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第10話 三つ目の門




十五日目の朝、電話が鳴った。


布団の上で端末を取る。画面に「黒潮 大鳥」とある。


「坊主か」


大鳥の声は、朝の光と同じくらい大きかった。


「北の倉庫、満潮前に三つ出るぞ。並んでな」


一拍。


「いいな」


俺が何か言う前に、電話は切れた。


通話時間の数字が画面に残る。


十一秒。


今日の日課は、走破十キロ。


潮見表を開く。満潮は十時四十分。


二時間前なら、八時四十分。


律にメッセージを打つ。


『北の倉庫。満潮前に三つ』


『八時四十分』


送信。


布団から出る。


靴を履く。


外に出る。


空が薄く青い。風はまだ冷たい。雲が一つ、屋根の上をゆっくり流れる。


走り出す。


灰町の坂を下る。


湾岸の道に出る。


コンビニの前を過ぎる。


橋脚の影に入る。


橋の下を抜ける。


倉庫街の入口に立つ。


走り続ける。


倉庫Aの裏。


三歩分の距離に律が立っている。


自転車のスタンドが砂利を擦る音が一つ。


律は防水メモ帳を胸の前に抱えている。


灰色のパーカーの肩が、朝の光の中で薄く白い。


眼鏡の奥の目が、俺の顔を見ている。


「おはようございます」


律が言った。


俺は頷いた。


「届出、二件通しました」


律がメモ帳を開いた。


「一つ目は、ここです。倉庫Aの裏。二つ目は、埠頭の西端、クレーンの足の下です。三つ目は、まだ出ていません。予測は、倉庫Bの屋上か、南の排水溝の底です」


「ああ」


律はストップウォッチを右手に持った。


「倉庫Aの裏。準備ができたら、開始します」


俺は頷いた。


首の後ろで殻が閉じる。


背骨に沿って灰色が這い上がる。


顔の前で合わさる。


細い線が三本、外側へ走る。


光は白い。


壁の染みが動く。


空気が歪む。


小門だ。


手をかける。


くぐる。


暗がり。


天井が高い。


梁が交差している。


床はコンクリート。


潮の匂いはしない。


乾いた埃の匂いだけが残っている。


灰鼠が、壁の染みから湧く。


数える。


十六。


今日は上に上がらない。三つある。


床を走る。


一匹目が正面から来る。


左へ半歩。


前腕を振る。


薄刃が首を刈る。


二匹目が右の柱の陰から出る。


足を止める。


待つ。


一歩踏み出す。


薄刃を横に払う。


三匹目が左の壁を走る。


壁に背を向ける。


一歩。


壁を蹴る。


前腕を落とす。


四匹目は床を横切る途中で、首を落とした。


五匹目、六匹目が同時に来る。


避けない。


正面から入る。


五匹目の胴を切り上げる。


体をひねる。


六匹目の首を刈る。


七匹目から十六匹目まで、足は一度も床を離れなかった。


埃が床に落ちる。


奥の暗がりで、床が黒く沈む。


沈んだ場所から、染みが湧く。


染みは広がらない。一点に集まる。


集まった黒が盛り上がる。


門主だ。


灰鼠より一回り大きい。背の毛が逆立っている。


門主が前脚を上げる。


一歩。


左へ。


前脚が空を裂く。


風が殻の表面を撫でる。


そのまま前へ。


前脚の付け根に薄刃を当てる。


一太刀。


前脚が折れる。


門主が吠える。


口が開く。


喉の奥が見える。


薄刃を横に払う。


首の継ぎ目を断つ。


門主が横へ倒れる。


脚が四本、痙攣して止まる。


床に血は出ない。黒い染みが薄くなっていく。


光が流れる。


【経験値を取得しました +134】


門の口を出る。


朝の光が強い。倉庫の壁が白く光っている。


風はまだ冷たい。


律が三歩分の距離に立っていた。


右手に銀色のストップウォッチ。針は止まっている。


眼鏡の奥の目が、俺の殻を見上げる。


「三分五十七秒です」


律が言った。


「ああ」


律はストップウォッチを左手に持ち替えた。


「次の門は、埠頭の西端、クレーンの足の下です」


自転車のスタンドを外す音が一つ。


律はそれに跨った。


ペダルを踏む音が二つ。


倉庫街の道を西へ走っていく。


俺は殻を着たまま、倉庫Aの屋根を見上げた。


屋根は鉄板。波板ではない。真っ直ぐだ。


壁を蹴る。


屋根の縁を掴む。


乗り越える。


屋根の上は風が通る。


遠くに、クレーンの脚が三本、埠頭のコンクリートに立っている。


屋根から屋根へ。


下の道で、律の自転車が小さく見える。


追い越す。


倉庫Bの屋根を抜ける。


風が一度、殻の表面を撫でる。


クレーンの脚の下に、小門の黒い口が見える。


屋根の端を蹴る。


体が落ちる。


壁を走る。


地面に降りる。


音はしない。


振り返る。律の自転車は、まだ倉庫の角を曲がってこない。


待たない。


門をくぐる。


中は、外と同じく鉄骨のクレーンの脚が一本、高く立つ広い場所だった。


天井は見えない。脚の先が、暗がりに吸われている。


床はコンクリート。乾いた鉄の匂いがする。


壁の染みが動く。


灰鼠が湧く。


数える。


十七。


灰鼠が脚の根元を囲む。円を描いて、目が一斉にこっちを向く。


一つ目と同じことをすると、一つ目と同じ秒になる。


脚の鉄骨に足をかける。


壁を走る要領だ。


一段。二段。三段。上へ。


灰鼠が脚の根元から跳ぶ。五匹。


脚を一周して、上を取る。


薄刃を振る。


五匹の背が裂ける。脚の上から落ちる。


残り十二匹。


もう一周。追ってくる。五匹。


もう一周。五匹。


残り二匹。


最後の一周で、二匹を落とす。


音が一つ。


それきり、動かない。


息は上がっていない。


鉄骨の上の暗がりで、何かが動いた。


鉄骨の継ぎ目から、黒い染みが滲む。


門主だ。


灰鼠より二回り大きい。背の毛が逆立っている。


胸の下に数字が浮かぶ。


98


灯って消える。


門主が鉄骨を伝って降りてくる。


脚の根元で止まる。


脚の上で、鉄骨を蹴る。


門主の真上へ落ちる。


薄刃を下へ振る。


一太刀。


首の継ぎ目を断つ。


門主が鉄骨に沿って崩れ落ちる。


光が流れる。


【経験値を取得しました +141】


出口の光の中に出る。


外は朝だった。


クレーンの脚が三本、埠頭のコンクリートに立っている。風が脚の周りを抜ける。遠くで汽笛が一度鳴る。


律はいない。


三つ目は、まだ出ていない。


南の排水溝か、倉庫Bの屋上。律の予測は二つ。


息を吸う。


潮の匂いが濃い。


冷凍倉庫のほうだ。九日目の冷凍倉庫跡とは別の、まだ動いている方だ。


倉庫Bの屋上でも、南の排水溝でもない。


冷凍倉庫の陰だ。


走る。


倉庫Bの裏へ回る。


冷凍倉庫の白い壁が見える。


壁の陰に、小門の黒い口が一つ、滲んでいる。


三つ目の門は、潮の匂いで分かった。


端末で、三件目の届出を出す。受付は、すぐに通った。


門をくぐる。


中は、外と同じく冷凍倉庫の内部だった。


天井が高い。梁が交差している。床はコンクリート。氷の匂いがする。冷気が殻の表面に触れる。


壁の染みが動く。


灰鼠が湧く。


数える。


十八。


一つ目は床。二つ目は脚。三つ目は、天井だ。


壁を蹴る。


天井を走る。


白い線が梁を渡る。


天井に逆さに張りつく。


灰鼠が壁を登ってくる。


梁を伝って、上を目指す。


天井に張りついたまま、薄刃を振る。


一匹目。二匹目。三匹目。


四匹目が梁の下から来る。


体をひねる。


薄刃を横に払う。


四匹目。裂ける。


五匹目から先は、天井を走りながら刈る。


十一匹目のところで、霜に足の裏が一度流れる。


足の裏を平らに、真上から。


置き直す。


十八匹目が落ちる。


音が一つ。


それきり、動かない。


息は上がっていない。


床の真ん中が、黒く沈む。


門主だ。


灰鼠より一回り大きい。背の毛が逆立っている。


門主が頭を上げる。


天井を見上げる。


逆さの俺を探す。


天井を蹴る。


体が落ちる。


頭から逆さに。


白い線が梁を離れる。


首の継ぎ目が見える。毛の薄い、白い筋だ。


前腕の縁が白く光る。薄刃。


一太刀。


首の継ぎ目に刃が入る。


体を返して、床に足の裏を置く。


音はしない。


門主が横へ倒れる。


脚が四本、痙攣して止まる。


床に血は出ない。黒い染みが薄くなっていく。


光が流れる。


【経験値を取得しました +146】


一拍。


【日課:走破 10km(10/10)達成】


一拍。


【連続15日:筋力+1】


光が消える。


脱皮まで、残り百五十三。小門一つ分と、少し。


出口の光の中に出る。


冷凍倉庫の白い壁の前に、自転車が一台、倒れていた。


屋根を渡る白い線を、下の道から追ってきたらしい。


律がハンドルに手をかけたまま、肩で息をしている。


灰色のパーカーの肩が、上下している。


眼鏡の奥の目が、俺の殻を見上げる。


右手に銀色のストップウォッチ。針は止まっている。


「一つ目の門から、二十六分十一秒です」


途切れ途切れだった。


「二十六分、十一秒」


もう一度言った。今度は、息が追いつかない。


「三つ目は、自転車では追いつけませんでした」


律が言った。


「排水溝と屋上ばかり見ていました」


肩の上下が一つ、増える。


首の後ろで殻が音もなく畳まれる。


灰色が背骨に沿って引いていく。


汗が冷える。


冷凍倉庫の角に、自動販売機が一台立っている。


財布から硬貨を出す。


ボタンを押す。


ガコン。


缶コーヒーが一つ、取り出し口に落ちる。


もう一度。


缶コーヒーを二本、手に持つ。


律のところに戻る。


自転車の横で、律はまだ肩で息をしていた。


缶コーヒーを一本、律の前に差し出す。


「……ありがとうございます」


律は両手で受け取った。


缶コーヒーを胸の前に抱える。


俺は自分の缶を開けた。


一口。


倉庫街の道の向こうから、足音が二つ、走ってくる。


息を切らしている。


二人とも、殻を着ている。D級の軽装だ。


二人は冷凍倉庫の白い壁の前で止まった。


息を整えている。


壁の染みはもう消えている。


閉じた門の跡だ。


二人はそれをしばらく見ていた。


一人が言う。


「……もう、ない?」


もう一人は何も言わない。


俺は缶コーヒーを持って、二人の横を通り過ぎる。


缶コーヒーを一口。


潮の匂いが遠い。


  ◇


夕方、灰町のアパートで端末が鳴った。


画面に「黒潮 大鳥」とある。


「坊主か」


「北の倉庫、三つとも閉じたってな」


大鳥の声は、夕方の光と同じくらい大きかった。


「若いのが空振りしたって騒いでた」


「たまたまだ」


「だろうな」


大鳥は鼻で笑った。


一拍。


切れると思った。


「それとな」


大鳥の声が、少しだけ低くなる。


「明後日、鷹宮の嬢ちゃんが澪浜の正門に来る」


一拍。


「知っとけ」


「そうか」


俺はそれだけ言った。


鷹宮紗夜。同じ日に覚醒した幼なじみで、今は国家級だ。


「ああ」


大鳥は短く返した。


電話が切れる。


通話時間の数字が画面に残る。


十秒。


窓の外を見る。


ベイサイドのほうに、高いビルの影が並んでいる。


夕方の光が、その縁だけを細く光らせている。


澪浜の正門は、あの向こうだ。

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