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第12話 届出なし




十七日目の朝、ベイサイドの広場は人で埋まっていた。


黄色い封鎖線の向こうに白いテントが三つ、等間隔に並んでいる。


テントの列の先に正門がある。


黒い。


高さはビルの五階ほど。幅はその倍。縁がゆっくりと脈打ち、開くたびに白い光が漏れる。


門の手前に、協会の職員が十人以上列を作っている。殻を着た者もいる。皆、正門のほうを向いている。


その前を中継車のアンテナが旋回した。


街頭ビジョンにスタジオの映像が映る。


《——現場です。香坂さん》


《はい。今、正門の前です。国家級・鷹宮紗夜、正門に入ります》


俺は律と並んで、人だかりの後ろのほうに立っていた。


律は背伸びをしない。ただ、首から下げたメモ帳を開いてペンを持っている。


前のほうで、子供が父親の肩に乗った。


「見える?」


「見えない」


「もう少ししたら、来るから」


俺は封鎖線の柱に目をやった。


鉄の支柱。黄色い帯。留め具が一つ、緩んでいる。


直す者はいない。職員は皆、正門のほうにいる。


街頭ビジョンの中で、白と紺の制服の列が動いている。


先頭に瑠璃色が一つ。


深い。青のほうが強い。肩から背に、六枚の薄板がひらいた。


遠い。まだ、正門の手前だ。


人だかりの隙間から、その背中だけが見える。


背筋がまっすぐだ。


六年前と、同じ角度で立っている。


《——入ります》


香坂の声が広場のスピーカーから流れた。


瑠璃色の背中が正門の黒い口に吸い込まれていく。


六枚の薄板が最後に一度、光った。


それで、終わった。


広場の空気が少しだけ緩む。


「三日以内に、閉じます、だってな」


隣の男が誰にともなく言った。


「さすがだ」


「国家級は違う」


律が隣で端末を見ていた。協会の届出の掲示だ。


律が端末から顔を上げた。


「裏の路地、寿命あと二十分の小門。届出なしです」


一度で足りるところを、二度は言わなかった。


「行く」


律の指が、端末の上で一度だけ動いた。


「届出、出しました。受付、一番です」


人だかりの後ろを抜ける。


誰も振り返らない。


皆、正門を見ている。


背中の向こうで、香坂の声が続いている。


広場の縁を回り込む。


黄色い封鎖線の端をまたぐ。


警備の職員が一人立っている。端末を見ている。


俺たちのほうは見ない。


律が三歩後ろからついてくる。


靴音が二つ、鋪道の上で重なる。


ベイサイドの裏通りに入る。


表の喧騒がビルの角で一度切れる。


細い道だ。


両側に古い倉庫の壁。窓は少ない。


昼前なのに日が当たらない。


路地の突き当たりの手前、左に折れる。


幅は肩二つ分。


奥の壁の下に黒い口が一つ、開いている。


背丈より低い。


縁が細く脈打っている。開くたびに、白い光が一筋路地の壁を撫でる。


寿命が近い。


小門の縁は細くなるほど脈が速い。


律が三歩後ろで止まった。


「あと十九分です」


メモ帳を開く音がした。


ペンが走る。


俺は小門の前に立つ。


中は見えない。


黒い。


表の広場のざわめきが遠くで一度だけ波のように高くなって、また下がる。


振り返らない。


門の口から、灰鼠が五匹。


路地にはみ出してくる。


殻が首の後ろで閉じる。


足場を三つ。


壁の室外機。窓の上の雨樋。左の配電盤。


室外機を蹴る。


雨樋を駆け上がる。


上を取る。


五匹が壁に張りつく。


薄刃を振る。


一匹。二匹。


壁を蹴って、三匹目。


配電盤の上に落ちる。


四匹目、五匹目。


路地に灰鼠が沈む。


音が、五つ。


それきり、動かない。


路地の奥で、小門が細く脈打つ。


黒い口が一つ、大きく開く。


門の縁から、太い前脚が一本出てきた。


灰鼠の二回りはある。


鉄の針のような毛が、壁の光を弾く。


96


門主が半身を出す。


配電盤の上で、足の指に力を入れる。


足場は見えている。


小門の真上の壁。


あそこへ跳ぶ。


壁を蹴る。


体が門の口の上を横切る。


手を離す。


落ちる。


殻が背中で細く鳴る。


薄刃が下を向く。


首の継ぎ目が、目の前に来る。


一太刀。


門主の首が、路地の水に落ちる。


黒い染みがゆっくりと広がる。


視界の端に白い文字が浮かぶ。


【経験値を取得しました +68】


【レベルが上がりました Lv.9→Lv.10】


【脱皮条件を満たしました】


三行。


それだけだった。


路地の奥で、小門の口が閉じる。


黒い縁が細く痙攣して、壁に滲むように消えた。


残ったのは配電盤の古い鉄箱と湿った鋪石だけだ。


殻が首の後ろで熱い。


熱さが背骨に沿って降りていく。


骨の内側を細い針が通るみたいに。


律の靴音が、一歩だけ近づいた。


「来るな」


声が思ったより低く出た。


靴音が、ぴたりと止まる。


「灰塚さん」


「そこで見張ってろ」


「……はい」


律の足音が、三歩分、後ろへ下がる。


路地の入口のほうで、パーカーの布が壁に触れる音がした。


誰か来たら、声をかける。たぶんそういう立ち方だ。


膝をつく。


配電盤の陰。


表の広場のざわめきが、遠い。


ここには誰も来ない。


殻が背中で鳴る。


びり、と。


一度だけ。


継ぎ目が内側から割れる音だ。


痛みはない。


熱いだけだ。


汗が顎の先から落ちる。


灰色の殻の背が少しずつ持ち上がっていく。


古い皮が剥がれようとしている。


まだ、何も起きない。


肩口から、ひびが走る。


音は、もうない。


灰色の殻が背から割れる。


割れ目から、前へ抜け出る。


その下から、黒が立ち上がる。


墨に近い。


光を吸う色だ。


肩に薄いひれ。


前腕の外側にも同じ形のひれが一本ずつ。


踵が細く伸びる。


足首の線が、まっすぐになる。


継ぎ目の線が白く澄む。


灰色のときは鈍かった。


今は細い。


首の後ろから、腕の内側を、踵の先まで一本の線が通る。


熱が引いていく。


汗が乾く。


何分経ったか、数えていない。


三分ほどだった、と思う。


立ち上がる。


膝が軽い。


手を見る。


指の関節に細い線。


爪の先まで、黒い。


握る。


開く。


五本、動く。


前腕のひれが光を一つ返す。


足元に灰色がある。


崩れていない。


膝をついたまま、残っている。


さっきまでの俺の形だ。肩の線も、指の開き方も。


中は空っぽだ。


背中の割れ目から、向こうの壁が見える。


俺はそれを見た。


見てから、わかった。


これは抜け殻だ。


視界の端に白い一行。


【能力を取得しました:残殻】


残殻。


読んだ瞬間、意味が流れ込む。


脱いだ殻が、一度だけ俺の代わりに斬られる。


灰色の薄皮はまだそこにある。


風もないのに揺れもしない。


路地の入口で、パーカーの布が壁に擦れる音が一度した。


律はまだこっちを見ていない。


背中を向けたまま、表の広場のほうを向いている。


声はかけない。


俺は抜け殻の前に手を置いた。


触れる。


乾いている。


温かくも冷たくもない。


ただ、ある。


表示がもう一度ひらいた。


【殻装:第二殻】 Lv.10

等級:―(測定不能)

第二殻 脱皮まで:Lv.30

筋力 15→20 / 敏捷 22→25→30 / 殻硬度 8→13 / 共鳴 11→16

未割振:0

殻圧:168 → 177 → 790

能力:[影走り Lv.5] [空返し Lv.3] [薄刃 Lv.3] [残殻 Lv.1]NEW

常時:[殻読み]

型スロット:1(空き)

型:なし

配電盤の陰で、表示を上から読む。


上がった分の三点は、迷わず敏捷に入れていた。


殻圧の行だけ、もう一度読む。


七百九十。


協会の記録の、五倍近い。


それだけだ。


表示を閉じる。


抜け殻にもう一度触れる。


指先が触れたところから、灰色が崩れる。


音もなく。


肩から、腕から、指の形のまま。


乾いた砂のように路地の鋪石の上へ落ちていく。


三秒もかからなかった。


崩れた灰が、鋪石の目に沈む。


あとには何も残らない。


立つ。


畳もうとして、首の後ろで止まる。


新しい殻は、まだ畳み方を知らない。


墨色のまま、路地を出る。


肩のひれが壁の光を一つずつ返す。


律の横を通る。


「行くぞ」


「はい」


律は俺の殻を、二秒だけ見た。


それから、いつものように三歩後ろへついた。


表の広場のざわめきが、角を曲がるとまた聞こえ始める。


誰もこっちを見ない。


皆、正門のほうを向いている。


広場の縁は人だかりの端で少しだけ薄くなっている。


そこを抜ければ、裏通りだ。


律が三歩後ろで、メモ帳を閉じた。


閉じる音が、ざわめきに混ざって消える。


俺は封鎖線の支柱の脇へ歩く。


そのとき、広場が、どよめいた。


波が後ろから前へ一度だけ走る。


カメラのレンズが一斉に同じ方向を向く。無数の黒い丸が、揃う。


街頭ビジョンが映像を切り替える。


《——出てきました。鷹宮紗夜、正門から出てきました》


香坂の声がスピーカーから降ってくる。


丁寧で、速い。語尾が少しだけ上ずっている。


《初日の偵察を終えての帰還です》


黒い口から、瑠璃色が一歩出る。


深い。青のほうが強い。


肩から背に六枚の薄板がまだ半ばひらいたまま。


広場の空気が一拍、止まる。


止まって、それから、割れる。


拍手ではない。


息だ。


数百人が同じ方向へ息を吐く。


俺は歩みを止めない。


止めないが足は遅くなる。


支柱の留め具が、朝のまま緩んでいる。


指で締める。荷運びの手癖だ。


紗夜は、まだこちらを見ていない。


記者の列のほうへ、背筋をまっすぐに保って歩いている。


六枚の薄板が一枚ずつ、背に畳まれていく。


その角度を俺は知っている。


六年前、覚醒した日の帰り道と同じ順番で、畳まれている。


封鎖線の支柱の根元に、コンクリートの縁。その先に植栽の枠。奥に、階段の三段目。


三つ。


首が、小さく三度、振れる。


左、右、正面。


癖だ。


動く前に足場を三つ見る。


紗夜の顔が、一度だけこっちへ流れる。


紗夜の足が止まった。


記者が二歩進んでから、それに気づく。


レンズが一斉に止まる。


紗夜の顔が人だかりの後ろのほうへまっすぐ向く。


その先に俺がいる。


墨色の殻装のまま、封鎖線の支柱の脇に立っている。


協会の職員も記者も、誰も、こっちを見ていない。


皆、紗夜の顔を見ている。


紗夜の唇が少しだけ動く。


「……迅?」


声は届かない。唇の形で、分かった。


距離は二十歩ほどある。


風が広場の真ん中を一度、横切った。


俺は何も言わなかった。


頭を一度だけ下げる。


紗夜はそれ以上追わなかった。


口元だけが少しだけ、笑った。


六年前の、帰り道の笑い方だった。


《——鷹宮さん? 今の、何でしょう》


レンズが何本か、紗夜の視線の先を探して振れる。


「今、誰見た?」


後ろのほうで、誰かが言った。


香坂の声がスピーカーから降ってくる。


紗夜は前へ向き直る。


背筋がまっすぐに戻る。


六枚の薄板が最後の一枚を背に畳む。


記者の列がまた動き出す。


俺は支柱の脇を離れる。


植栽の枠を回って、人だかりの切れ目へ。


背中に紗夜の視線がまだ一本、刺さっている。


刺さったまま、俺は歩く。


切れ目を抜ける。


角を曲がる。


視線が壁の向こうへ消える。


その瞬間、足の裏が、一度だけ鋪道を踏み外した。


  ◇


帰りは高架の下を通った。


高架の下は日陰だった。


柱が等間隔に並んでいる。


線路の上を時々、電車が通る。


音が腹の底に来て、去っていく。


律の足音が止まった。


俺も止まる。


振り返る。


律がパーカーのポケットから、簡易殻圧計を出した。


銀色の小さな箱だ。


俺に向けて、まっすぐに構える。


三秒。


表示が光る。


律は数字を見た。


それから、もう一度見た。


「七百九十です。……七百九十です」


「協会の記録では、百六十五でした」


数字を二度言った。


声はいつもと同じ速さだった。


指だけが少し強く箱を握っている。


俺は箱を見ない。


律の顔も見ない。


高架の柱の一本を見る。


「……上がった」


それだけ言った。


律は殻圧計をポケットにしまった。


律は何も聞かなかった。


紗夜のことも。俺の殻の色のことも。


「明日、協会のでも測ります」

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