井上のトラウマ
その日から、井上の俺に対する意識が変わった。
憧れというべきか、尊敬というべきか。バスケをやっている者なら誰しも夢見るダンクシュート。海外のプロ選手でもなければ、叶う事のない憧れの境地。バスケバカにしてみたら目が♡になるだろう。
彼女だけではなかった。
男子バスケ部の顧問がチョコレートをチラつかせながら「お前は今日からバスケ部な」と強引に勧誘された。ポテチの袋を持った陸上部顧問が「走高跳びをやったらプレゼント」と言ってスカウトされた。何も言わずジュースを差し出し「飲め」と言われたので飲んだら、バレー部決定になった。
小学生じゃねぇんだ。お菓子類でつられるバカだと思っているのかぁぁーー。
正直、俺もダンクをしたのは初めてだった。元々が身軽でジャンプ力もあった。小学6年の時、垂直飛びで驚異の63センチを記録して周りをザワつかせた。これは高校3年生の記録に匹敵するという。今は体も大きくなり、さらに飛躍していると思われる。
以前、友則と秘密基地へ向かっている途中、バトミントンで遊んでいる子たちが空を見上げていた。「何してるんだ?」と尋ねたら、木に羽が引っ掛かって取れないと言う。
小学低学年のちびっ子たちには手の届かない距離だった。彼女らの体で、この高さの木登りは無理だろう。もし落ちたら大怪我は免れない。
少女たちは、悲し気な表情で羽を見つめていた。その姿を目の当たりにすると、心の深い部分に恋の花が咲きそうだ。
こういう時こそ、持って生まれた身体能力を発揮する場面である。
俺は少女らの頭をいい子してやり、ジャンプで枝にぶら下がった。そこから勢いを付け、逆上がりで木によじ登った。アクロバティックな演出にキャッキャと喜ぶ少女たち。彼女らを親目線で「可愛いな」と思いつつ、羽を投げ返して下りようとした時だった。
強固に根を張った大木がグラグラ揺れ出した。「地震か」と思って見下ろすと、友則が渾身の力で大木をブン殴っていた。
細くて不安定な枝の上である。バランスを崩した俺は、背中から地面に叩きつけられ、肺の空気が全部抜けた。
「いってぇー。何すんだよ!」
「あれ、三次。何で空から降って来たんだ?」
「降って来たんじゃねぇ。振り落とされたんだよ!」
「なぜ?」
「……ってか、お前は何をしてんだ」
「木を揺らして取ろうと思ってな」
「俺が登って取ったのを見てただろ」
「拳に気を溜めてたから見てねぇよ」
「お前は孫悟空かっ!」
その後、少女に心配されながら基地へ向かった……。
俺自身、特別な訓練はしていない。昔から当たり前のように出来るため、意識などした事がなかった。いわゆる持って生まれた才能というヤツである。だが、他者から見ると凄い事らしい。
担任やクラスメイトに「その才能を活かせ」と言われたが、俺は団体競技が苦手だ。自分のミスで周りに迷惑がかかるかもしれない。そう考えると下半身に激痛が走る。ならば、個人競技はどうだ。と問われても断る。
俺の夢は、AV監督兼男優だからだ。
その後も「やり方を教えろ」だの「どうすれば可能か」だのとしつこく聞かれて辟易した。
特に井上の張り切り方は常軌を逸していた。
「あんたがいれば、優勝間違いなしよ」
「あまり期待するんじゃねぇよ」
「ダンクが出来る人っていないもの」
「俺一人頑張っても勝てねぇぞ」
「大量得点すればいい」
「チームワークだろ」
「即席にチームワークなぞあるか!」
「まあ、そうだが」
「今日はスリーポイントのコツを教えてやる」
「まだやるのかよ」
「あんたらを優勝させるのが私の役目なんだから」
「なぜ、そんな勝ちに拘るんだよ」
「……」
学校行事の単なるお遊びである。勝っても負けても今後の生活に支障はない。
それでも尚、勝ちに拘る理由。それは小学校時代の苦い経験が元になっているらしい。
子供の頃から負けん気が強く、泣かせた男子は数知れず。喧嘩に一度も負けたことがないという強者だった。
そんな彼女には1つの悩みがあった。それは身長が平均よりも低く150センチに満たなかった。小学校の6年間は、前倣えではなく、腰に手を当てる役目だったという。現在は少し成長したようだが、それでも前列に居座っている。
チビに劣等感を持っていた彼女は、「バスケをやると身長が伸びる」という噂を聞いて入部した。
そしてドツボにハマった。
小4で楽しさに目覚めて以来、バスケが生活の中心になっていった。
ただ、相変わらず身長は小さいまま。上級生には、体格も良く岩のような連中がゴロゴロいる。体当たりされて転がり、ドリブルを簡単に奪われ、シュートすら打たせてもらえなかった。
常人ならここで挫折する所だが、彼女は根性の塊である。人の何十倍もの練習を重ね、バスケ関連の本を読み漁り、ボールと友達になって技術を向上させていった。
その努力が実り、小5の後半時には上級生よりテクニシャンになり、将来のキャプテン候補として頭角を現した。
ようやくレギュラーの座を勝ち取った彼女は、主要メンバーとして人生初の試合に出場した。
ここは是が非でも負けられない場面である。同時に、これまでの努力と実力を試す絶好のチャンスだった。
一試合ごとに持てる力の全てを出して得点を重ねた。彼女の頑張りがチームメイトにも伝わり、破竹の勢いで勝ち上がっていった。
そして運命の決勝戦。今までの対戦相手とは違い、パワーもテクニックも段違いに上手い。両者一歩も譲る事なく、白熱した接戦試合をしていたのだが……。
これまでの疲れなのか、ちょっとした気の緩みなのか。井上の放ったパスがリバウンドされ、それが決勝点になって破れた。
試合である以上、いつか必ず勝敗が決まる。たまたま彼女のパスが引き金になっただけで、もしかしたら、他の誰かだったかもしれない。相手チームだったかもしれない。ゲームを支配する女神が相手に微笑んだだけである。
チームメイトは彼女を慰めたが、井上の耳には届かなかった。
初めての試合、しかも決勝戦という重大な場面で屈辱的な敗北を味わった。自分のミスで仲間に迷惑をかけた。あそこでパスを出さなかったら。もっと試合に集中していたら……。
色んな思いが交錯し、胸が引き裂かれる苦悩だったのだろう。決して弱音を吐かない彼女が人前で大粒の涙を流し、血が出るまで唇を噛みしめていたという。
負けは人生の敗北者になる。彼女の心の中に強固な決意が芽生えた。
「もう二度と負けない」と。




