多くの触手が這い出してきた。十本以上。すべてがコンヌに向かってくる。
「させない!」
ときやは壁から飛び降り、触手の前に立ちはだかった。
「ときや君!」
「行け!結晶を壊すんだ!」
ときやは触手に掴まれた。身体が締め上げられる。
「ぐっ…」
だが、ときやは必死に抵抗した。触手を引っ張り、コンヌへの道を少しでも開ける。
「早く…!」
コンヌは祭壇の中央へ到達した。巨大な結晶体が、目の前にある。妖しく輝いている。教祖の詠唱が、最高潮に達した。
「来たれ…ヨグ=ソトースよ…!」
壁の亀裂が、限界まで広がった。もう数秒で、完全に開く。コンヌは深呼吸をした。父の顔が浮かんだ。コンヌは跳躍した。空中で身体を回転させ、渾身の回し蹴りを結晶に叩き込む。
「はああぁぁぁぁ!」
ドガァン!
結晶が砕け散った。
パリィィィィン!
光の破片が、四方八方に飛び散る。その瞬間――教祖の詠唱が、途切れた。
「…!」
教祖の周囲に張られていた結界が、完全に消失した。その身体から、光が失われていく。
「な…」
教祖が膝をつく。
同時に、コンヌを襲っていた触手が動きを止めた。ときやを掴んでいた触手も、力を失って床に落ちる。
「ハァ…ハァ…」
ときやは荒い息をしながら、コンヌを見た。
「やった…のか…?」
コンヌも、荒い呼吸をしながら頷いた。
「うん…結晶を壊した…」
生贄たちは、完全に正気に戻っていた。状況を理解できず、戸惑っている。
「私たち…いつの間に…」
「ここは…どこ…?」
しかし――
ゴゴゴゴゴゴゴ…
地面が揺れ続けている。壁の亀裂は、まだ広がっている。
「え…」
コンヌの顔が蒼白になった。
「なんで…儀式を止めたのに…」
教祖が、震える声で笑った。
「ふふ…ははは…」
コンヌは教祖を見た。
「遅かった…のだ…」
教祖は顔を上げた。その表情には、恐怖と――諦めがあった。
「結晶を壊しても…もう遅い…封印は…崩壊寸前だった…」
「そんな…」
「門は…既に開いた…あとは…時間の問題だ…」
その時――壁の亀裂から、黒い触手が伸びてきた。だが、今度は違った。太い。そして、禍々しい。人間の理解を超えた、形容しがたい"何か"。触手は――教祖を掴んだ。
「な…!」
教祖の目が見開かれた。
「まさか…私を…?」
触手は教祖を引きずる。門へ向かって。
「やめろ…やめろ!私は御大に仕える者だぞ!」
教祖が絶叫する。
「封印を解いたのは私だ!なぜ私を…!」
だが、触手は容赦しなかった。
「いやだあああぁぁぁ!」
教祖の叫びが、地下空間に響き渡った。そして――教祖は、門の中へ引きずり込まれた。数秒の沈黙。コンヌとときやは、呆然と立ち尽くしていた。
「教祖が…飲み込まれた…」
しかし、門は閉じない。むしろ――亀裂は完全に開いた。黒と緑の光が、洪水のように溢れ出す。
ゴゴゴゴゴゴゴゴゴ!
地下全体が揺れた。生贄たちが悲鳴を上げて逃げ出す。
「皆さん逃げてください!」
ときやが叫んだ。
「早く地上へ!」
人々は階段へ殺到した。
「ときや君!私たちも…」
その時――門から溢れた光が、コンヌを包み込んだ。
「え…」
コンヌの身体が、光に引き寄せられる。
「コンヌちゃん!」
ときやが手を伸ばす。コンヌの手を掴もうとする。だが――光の壁に阻まれた。
「ときや君…!」
コンヌの姿が、光の中に消えていく。
「コンヌちゃん!コンヌちゃん!」
ときやの叫びが、虚しく響いた。光が収束する。そして――コンヌの姿は、消えた。
「コンヌちゃん…」
ときやは、光が消えた場所を見つめていた。




