帰還
光が、消えた。
「コンヌちゃん!」
ときやが走り出す前に、足がもつれた。床に手をついた。立ち上がる。また走る。光があった場所に、二つの影が倒れていた。
「コンヌちゃん!」
駆け寄る。膝をつく。コンヌの肩を抱き起こした。冷たい。
「コンヌちゃん、聞こえる?コンヌちゃん!」
まぶたが、ゆっくりと動いた。
「…ときや、君…?」
声が出た。ときやの胸の中で、何かが崩れた。
「良かった…」
それだけしか言えなかった。喉が詰まって、それ以上出てこない。コンヌの顔を見る。泥だらけで、頬に傷がある。唇が乾いている。それでも——生きている。
「ときや君…泣いてる?」
コンヌが、掠れた声で言った。
「泣いてない」
「嘘だ」
「泣いてない」
コンヌが小さく笑った。その笑顔を見た瞬間、ときやは顔を背けた。その時、隣で低い呻き声がした。コンヌの顔が変わった。
「父さん…!」
コンヌがときやの腕から離れ、隣に倒れた男性へ這うように向かう。ときやも後を追った。男性は仰向けに倒れていた。服はボロボロだ。だが——その顔は、古鷹から見せてもらった写真の顔だった。
「父さん」
コンヌが父の頬に触れた。ときやは素早く脈を確認した。弱いが、ある。呼吸も、浅いが続いている。10年間、次元の狭間で身体を酷使し続けた。どれほどの消耗か。だが——生きている。まぶたが、開いた。
「ん…コンヌ…か…」
「父さん!」
コンヌが抱きついた。その身体は震えていた。
「帰ってこれたの…二人で封印したの。完全に」
亥原は、しばらく何も言わなかった。ただ、娘の背中に腕を回した。その腕が、小刻みに震えている。
「よくやった…」
絞り出すような声だった。
「本当に、よくやった…コンヌ…」
「父さん…父さん…!」
コンヌが泣いている。声を上げて泣いている。十年分の涙が、一度に溢れているような泣き方だった。
ときやは二人から少し離れて、立っていた。周囲では、正気を取り戻した人々が、座り込んだり、互いに抱き合ったりしていた。何が起きたのか分からない顔をしている。当然だ。気づいたら地下空洞にいて、見知らぬ人間が倒れているのだから。
ときやは立ち上がり、皆に向かって叫んだ。
「大丈夫です。儀式は止まりました。皆さんは助かりました。今、救助隊が案内します。落ち着いて、その場にいてください」
安堵の声が、波のように広がった。泣き出す人もいる。へたり込む人もいる。
その時、遠くから足音が響いた。複数の、重い足音。そして——
「亥原…!」
低く、震えた声。
ときやが振り返った。
古鷹が、そこに立っていた。
包帯を巻いた身体で、杖をつきながら。顔には打撲の痕が残り、息が荒い。
だが——その目は、真っ直ぐに亥原を見つめていた。
「古鷹…」
亥原が、掠れた声で呟いた。
古鷹は、一歩、また一歩と近づいた。足を引きずりながら。痛みを堪えながら。
美月が後ろから支えようとしたが、古鷹は首を振った。
「いい…自分で…行く」
古鷹は、亥原の前まで来た。
そして——膝をついた。
二人は、しばらく何も言わなかった。
ただ、見つめ合っていた。
「…すまない」
亥原が先に口を開いた。
「10年も…待たせた…」
「馬鹿野郎」
古鷹の声が震えた。
「謝るな…お前は…」
古鷹の目から、涙が溢れた。
「お前は…10年間…一人で…世界を守り続けたんだ…」
「古鷹…」
「10年間…ずっと待ってた…」
古鷹の声が、完全に崩れた。
「ずっと…信じてた…お前は生きてるって…いつか帰ってくるって…」
古鷹の肩が、大きく震えた。
「だから…謝るな…」
「…ありがとう」
亥原が、古鷹の肩に手を置いた。
「待っていてくれて…ありがとう…」
古鷹は何も言えなかった。ただ、涙を流し続けた。
美月も、その光景を見て、目を赤くしていた。
「父さん…」
美月が、古鷹の肩に手を置いた。
「美月…」
古鷹が娘を見た。
「見たか…亥原が…帰ってきた…」
「ええ…」
美月も涙声になった。
「おかえりなさい、亥原さん」
「ああ…ただいま」
亥原が微笑んだ。
コンヌは、父と古鷹の様子を見て、また涙が溢れた。
「古鷹さん…」
コンヌが声をかけた。
古鷹が顔を上げた。
「コンヌ君…いや…」
古鷹は涙を拭った。
「コンヌ探偵…よくやってくれた」
「古鷹さんこそ…」
コンヌも泣きながら笑った。
「ありがとうございました」
古鷹は立ち上がろうとして、よろめいた。
美月とときやが、両側から支えた。
「無理しないでください」
ときやが言った。
「大丈夫だ…これくらい…」
古鷹は亥原を見た。
「10年分の…喜びに比べれば…」
亥原も、コンヌに支えられながら立ち上がった。
二人は向かい合った。
「亥原…」
「古鷹…」
二人は、同時に右手を差し出した。
握手。
10年ぶりの、相棒同士の握手。
「お疲れ様」
古鷹が言った。
「お疲れ様」
亥原も答えた。
その瞬間、周囲にいた機動隊員たち、救助隊員たち、そして正気を取り戻した人々が、拍手を始めた。
パチパチパチ…
拍手が、地下空洞に響き渡った。
コンヌは、父と古鷹の姿を見て、涙が止まらなかった。
ときやも、その光景を見て、静かに微笑んでいた。
美月は、父の背中を優しく叩いた。
「よく頑張ったね、父さん」
「ああ…」
古鷹は娘を見た。
「お前もだ…美月…」
そして、古鷹は亥原に向き直った。
「亥原…」
「ん?」
「今夜…飲もう」
古鷹が笑った。
「10年分…語り合おう」
「ああ」
亥原も笑った。
「そうだな…10年分…積もる話がある」
「じゃあ、焼肉で」
コンヌが明るく言った。
「焼肉?」
亥原が娘を見た。
「ときや君との約束なの。飲み放題付き」
コンヌが笑った。
「それはいい」
古鷹が頷いた。
「全員で行こう。美月も、ときや君も」
「はい!」
美月とときやが同時に答えた。
機動隊員たちが動き始めた。洗脳されていた人々への誘導、救急隊との連絡。忙しく声が飛び交う。
その喧騒の中で、四人は静かに立っていた。
亥原とコンヌ。
古鷹と美月。
そして、ときや。
10年の時を超えて、再び集まった仲間たち。
コンヌが、父に支えられながら、ときやを見た。何も言わなかった。ただ、笑った。
ときやも笑った。それで十分だった。
古鷹が、亥原の肩を叩いた。
「帰ろう」
「ああ」
亥原が頷いた。
五人は、ゆっくりと階段へ向かった。
地上へ。
光の世界へ。
長い戦いが、終わった。
そして、新しい日々が始まろうとしていた。




