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第13話 記録簿、二冊目




十八日目の夜明け、俺は高架の下の搬入口にいた。


柱の根元に、小門が一つ開いている。


いつもの小門だ。


首の後ろで、墨色の殻が閉じる。


昨夜のうちに、畳み方は分かった。思ったより簡単だった。


小門の前で、足場を三つ見る。


搬入口の鉄扉。雨樋。柱の控え壁。


中は黒い。


一歩、入る。


小門の中は湿ったトンネルだった。


壁が近い。天井も低い。


灰鼠が三匹、奥から走ってくる。


殻読みは使わない。E級の灰鼠に数字は要らない。


壁を蹴る。


天井を走る。


落ちる。


薄刃を横に振る。


三匹。


音が三つ。


奥へ進む。


床が浅く水に濡れている。


足音がしない。


門主が壁の割れ目から出てきた。


二回りは大きい。


壁を蹴って、首へ一振り。


重さが一度、腕に乗って、消える。


黒い染みが水に広がる。


出口の光へ歩く。


門の外へ出る。


朝の空気が冷たい。


視界の端に白い文字。


【経験値を取得しました +32】


……減った。


それだけ思った。


表示を閉じる。


高架の上を始発が通り過ぎていく。


  ◇


朝の協会はまだ空いていた。


登録課の机の前で、真柴がこちらへ手を伸ばす。


銀色の測定器。先端が胸の中央に当たる。


三秒。


表示が光る。


真柴は数字を一度だけ見た。


「七百九十です」


声はいつもと同じだった。


それから、机の上の記録簿を引き寄せる。


表紙を開き、今日の日付の行に数字を書き写す。


ペンの先が紙を走る音だけが、受付の隅に残った。


律が三歩後ろで、息を詰める気配はない。


もう、数字は聞いている。


真柴は記録簿の最後のページまでめくって、綴じ紐を外した。


厚い紙の束を机の端に揃えて置く。


次に、机の下から、新しい綴りを出した。


薄い。表紙は何も書かれていない。


真柴は万年筆のキャップを外すと、表紙の中央に事務的な字で書いた。


「灰塚迅 記録簿」


それから、綴りをこちらへ向け直した。


「記録簿、二冊目です」


俺はそれを二秒だけ見た。


「そうか」


真柴は頷いて、綴りを開く。


一枚目に、今日の殻圧が記される。


数字が一つ、並んだ。


七百九十。


協会の記録が今日から二冊目になる。


律が三歩後ろで、小さく息を吸う音がした。


「水色の付箋の、ところですね」


真柴は顔を上げなかった。


机の端の規程集に、手を伸ばす。


開いたページの端に、水色の付箋が一枚まだ貼られたままだ。


真柴の指がその行を上から下へなぞる。


「第十四条」


声は平板だった。


「等級のない者も、荷運びの名目なら正門に同行できます」


指が一行、下へ動く。


「荷運びの自衛は、妨げられません。同条但し書き」


そこで指が止まった。


ページを閉じる音が一つ。


真柴は規程集を机の端へ戻した。


それだけだった。


理由は言わなかった。


律が三歩後ろで、メモ帳を開く音を立てた。


ペンが走る音が少しだけ速い。


俺は机の上の二冊目の記録簿を見た。


表紙の「灰塚迅 記録簿」の字は、一冊目と同じ筆圧だった。


「荷運びなら、慣れてる」


それだけ言った。


真柴は頷いた。


真柴が顔を上げずに、ついでのように言った。


「それと。鷹宮さんから、灰塚さんについて問い合わせが一件ありました」


俺は立ちかけた腰を少しだけ戻す。


「記録簿のとおりです、とだけお答えしました」


真柴の声は最後まで平板だった。


目は次の書類の上にある。


俺は二秒だけ、机の上の記録簿を見た。


「……そうか」


それだけ言って、席を立つ。


律が三歩後ろで、静かに向きを変えた。


出入り口へ歩く。


背中に、真柴の視線はない。


あるのは紙のめくれる音だけだった。


外へ出る。


朝の光が思ったより強い。


律が三歩後ろをついてくる。


靴音が二つ、鋪道に重なる。


協会の階段を下りたところで、端末が鳴った。


画面に『黒潮 大鳥』と出ている。


端末を耳に当てる。


「もしもし」


『坊主か』


大鳥の声だった。


風の音が後ろにある。ヤードにいる。


『旧製鉄所跡にC級の正門が開いた。うちが取った』


「ああ」


『荷運びが一人足りねえ。昼までにヤードに来い、坊主』


返事をする前に切れた。


画面が通話終了に変わる。


律が三歩後ろで、こちらの端末を見ていた。


「黒潮さんですか」


「ああ」


「C級、ですか」


律の声が少しだけ低くなった。


C級の正門。これまでで一番大きい。


律はメモ帳を開かなかった。指が、パーカーのポケットの縁を摘んでいる。


「行く」


「はい」


  ◇


汐留町のヤードは出発前の慌ただしさに包まれていた。


コンテナが四段五段と積まれた隙間を、黒潮の隊員たちが忙しく行き交う。


クレーンの脚が三本、曇り空に向かって突き立っている。


俺はヤードの入口に立った。


律は三歩後ろ。いつもの位置だ。


クレーンの脚の下に、大鳥がいた。


紺の法被風ジャケット。白髪混じりの角刈り。


腕組みをして、積み荷の最終確認をしている。


俺が近づくと、大鳥はこちらを振り返った。


その目が俺の墨色の殻装を一度だけ見た。


上から下へ。それだけだ。


何も言わない。


律が三歩後ろから、静かに口を開いた。


「協会の殻圧計で、七百九十でした」


大鳥は俺から律へ視線を移す。


それから、鼻で笑った。


「七百九十? なら荷運びの日当、上げなきゃな」


それだけ言って、積み荷のほうへ歩いていく。


背中で、肩が一度だけ揺れた。笑っている。


律が小さく息を吐いた。


安堵のため息だ。


俺は大鳥の背中を見ていた。


驚かない男だ。六年、ずっとそうだった。


暗い橙の殻が、コンテナの角から出てきた。


袖をまくった腕。短い髪。戸張だ。


俺の墨色を見て、足が一度止まる。


「……灰塚さん、っすよね」


「ああ」


戸張は何か言いかけて、口を閉じた。


視線が、俺の肩のひれを一度だけなぞる。


それから、頭を一度下げた。


自分の荷のほうへ戻っていく。


背中が少しだけ速かった。


ヘルメットを抱えた男が、コンテナの陰から歩いてきた。


黒潮のC級班長だ。


名前は蔵前(くらまえ)という。


角ばった顔に無精髭。


ヘルメットを小脇に挟んだまま、まっすぐこちらへ来る。


俺の前で止まった。


上から下まで見る。


墨色の殻を、肩のひれを、踵の線を。


目が一度だけ細くなる。


それから、短く言った。


「大鳥さんの頼みでも、門の中じゃ荷運びは最後尾だ」


「俺の指示に従え」


声は低い。命令形の断定だ。


俺は蔵前の胸の下を一度だけ見る。


410


数字が浮いて、消える。


俺は、七百九十だ。


「ああ」


それだけ答えた。


蔵前は頷きもしない。


ヘルメットを頭に被る。


留め具を顎の下で締める音が、一つ。


「積み込みは済んでる。出るぞ」


背を向けて、隊列のほうへ歩いていく。


両腕の盾鎚が歩くたびに鈍く光る。


律が三歩後ろで、メモ帳に何かを書いていた。


ペンが止まる。


顔を上げる。


「最後尾、ですね」


「ああ」


律はそれ以上、何も言わなかった。


ヤードの奥で、クレーンのワイヤが一度鳴った。


誰かが声を上げる。


積み荷が揺れる。


止まる。


また動き出す。


俺は隊列の最後尾へ歩いた。


律が三歩後ろからついてくる。


隊列の最後尾、荷運びの列に大きな背負子を担いだ男が一人いる。


権藤だ。


殻は着ていない。シャツの背に汗の染みがある。


背負子の上に箱が三つ、紐で括りつけてある。


一番下の箱の角が肩に食い込んでいる。


俺が近づくと、権藤は顔を上げた。


その目が俺の殻装の上で止まる。


墨色。肩のひれ。踵の線。


目が一度、二度、動く。


口が半開きになった。


「……は?」


それだけ言って、止まった。


俺は何も言わない。


権藤の背負子の横に立つ。


一番下の箱に手をかける。


紐を一巻き、外す。


箱を持ち上げて、自分の肩に乗せる。


荷運びの六年で、この重さは覚えている。


権藤の口がまだ半開きのままだ。


「……持つなよ」


声は低い。怒鳴りもしない。


「重いだろ、それ」


俺はそれだけ言った。


権藤は何も言わない。


背負子の紐を握ったまま、俺の肩の箱を見ている。


それから、ふっと息を吐いた。


怒鳴るでもなく、笑うでもなく。


ただ、紐を持ち直して、前を向いた。


「……勝手にしろ」


背負子が一度、揺れる。


歩き出す。


俺は三歩後ろにつく。


権藤は振り返らない。


その背中が少しだけ丸い。


「灰塚さん」


律が三歩後ろで、小さく言った。


「箱、一つ分、軽くなってます」


「ああ」


律はメモ帳を開かない。


ペンも持っていない。


ただ、俺の肩の箱と、権藤の背負子を交互に見ていた。


ヤードの奥で、蔵前の声が飛ぶ。


「全員、出るぞ」


ヘルメットの留め具が、一斉に締まる音がした。


隊列は鋪道を海側へ折れた。


コンテナ街の端を抜けると、風が一段強くなる。


潮の匂いが混じる。


先頭の黒潮の隊はもう二つ先の角を曲がっている。


ヘルメットの列が等間隔で揺れている。


俺は最後尾を歩く。


肩に箱を一つ。


権藤の背負子が三歩前で軋む。


律は三歩後ろ。


靴音が三つ、鋪道に重なる。


ワイヤの音が遠ざかる。


ヤードのクレーンが、背中のほうで小さくなっていく。


権藤は前を向いたまま歩いている。


背負子の紐を握る手が時々、握り直される。


肩の箱の角がシャツの上からでも分かるほど食い込んでいる。


俺は自分の肩の箱を持ち直した。


権藤が前を向いたまま口を開いた。


「パーティは、もうねえ」


「坂巻は、あいつ、一人で小門回ってる」


「そうか」


それだけ答えた。


権藤はそれ以上何も言わず、背負子を担ぎ直す。


紐が肩に食い込む音が一度した。


俺は前を向く。


権藤から取った箱は、思ったより軽かった。


ヤードを出て二十分。


鋪道が舗装を失って、砂利に変わる。


潮の匂いが薄れて、鉄の匂いが混ざる。


錆びた門が道の突き当たりに立っている。


半分しか閉まっていない。


蝶番が片方、外れて地面に刺さっている。


黒潮の隊が門の前で足を止めている。


ヘルメットの列が門の幅に合わせて細くなる。


蔵前が先頭で、片腕を上げた。


全員が止まる。


「門の中じゃ、列を崩すな」


声が砂利の上で転がる。


俺は最後尾で、肩の箱を持ち直した。


律が三歩後ろで止まる。


メモ帳を開く音はまだしない。


門を抜ける。


高炉が三本、空に立っている。


真ん中が一番高い。脚は錆色で、途中から黒い。


その足元に、黒い口が開いている。


大きい。


高さは高炉の土台ほど。幅は、その倍はある。


縁がゆっくりと脈打っている。


開くたびに、白い光が敷地の砂利を一筋撫でる。


砂利の粒が光の下だけ白く浮く。


脈はE級の小門より遅い。


遅いということは太い。


門の脇で、協会の職員が名簿を開いた。


風でページが一度めくれる。


職員が指で押さえて、上から順に読み上げていく。


「黒潮、蔵前」


名前が一つずつ砂利の上に落ちる。


俺は最後尾で、肩の箱を持ち直した。


「荷運び、権藤」


権藤が背負子の紐を握り直す。


「荷運び、灰塚迅」


「ああ」


職員の指が一行、下へ動く。


そこで少しだけ止まった。


「荷運び、小鳥遊律」


律が三歩後ろで、小さく頭を下げる。


返事はしなかった。


息を吸う音だけがした。


名簿が閉じられる。


職員が脇へ下がる。


律は今日が初めての荷運びだ。


背負子は小さくて、箱は二つしか載っていない。


それでも紐は肩に食い込んでいる。


律は右手で眼鏡を押し上げた。


それから、正門のほうを一度だけ見た。


長さを測る目だ。


黒い縁の脈を、上から下へ。


左の縁から右の縁へ。


ポケットからストップウォッチを出して、親指で押す。


「閉門まで、七十一時間五十八分です」


声はいつもと同じ速さだった。


誰も応じなかった。


砂利の上で、ヘルメットの留め具が一つ締まる音がした。


蔵前が先頭で、片腕を上げる。


「行くぞ」


短かった。


それだけだった。


ヘルメットの列が動き出す。


門の口へ向かって、等間隔で揺れていく。


権藤の背負子が軋む。


俺は肩の箱を持ち直した。


最後尾につく。


律が三歩後ろにつく。


靴音が三つ、砂利を踏む。


門の黒い縁がゆっくりと脈打つ。


開くたびに白い光が一筋、列の上を撫でていく。


列の先頭が、門の口に届く。


縁の脈が、一度だけ、速く乱れた。


白い光が一拍遅れて戻る。


先頭で、蔵前が盾鎚を上げた。


列が一拍、止まる。


蔵前は何も言わなかった。


そのまま、腕を下ろす。


誰も、何も言わない。


風が砂利の上を滑っていく音だけがした。


俺は最後尾で、乱れた脈の数を数えていた。


一拍。二拍。三拍。


その三つが、戻ってこない。


肩の箱を持ち直す。


紐が指に食い込む。


律が三歩後ろで、息を止めている気配がした。


振り返らない。


俺は最後尾で、黒い口へ一歩を踏み出す。

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