光の中で
コンヌが目を開けると、そこは言葉にできない空間だった。上も下もない。風も吹かない。時間と重力の概念が、ここには存在しない。空は、黒かった。だが、星々が輝いていた。無数の星が――しかし、その配置は狂っていた。本来、北極星があるべき位置に、赤い巨星が脈動している。オリオン座は、三つの星が逆三角形を描いている。カシオペア座は、Wではなく、ぐにゃりと歪んだ形をしている。
見ているだけで、頭が痛くなる。脳が、この光景を「理解できない」と拒絶している。そして遠くから、何かの音が聞こえる。歌のような。叫びのような。祈りのような。人間の耳には聞こえてはいけない、名前を呼んではいけない"それら"の声。
「ここが…門の向こう…」
コンヌは震える声で呟いた。そして、その中心に一人の男が、巨大な門を必死に押さえていた。門は、黒い石で作られている。いや、石ではない。何か、もっと古い物質。宇宙が生まれる前から存在していた、名前のない物質。その門には、無数の紋章が刻まれている。コンヌが父の手記で見た、あの幾何学模様。
そして門の向こうから、何かが押し返している。触手のような、いや、形容できない"何か"が。門の隙間から、微かに見える。人間の目には映してはいけないもの。コンヌは思わず目を逸らした。
「見るな!」
男の声が響いた。ボロボロの服、やつれた顔。だが――
「父さん…!」
コンヌは叫んだ。その横顔には見覚えがあった。十年前、優しく微笑んでくれた父の顔。亥原が振り返った。
「コンヌ…?」
亥原の目が見開かれた。
「まさか、お前…なぜここに!」
「父さん!」
コンヌが駆け寄ろうとする。
「来るな!」
亥原が叫んだ。
「ここは危険だ!門に近づくな!」
だが、コンヌは止まらなかった。
「父さん!」
コンヌは亥原の元へ走った。その瞬間――門が激しく震えた。
ゴゴゴゴゴ…
門の向こうから、何かが吠えた。言葉にならない咆哮。それを聞いただけで、人間の正気が削られていく。
「ぐっ…」
亥原が必死に門を押さえる。コンヌは亥原の隣に立った。
「お父さん、私も手伝う!」
「ダメだ!早く戻れ!」
「嫌だ!」
コンヌは門に手を当てた。その瞬間――コンヌの脳裏に映像が流れ込んできた。十年前の記憶。若き日の亥原と古鷹が、教祖と戦っている。祭壇が破壊される。儀式が中断される。だが――門は閉じない。
「誰かが…内側から押さえ続けるしかない」
古鷹の声。
「俺が行く」
亥原の決意。
「待て!お前には娘が…」
「だからこそだ。娘の未来を守るために」
亥原は門の中へ飛び込んだ。
そして十年間。ずっと。一人で。押さえ続けていた。
「お父さん…」
コンヌの目から、涙が溢れた。
「永い間…ずっと一人で…」
「コンヌ…すまない…」
亥原の声が震えた。
「パパは…帰れなかった…」
「お父さん!」
コンヌは父の背中に手を当てた。
「もう一人じゃない!私がいる!」
亥原の目に、涙が浮かんだ。
「コンヌ…お前…こんなに大きくなって…」
亥原の声が掠れる。
「立派な…探偵に…なったんだな…」
「うん!」
コンヌは涙を拭った。
「父さんの娘だから!」
その時――門が、さらに激しく震えた。
ゴゴゴゴゴ…
亀裂が、広がっていく。
「まずい…もう限界だ…」
亥原の身体が、微かに透けている。十年間の消耗。肉体が、もう持たない。
「父さん!」
「コンヌ…すまない…」
亥原が膝をつきかける。
「もう…力が…」
その瞬間、コンヌは父を支えた。
「父さん、一緒に押さえよう!二人なら!」
「コンヌ…でも…」
亥原は苦しそうに呟いた。
「押さえるだけじゃ…意味がない…このままでは…いずれ…」
「え…?」
「十年間…押さえ続けてきたが…門は少しずつ…開いていた…」
亥原は門を見た。その表情には、深い絶望があった。
「完全に閉じるには…封印を強化しなければ…でも…その方法が…」
「手記にあったの!?」
コンヌが叫んだ。
「父さんの手記に…封印の方法が…あれは…」
亥原は首を振った。
「断片的な情報しか分からなかった…時間がなかった…」
コンヌの顔が青ざめた。
「じゃあ…どうすれば…」
「分からない…」
亥原は力なく笑った。
「十年間…考え続けたが…答えは見つからなかった…」
沈黙。
門の震えが、さらに激しくなる。
ゴゴゴゴゴゴ!
亀裂が、目に見えて広がっていく。
「お願い…」
コンヌが呟いた。
「誰か…教えて…どうすれば…」
その時――
コンヌの手が、門に刻まれた紋章に触れた。
ビリッ。
電流のような感覚。
「あ…」
コンヌの脳裏に、何かが流れ込んできた。紋章の意味。いや、「意図」だ。これは――言葉ではない。図形でもない。「力の流れ」を示している。
「これは…」
コンヌは他の紋章にも触れた。一つ、また一つ。すると――全体の構造が見えてきた。
「父さん…これ…」
コンヌは震える声で言った。
「内側から押さえるだけじゃ…足りないんだ…」
「え…?」
「外側からも…同時に力を加えないと…」
亥原の目が見開かれた。
「外側から…?」
「そう…内側と外側…両方から…」
コンヌは紋章を辿った。
「でも…私は今、内側にいる…外側に戻らないと…」
「待て」
亥原が遮った。
「戻ったら…お前も巻き込まれる…危険すぎる…」
「でも…」
「それに…」
亥原は門を見た。
「もう門は開きかけている…今から戻っても…間に合わない…」
コンヌは唇を噛んだ。
どうすれば…
その時――遠くから、声が聞こえた。
「コンヌちゃん!」
ときやの声だ。
「ときや君…!?」
コンヌが振り返ると、門の向こう――現実世界との境界に、ときやの姿が見えた。ぼんやりと。霞んで。だが、確かにそこにいる。
「聞こえる!?」
ときやが叫んでいる。
「コンヌちゃん!無事!?」
「ときや君!」
コンヌは門へ向かって叫んだ。
「聞こえてる!私は無事!」
「良かった…!」
ときやの声が、安堵に震えた。
「今…助ける方法を…」
「ときや君、聞いて!」
コンヌが遮った。
「封印の方法が分かった!」
「え…!?」
「内側と外側から同時に力を加えるの!」
コンヌは必死に説明した。
「私が内側からときや君が外側から!」
「でも…どうやって…」
「門に刻まれた紋章…あれに触れて!」
ときやの姿が、消えた。探しに行ったのだ。数十秒後
「あった!これか!?」
「そう、それ!」
コンヌは紋章に手を当てた。
「父さんも!」
亥原も、別の紋章に手を当てた。
「どうすれば!?」
「一緒に…力を込めるの!」
三人は同時に、紋章に力を込めた。紋章が光り輝く。
ゴゴゴゴ…
門が震える。だが――変化がない。
「まだ…足りない…!」
コンヌが歯を食いしばった。
「もっと…もっと力を…!」
「コンヌちゃん!」
ときやが叫んだ。
「一人じゃ無理だ…このままでは…!」
その瞬間、ときやの中で悟りが走った。
(外側から、複数の紋章を押さえる必要がある)
(だが、ここにいるのは…)
ときやが周囲を見る。混乱した洗脳された人たち。なぜ自分たちがここにいるのか分からない顔をしている。機動隊員たち。戸惑いながら状況判断を試みている。
「救急隊員さん、機動隊の皆さん」
ときやが叫んだ。
「今、説明します。この地面に書かれた紋章に触ってください。複数の人間が同時に触れてください」
「何を言っているんだ」
機動隊の隊長が、警戒した目でときやを見る。
ときやは、崩壊し続ける地下空間を指差した。
「今、この地下全体が崩壊している。このまま逃げても、途中で落盤に巻き込まれます。全員を助け出すことは不可能です」
「…たしかに」
隊長が天井を見上げた。確かに、壁から石が落ちている。
「だが、なぜ紋章を押さえると…」
紋章が光り輝く地響きが少し和らいだ。
「時間がありません。信じてください」
ときやが言った。
沈黙。隊長は部下を見た。
「…試す価値がある」
「隊長?」
「やるんだ。指示に従え」
機動隊員たちが、慎重に紋章に近づき始めた。だが――
「待ってください」
突然、女性の声が上がった。見知らぬ女性が、ときやを見ていた。
(あ…この人も、洗脳された人か)
「あなたは…」
「私…何も覚えていません。ですが…」
女性は胸を押さえた。
「頭の中に…女の子の声がしました。『力を合わせよう』という…」
別の洗脳されていたの男性も、頷いた。
「俺も…聞いた…あの地下から…何かが…」
ときやは理解した。コンヌの声だ。地下から届いている。
「皆さん…」
ときやが声を張った。
「あなたたちは洗脳されて儀式に使われました!このままではこの場全員が生き埋めになってしまいます!ですから今ここで力を合わせましょう!」
「ああ。洗脳から救ってくれた彼女たちを助けるために。
そして…」
人々の顔が、変わった。
「…手伝わせてください」
「俺たちにも…何かできることが…」
「あります」
ときやが頷いた。
「紋章に…手を当ててください。そして…」
ときやは紋章を見つめた。
「心を…コンヌちゃんに…合わせてください」
一人、また一人と。
洗脳された人たちが、紋章に手を当て始めた。全員ではない。数人は、恐怖から動けず、奥へ逃げていった。機動隊員たちも、躊躇いながら紋章に手を当てた。
(50人…60人…)
「さあ…」
ときやも紋章に手を当てた。
「今だ…」
コンヌの声が、遠くから聞こえた。
「ときや君!」
「聞こえてる!」
「みんな…力を…」
コンヌの声が、震えている。
「一緒に…!」
「いくぞ…」
ときやが呼びかけた。
「皆さん…想像してください。光が…紋章から…」
息を吸う。紋章が光り始めた。微かに。だが確実に。
「今だああぁぁ!」
ときやが叫んだ。全員が、同時に力を込めた。光が弾ける。内側から。外側から。二つの光が交差し、門を包み込む。
ゴゴゴゴゴゴゴゴゴ!
門が震える。亀裂が――修復されていく。紋章が光り、封印が強化されていく。触手が悲鳴のような音を立てて引っ込んでいく。
「まだだ…!」
亥原が叫ぶ。
「最後まで…力を抜くな…押せえ!」
「うん!」
コンヌも、ときやも、古鷹も、美月も、100人の人々、助けに来た人々全員が、力を込め続けた。
そして――
パァン!
眩い光が、空間全体を包み込んだ。光が消えた時。門は――完全に閉じていた。亀裂は修復され、紋章は黄金色に輝いている。
「やった…」
亥原が呟いた。
「やったぞ、コンヌ…」
「うん…」
コンヌは父の胸で泣いた。
「父さん…やったよ…みんなで…」
「ああ…」
亥原は娘を抱きしめた。
「お前のおかげだ…そして、みんなのおかげだ…」
そして――光が、二人を包み込んだ。邪悪な光ではない。温かな、黄金の光。
「これは…」
コンヌが呟いた。
「封印が…完成したんだ」
亥原が答えた。
「もう、門は開かない。永遠に」
光が、二人を現実世界へと導いていく。
「父さん…帰れるの…?」
「ああ」
亥原は微笑んだ。
「一緒に帰ろう。コンヌ」
二人は、光の中へ消えていった。




