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第9話 数字が出る




十三日目の朝、協会の受付の奥で、紙が一枚、手から手へ回っていた。


俺は入口で足を止めた。


端を折らないように、両手で受け渡している。


三歩後ろで律の足音も止まる。


職員の一人が鬼頭の報告書を胸の高さに持って、声を落として読んだ。


「規定どおり記録する。……俺は一度も触れなかった」


声は小さかった。


紙を受け取った職員が、俺から目をそらした。


別の一人がこちらを見た。


白いシャツの襟を直して、小さく会釈する。


俺は何も言わなかった。


律のペンが、三歩後ろで止まっている。


紙はまだ回っていた。


奥の机から、真柴が顔を上げた。


俺を見る。


黒いアームカバーの袖を直して、書類の束を机の端に置いた。


「灰塚さん」


声は平板だった。部屋の隅まで届いて、そこで止まる。


「本部照会、出しました」


一拍。


「照合エラーの暫定措置は、再測定の完了で解除です」


俺は黙って聞いていた。


三歩後ろで、律のペンが動く気配がした。


「今日から、E級の小門は何件でも届け出られます」


真柴はそう言って、書類の端を指で揃えた。


「ああ」


俺は言った。


それだけだった。


律のペンがメモ帳を走る。音が三つ。


真柴は机の向こうに視線を落とす。


俺は真柴の机の前を離れた。


靴音が二つ。


三歩後ろで律が続く。


ペンが耳に戻る音だけが、静かな登録課に残った。


  ◇


日課は、無被弾撃破三十。


湾岸の小門が、同じ晩に二つ開いた。


一つ目は、地下通路の奥にあった。


潮が引いている。コンクリートの壁に、塩の白い跡が波のように残っている。


階段を下りる。靴音が三つ。天井が低くなる。頭上に配管が走っている。水滴が一つ、肩に落ちた。


律は門の外に残った。


「届出は通っています」


律が言った。


「灰塚さん、位置についてください」


三歩分の距離が、ここで切れる。


首の後ろで殻が閉じる。


背骨に沿って灰色が這い上がり、顔の前で合わさる。細い線が三本、外側へ走る。光は白い。


通路の突き当たりに、黒い口が滲んでいる。空気が薄く歪んでいる。壁の染みが門の縁で一度だけ脈打つように動いた。


手をかける。くぐる。


天井に張りついて、門の口の左側を見下ろす。


前を見る。暗がりの底、床と壁の境目から黒い粒が湧いている。


灰鼠だ。数える。十四。


一番手前が壁を伝って上がってくる。


天井を蹴る。影走り。白い線が靴底から配管へ伝う。


真上から前腕を落とす。


一匹目。背が割れる。


二匹目、三匹目が左右の壁を並んで走る。


配管を蹴って左へ。薄刃を横に払う。


二匹目が裂ける。


反転。右の壁を蹴る。


三匹目。腹を裂く。


四匹目が床から跳ぶ。高さが足りない。


天井に張りついたまま、通過を待つ。


顎の下へ薄刃を突き入れる。


四匹目が落ちる。


五匹目、六匹目が配管の影から出る。


配管の上を走る。足音はない。


五匹目の背を踏んで、六匹目の首を刈る。


五匹目は床に落ちて動かない。


七匹目から十匹目まで、壁の染みから一斉に湧く。


壁を蹴って染みの真上へ。


真下へ薄刃を振り下ろす。


七匹目。


体をひねる。八匹目。


足を壁に戻す。九匹目。


十匹目が通路の奥へ逃げる。


天井を走る。追いつく。


背中に一閃。


十一匹目と十二匹目が、門の口の左右の壁に張りついていた。


戻る。


天井を走る。白い線が配管を渡る。


左の壁へ落ちる。


薄刃を横に払う。


十一匹目の胴が裂ける。


足を壁に残したまま、右へ跳ぶ。


十二匹目の背を割る。


二匹が同時に床へ落ちる。


残りは二匹。


奥だ。


配管の下をくぐる。


天井が低い。


十三匹目が床を走っている。


壁を蹴る。斜めに落ちる。


顎の下へ薄刃を突き入れる。


十三匹目が止まる。


最後の一匹が、突き当たりの壁に張りつく。


足を止めない。


壁を蹴る。


天井を走る。


真上から落ちる。


薄刃を下へ振る。


十四匹目の背が裂ける。


床に落ちる。


音が一つ。


それきり、動かない。


天井の配管から水滴が落ちる。


床に当たって、また一つ。


息は上がっていない。


壁の塩の跡が、暗がりで白く残っている。


通路の奥で、何かが動いた。


暗がりの底から、白い染みに沿って浮き上がる。


門主だ。


灰鼠より一回り大きい。背の毛が逆立っている。


胸の下に数字が浮かぶ。


62


灯って消える。


殻読み。


配管を蹴って、頭上を取る。


首の継ぎ目に一太刀。


門主が壁から剥がれて、床に落ちる。


光が流れる。


【経験値を取得しました +148】


門の口を出る。


外は夜だった。


地下の湿気が首の後ろで一気に抜ける。


湾岸の道に出る。街灯がまばらだ。


潮の匂いがする。風はない。


律が三歩分の距離に立っていた。


灰色のパーカーの肩が、街灯の下で薄く光っている。


右手に銀色のストップウォッチ。針は止まっている。


眼鏡の奥の目が、俺の殻を見上げる。


「三分五十一秒です」


律が言った。


防水メモ帳は開いていない。ペンも耳にない。


「三分五十一秒」


もう一度言った。


「ああ」


俺は答えた。


それだけだった。


律はストップウォッチを左手に持ち替えた。


首から下げた紐の先で、小さく揺れる。


「二つ目の出口で待っています」


律が言った。


路地の脇に自転車が一台、立てかけてある。


律はそれに跨った。


ペダルを踏む音が二つ。


街灯の下を通って、湾岸の道を東へ走っていく。


赤い尾灯が一つ、橋脚の影に吸われて消えた。


俺は殻を閉じたまま、橋脚のほうへ歩き出した。


靴底の継ぎ目に、白い線がまだ灯っている。


橋脚の根元に立つ。


一歩。


コンクリートに足が張りつく。


夜の橋脚は、まだ湿っている。


二歩。


三歩。


体が持ち上がる。


高架の縁が見える。


手をかける。


白い線が鉄の縁を掴む。


乗り越える。


高架の上は風が通る。


車線は空いている。


高架の縁を走る。


靴底が白く細い線を引く。


隣のビルが迫る。


外壁はタイル。


目地の黒い線が縦に並ぶ。


跳ぶ。


高架からビルへ。


手のひらが壁に吸いつく。


白い線が指からタイルへ這う。


そのまま上がる。


五階。


八階。


屋上の縁を掴む。


乗り越える。


給水塔の横を抜ける。


屋上から屋上へ。


倉庫街の波板が続く。


波板は乾いている。


一歩ごとに棟が変わる。


下で街灯が等間隔に光る。


屋根の継ぎ目を踏む。


風が一度、殻の表面を撫でる。


倉庫の吹き抜けが見える。


小門の黒い口が壁に滲んでいる。


屋根の端を蹴る。


体が落ちる。


壁を走る。


地面に降りる。


音はしない。


律が三歩分の距離に立っていた。


門をくぐる。


倉庫の吹き抜け。天井が高い。


鉄骨が梁を渡して、壁の高い位置に明かり取りの窓がある。


風が上から下へ抜ける。


灰の匂いがする。乾いている。


一つ目は、湧いてから動いた。今度は、湧く前にいる。


天井に張りつく。


門の口の左側。壁と床の境目。


黒い粒が湧く。


灰鼠だ。


数える。十四。


一匹目が壁を駆け上がる。


天井を蹴る。


落ちながら薄刃を振る。


一匹目。背が割れる。


二匹目が左の壁を走る。


壁を蹴る。横へ。


薄刃を払う。


二匹目。裂ける。


三匹目から十二匹目まで、一度も床に足をつけなかった。


十三匹目、十四匹目が門の口へ向かう。


天井を走る。


白い線が梁を渡る。


二匹の頭上を取る。


落ちながら薄刃を二度。


十三匹目。十四匹目。


床に落ちる。


音が一つ。


それきり、動かない。


天井の鉄骨に足を戻す。


風が上から下へ抜ける。


灰の匂いが薄くなる。


息は上がっていない。


吹き抜けの中央の床が、黒く沈んだ。


沈んだ場所から、染みが湧く。


染みは広がらない。一点に集まる。


集まった黒が盛り上がる。


門主だ。


四本の脚が床を掴む。爪がコンクリートを削る。


音が一つ、天井に当たって散る。


天井の鉄骨に足を置いたまま、見下ろす。


門主が頭を上げる。目が二つ、こっちを捉える。


天井を蹴る。


体が落ちる。


白い線が靴底から鉄骨を離れる。


門主が前脚を上げる。


落ちながら体を半歩、左へ。


前脚が空を裂く。


風が殻の表面を撫でる。


そのまま真下へ。


門主の頭上を取る。


首の継ぎ目が見える。毛の薄い、白い筋だ。


前腕の縁が白く光る。薄刃。


薄刃を振り下ろす。


一太刀。


首の継ぎ目に刃が入る。


門主の前脚が止まる。


床に足の裏を置く。


音はしない。


門主が横へ倒れる。


脚が四本、痙攣して止まる。


床に血は出ない。黒い染みが薄くなっていく。


光が流れる。


【経験値を取得しました +148】


一拍。


【影走り Lv.5】


一拍。


【日課:無被弾撃破 30(30/30)達成】


光が消える。


出口の光の中に出る。


外は夜だった。


倉庫の壁が黒く立っている。波板の稜線に街灯の光が細く乗っている。潮の匂いはしない。乾いた鉄と、冷えたコンクリートの匂いだけが残っている。


首の後ろで殻が音もなく畳まれる。灰色が背骨に沿って引いていく。汗が冷える。


律が三歩分の距離に立っていた。


灰色のパーカーの肩が、街灯の下で薄く光っている。右手に銀色のストップウォッチ。胸の前に構えている。針は止まっている。


眼鏡の奥の目が、俺の殻が畳まれるところを見ている。


「三分四十九・六秒です」


「さっきより、一・四秒短いです」


律が言った。


「一・四秒」


もう一度言った。今度は、声の高さが少しだけ違う。息を飲む音が、一拍、遅れて届く。


首の後ろに手を当てる。殻の閉じた跡が、まだ熱い。


一拍。


数字が二つ並ぶのは、悪くない。


  ◇


帰り道。コンビニの明かりの前で、律が足を止めた。


コンビニの明かりが、歩道に白い四角を落としている。


俺も止まる。


自動ドアの向こうで、棚の灯が青く並んでいる。


律は胸の前のメモ帳を、抱えたまま動かさなかった。


眼鏡の奥の目が、俺の顔を見ている。


「灰塚さん」


声は小さかった。夜の空気に吸われる。


「時々、宙を読んでますよね」


俺は何も言わなかった。


コンビニの看板が、頭の上で低く鳴っている。


律の目は、責めていなかった。


息を一つ吐く。


少し間を置いた。


夜の空気が、歩道の白い四角の上だけ冷たい。


俺は律の顔を見なかった。看板の灯りを見ていた。


「……数字が出る」


看板の音に半分だけ吸われた。


律は動かなかった。眼鏡の奥の目が、俺の顔を見ている。


「記録しておきます」


律は胸の前に抱えていたメモ帳を開いた。防水の表紙が、指の下で乾いた音を一つ立てる。


ペンを耳から取る。


律は新しいページを一枚めくった。


ペン先が紙に当たる。音が一つ。


律は縦に一本線を引いた。紙の真ん中、上から下まで。定規を使わない。手が速い。線が少しだけ右に傾く。


線の左に、ペン先が止まる。


「Lv」


書く。


線の右に、ペン先が移る。


「殻圧(計器)」


書く。


律はペンを止めた。


二列の見出しだけが新しいページの上に並んでいる。線の下に、まだ何もない。


「Lvは、申告してください。殻圧は、こちらで測ります。他には、書きません」


「ああ」


律はペンを耳に戻した。


メモ帳を閉じて、胸の前に抱える。


律はそれ以上、聞かなかった。


眼鏡の奥の目が、俺の首の後ろを一度だけ見た。殻が閉じた跡のあたりだ。


歩き出す。律が自転車を押して、三歩後ろに続く。


メモ帳の新しいページには、二列の見出しだけが残っている。


  ◇


灰町のアパートに戻って、靴を脱いだ。


部屋は狭い。窓が一つ、カーテンが閉まっている。電気はつけていない。街灯の光がカーテンの隙間から細く入っている。


布団の端に座った。


視界の隅で、殻ログの表示を開く。


【殻装:灰殻】 Lv.9

等級:―(測定不能)

第一殻 脱皮まで:Lv.10

筋力 14 / 敏捷 22 / 殻硬度 8 / 共鳴 11

未割振:0

殻圧:165

能力:[影走り Lv.5] [空返し Lv.3] [薄刃 Lv.3]

常時:[殻読み]

型:なし

日課:無被弾撃破 30(30/30)達成

確かめる。


数字が並んでいる。見慣れた行だ。


その下に、一行。


【脱皮まで:経験値 残り574】


一拍。


脱皮まで。


Lv.10と書いてあるだけの行が、経験値で数えられている。


今日の小門一つで、百四十八。割ると、四つ弱。


俺は左手を背中に回した。


肩甲骨の間。首の後ろから下へ。殻が閉じる場所。


指先がシャツの上を滑る。


何もない。


骨の線だけがある。熱もない。膜もない。継ぎ目もない。


手を離した。


掌に何も残っていない。


窓の外で車が一台通った。ヘッドライトの光がカーテンの隙間を横切って、壁を一度だけ照らす。


光が消える。


部屋がまた暗くなる。


殻ログの一行が、まだそこにある。


【脱皮まで:経験値 残り574】

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