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第11話 第14条の付箋




十六日目は暗いうちに起きた。


窓の外はまだ黒い。


潮見表を開く。干潮は四時四十分。夜明けと、ほとんど重なる。


潮が止まって、満ちに返る。その最初の三十分に、岸壁の下に小門が出ることがある。


荷運びの六年で、四回見た。四回とも、誰も届けを出していなかった。その時間に岸壁の下を覗く者はいない。


律にメッセージを打つ。


『汐留町の船溜まり。四時四十分』


返事は一分もかからずに来た。


『行きます』


起きていたのか、とは聞かなかった。


外に出ると、空の端だけが薄く白んでいた。


息を吸う。潮の匂いが濃い。


灰町から走る。


アパートの前の坂を下りる。陸橋を駆け上がる。上は風が強い。


汐留町に入ると、黒潮のヤードの脇を走り抜けた。


コンテナが四、五段に積まれ、クレーンの脚が三本、まだ夜の灯りを点けている。


夜勤の作業員が一人、吊り具のワイヤに耳を寄せていた。


鳴いたら、荷を止める。あの決まりはまだ生きているらしい。


足は止めない。


ヤードの先で、汐留町の船溜まりが見えた。古い桟橋が並ぶ、漁船の避難所だ。


潮が引いて、岸壁の根元のコンクリートが露出している。


黒く濡れた斜面の一番下、桟橋の脚の陰に、小門の黒い口が一つ、滲んでいた。


人の背丈ほど。縁がまだ揺れている。


岸壁の上に、律が立っていた。灰色のパーカーのフードをかぶり、首から防水のメモ帳を下げている。


「四時四十六分に開きました。四時四十六分です」


一度で足りるところを二度言った。


「届出は、出しました。受付、一番です」


「ああ」


斜面を降りる。靴の裏が濡れたコンクリートに吸いつく。


首の後ろで、殻が閉じる。灰色の殻の継ぎ目に白い線が灯り、肩から腕へ走って、指の先で止まった。


門をくぐる。


中は、外と同じ、桟橋の下の暗がりだった。


太い脚が何十本も並んでいる。木の杭と、錆びた鉄骨。足元は浅い水。踝の上まで来る。


杭の根元の水が泡立つ。


灰鼠が湧く。


十四。


水を蹴って、杭の間を抜けてくる。


一本目の杭に足をかける。横に跳ぶ。二本目へ。 水に足をつけない。


上から薄刃を振る。一匹目。二匹目。


三本目の杭へ。三匹目。四匹目。


あとは杭の上を渡りながら刈った。


十四匹目が水に沈む。


音が一つ。


それきり、動かない。


杭の奥の水が黒く盛り上がる。


灰鼠より二回り大きい。背の毛が濡れて、鉄の針のように寝ている。


94


門主が水から上がる。


灰鼠は、水から出ると必ず一度、首を振って水を切る。荷運びの列の後ろから、何度も見た。


首が、横に振れた。


水が飛ぶ。


杭の上から、真下へ落ちる。


体が逆さになる。薄刃が下を向く。 首の継ぎ目が、目の前に来る。


一太刀。


杭の頭に、足の裏を置き直す。


門主が水に沈んだ。


杭の間に、黒い染みがゆっくりと溶けていく。


光の粒が、俺の殻にだけ流れ込む。


【経験値を取得しました +122】


水の底に、魔石が鈍く光っていた。拾って、腰の小袋に入れる。


出口をくぐると、空の半分が白んでいた。


岸壁の上で、律が銀色のストップウォッチを止めた。数字は読み上げずに、メモ帳に写した。


小袋を渡す。律は両手で受け取って、パーカーのポケットにしまった。


「どうして、ここに出ると分かったんですか」


「荷運びの頃、干潮の朝に、ここで漁船の荷を積んだ」


「そのときに?」


「潮が止まって、返る音がする。そのあと、桟橋の陰の水が一度だけ黒くなる」


律がメモ帳を開いて、書く。ペンの音が速い。


「今朝、この船溜まりの届出は、一件だけでした」


「荷運びは、朝が早い」


律のペンが一度止まった。それから、もう一行書き足した。


「日課は」


「協会の隣のビルで、壁を走る」


「では、協会で待っています」


陸橋の上は、来たときほど風が強くなかった。


  ◇


日課の壁面を済ませて協会に入ると、ロビーの端で、ハンターが二人、話をしていた。D級の軽装で、殻は着ていない。


「北の倉庫の三つ、全部閉じてたってよ。一人で」


「等級ないやつだろ。E級の扱いだって」


「E級が一晩で三つ閉じるかよ」


俺に気づいて、声が切れた。


気にせず、受付のほうへ歩く。律が三歩後ろからついてくる。


受付の奥から、真柴が顔を上げた。


細い銀縁の眼鏡。ひっつめ髪。黒いアームカバー。


「灰塚さん。本部から、回答が来ています」


平板な声だった。


登録課の机の前に座る。律は、俺の三歩後ろに立った。


真柴が一枚の紙を机に置き、指で文字をなぞった。


「等級未定者の入門については、規程第五条について、E級の規則を準用する」


「単独では、E級の小門までです」


後ろで、律の息が一瞬だけ詰まる気配がした。


「パーティに加わる場合も、戦闘員にはなれません」


「そうか」


「はい」


真柴は回答の紙を机の上の分厚い綴りの上に重ねた。表紙に「灰塚迅 記録簿」とある。


六年前、ここで登録したときは、紙が三枚だった。


今は、綴じ紐がもうぎりぎりまで伸びている。


E級の小門なら、六年入ってきた。困ることは特にない。


「今朝のも、E級だった」


「存じています。届出、拝見しました」


真柴は顔を上げずに言った。


「でも、灰塚さんの殻圧は、協会の記録で百六十五です。Dの帯です」


律が口を挟んだ。


真柴は律を見た。


「規程上、等級は殻紋で決まります。殻圧は、等級の根拠になりません」


「でも」


「いい」


俺は短く止めた。


「小門なら、入れる」


「……はい」


律は一度だけ頷いた。


真柴は記録簿を脇に寄せると、机の端から厚い規程集を引き寄せた。


ページをめくる音が、しばらく続く。


真柴の指が止まった。付箋を一枚はがす音がした。


俺の用は、もう済んでいた。


律の目が、机の端に向いていた。規程集は、ひらいたまま置かれている。


「では、今朝の魔石の換金を、窓口でお願いします」


真柴はそれだけ言って、次の書類に目を落とした。


律がパーカーのポケットから小袋を出して、買取の窓口のほうへ歩いていく。


協会を出る。


外の階段で待っていると、律が白い封筒を持って出てきた。封筒を俺に渡し、階段を一段下りたところで、ぽつりと言った。


「第五条は、あとで全部読んでおきます」


「ああ」


それから、少し間があった。


「水色でした」


「何が」


「付箋です」


それきり、律は手帳に何か書き始めた。


俺はそれ以上聞かなかった。


協会からの帰りは、ベイサイドの広場の脇を通った。


広場の端に、テントが一つ立っている。青いシートの端に、協会の印が縫いつけてある。


テントの前で、職員が三人、黄色いロープを張っていた。封鎖線だ。


その横に、屋根にアンテナを立てた中継車が一台、もう停まっている。五日前の雨の夜、外壁の下に停まっていたのと同じ形だった。


街頭ビジョンが、音を絞って、明日の中継の告知を流している。


律が、三歩後ろでぽつりと言った。


「明日は、協会の職員がみんな、こっちに回るそうです」


「そうか」


三秒だけ見上げて、灰町のほうへ曲がる。


  ◇


夕方、端末が鳴った。律からだった。


『今日の記録の整理をしたいので、晩ご飯をご一緒してもいいですか』


『灰町の駅前で』


少し考える。


『ああ』


返事は、すぐに来た。


『七時に行きます』


七時ちょうどに駅前に着くと、律はもう来ていた。バス停のベンチに、灰色のパーカーのまま座っている。


俺に気づくと、立ち上がって、黙って頭を下げた。


駅前に、定食屋が一軒だけ灯っていた。


看板の電球が一つ切れている。油の匂いが、夜の空気に混ざっている。


客は俺と律だけだった。四人掛けの卓に向かい合って座り、生姜焼きの定食を二つ頼んだ。


定食が来るまでの間に、律が手帳を開いた。


「今日のLvを、申告してください」


「九」


「昨日と同じですね」


律は「Lv」の列に、九と書いた。


「殻圧は、また測ります」


「ああ」


湯気の立つ皿が二つ、卓に置かれる。生姜の匂いが濃い。


一口。塩気が強い。米が進む。


律は最初の一切れを半分に割ってから口に運んだ。


壁の高いところに、古いテレビが掛かっている。


ニュースが、澪浜のベイサイドを映していた。


《明日、澪浜にS級正門 国家級・鷹宮紗夜が攻略へ》


テロップの下で、白と紺の協会の制服を着た紗夜が、記者に囲まれている。背筋がまっすぐで、笑顔に隙がない。


画面が切り替わり、前の正門の映像が流れる。深い瑠璃色の殻。肩から背に、六枚の薄板がひらく。


俺は箸を止めずに、画面を見た。


生姜焼きを一切れ、口に運ぶ。


キャスターの声が、明日の段取りを読み上げる。S級の正門。攻略の予定は三日。周辺は明日の朝から封鎖される。 明日の中継は、実況の香坂澄が担当するという。


画面が切り替わって、紗夜の短いコメントが流れた。


《三日以内に、閉じます》


十六日前の夜、街頭ビジョンで聞いたのと同じ言い方だった。


カウンターの奥で、白い前掛けの店主がテレビを見上げた。


「この子、澪浜の出なんだってね。たいしたもんだ」


誰にともなく言って、鍋のほうへ戻る。


俺は答えなかった。


向かいで、律の箸が止まっていた。


「灰塚さんと、鷹宮さんは、同じ日の覚醒ですよね。協会の古い名簿に載っていました」


「ああ」


テレビの中で、紗夜が記者に一礼する。


律は画面を見ずに、俺を見ていた。


「行かないんですか」


「行かない」


律はそれ以上聞かなかった。手帳も開かなかった。


会いに行けば会える。封鎖線の外から手を挙げれば、たぶん気づく。


まだ、行かない。


箸を持ち直して、味噌汁をすする。


店を出ると、外は冷えていた。


店の前の自販機が、青白く光っている。


硬貨を入れて、ボタンを二回押す。缶コーヒーが二本、取り出し口に落ちた。


一本を律に差し出す。


「……いただきます」


律は缶を両手で持ったまま、一度だけ頭を下げた。それから南の道へ歩いていった。


俺は反対の道を歩きながら、缶を開けた。


一口。


ぬるくはない。今日のは、熱いほうだった。


  ◇


アパートの部屋は、窓が一つしかない。


電気を消す前に、殻ログを開いた。


視界の端に、一行だけ浮かぶ。


【脱皮まで:経験値 残り31】


三十一。


E級の小門の灰鼠なら、五、六匹。


明日は、届出を見る職員も、みんな向こうにいる。


明日、紗夜が来る街で。


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電気を消した。

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