第14話 斬られたのは殻
夜の日課で、殻圧は八百になった。
二日目の門の中は膝まで水だった。
昨日、門の口で乱れた脈は、あれから一度も乱れていない。
門の中は水没した工場だった。
天井は高い。鉄骨が格子に組まれ、その上を天井クレーンが古い姿勢のまま止まっている。
水は膝まで。歩くたびに水面が靴の横で割れて、後ろへ小さく戻る。
水の下に床がある。沈んだ配線が足に触れる。たまに、柔らかい。
両側に錆びたタンクが並んでいる。
配管が壁から斜めに落ちて、水面へ突き刺さっている。
先頭に蔵前。盾鎚を両腕に、水を割って進む。
その後ろに荷運びの権藤。背負子が揺れる。
俺は最後尾。肩に箱を一つ。
律が三歩後ろ。水音が一つ多い。
声はない。
水の音だけが列の幅を狭めては戻す。
視界の奥で、水の色が一段暗い。
水面の波紋が列の進む向きと逆に流れている。
俺は足を止めた。
肩の箱を静かに律へ渡す。
律は何も言わず、両手で受け取った。
目だけが俺の背中を追っている。
水を割らないように、足を抜く。
タンクの横梯子へ手をかける。
水音を立てずに一段、二段。
配管の上に乗る。
後ろの水面がまた不自然に割れた。
一匹目。
犬ほどの甲殻が隊の最後尾へ向かって沈みながら近づく。
俺は配管を蹴った。
落ちる前に、薄刃を逆手に抜く。
水に入る音はほとんどない。
首の継ぎ目へ、刃を差し込む。
甲殻が一瞬、硬直して、沈む。
水の色が少しだけ濁る。
二匹目が右のタンクの陰から浮いた。
俺はタンクの側面を蹴って、上を取る。
天井クレーンの梁へ手をかける。
腕の力で体を振り、落ちる勢いのまま背中へ。
薄刃が甲羅の隙間へ入る。
音は水が飲み込んだ。
三匹目は律の足元へ寄っていた。
律は動かない。
目だけが水面の上で、まっすぐに三匹目を見ている。
俺は配管を伝って、律の背後へ回る。
影走りで水面を三歩。
足音はしない。
薄刃を横に一閃。
甲殻の頭が半分、水に沈む。
波紋がようやく列の向きへ戻っていく。
律が小さく息を吐いた。
「三匹です」
声は水音に混じるか混じらないかの大きさだった。
俺は律から箱を受け取り直す。
肩に乗せる。
前の隊はまだ誰も振り返らない。
蔵前のヘルメットが遠くで水を割って進んでいる。
四匹目は配管の陰から出てきた。
箱をもう一度、律に預ける。
俺は天井クレーンの梁から落ちた。
薄刃を逆手に持ったまま、甲殻の背の継ぎ目へ乗せる。
手応えは、短い。
甲殻が水を割って沈む。
波紋が三つ、外へ広がって消える。
水の色が少しだけ濁って、また戻る。
その音で、先頭のヘルメットが止まった。
蔵前だ。
水の中で振り向く。
盾鎚の片方が水面の上で鈍く光る。
ヘルメットの下の目が沈んでいく甲殻の上を通る。
それから、俺のほうへ来る。
梁の下。水から腰まで出た姿勢のまま、俺は動かない。
「……今の、荷運びの動きか?」
声は低い。怒鳴らない。確かめる声だ。
水が膝の横で小さく割れる。
「荷運びの自衛だ」
それだけ答えた。
蔵前の目が一度だけ細くなる。
俺の肩のひれを見ている。
前腕のひれを見ている。
それから、踵の線へ落ちる。
蔵前は何も言わなかった。
水の中で、体の向きを前へ戻す。
盾鎚が一度、水面を払う。
「全員、止まるな」
声が鉄骨の間に散る。
ヘルメットの列がまた動き出す。
俺は梁から降りる。
律が三歩後ろで、俺の肩の箱を両手に持ったまま立っている。
眼鏡の奥の目が俺の顔を一度だけ見た。
何も言わない。
箱を返す。
受け取る。
肩に乗せる。
「四匹目です」
声は水音に混じる大きさだった。
「ああ」
蔵前のヘルメットはもう二つ先のタンクの陰へ入っていた。
水場が広がる。
天井の鉄骨が高くなる。
タンクの列が途切れる。
柱が四本、水に立っている。
その先が暗い。
水の底が見えない。
先頭の蔵前が水を割る足を緩めた。
盾鎚の片方が半分だけ上がる。
隊の列が自然に詰まる。
誰も声を出さない。
水音だけが一拍遅れて止まる。
俺は最後尾で、肩の箱を持ち直した。
そのとき奥の水面が盛り上がった。
音もなく。
水が上へ、円く持ち上がる。
人の背の倍ほど。
甲殻が水を割って立ち上がる。
鈍い鉄色。濡れて光る。
両腕が長い。
先が鎌になっている。
458
数字が浮いて、消える。
四百五十八。
蔵前は四百十だ。
俺は、八百。
肩の箱を水の上に静かに下ろす。
水が箱の縁を舐める。
箱は沈まない。
律が三歩後ろで、息を止めた。
俺は前を見る。
門主の鎌が片方、上がる。
蔵前が盾を構える。
鎌が振り下ろされる。
盾が受ける。
鈍い音が一つ、鉄骨の間に散る。
蔵前の両脚が水を割って、半歩下がる。
鎌がもう片方、横から来る。
蔵前は下がらない。
だが前へも出ない。
門主の胴が盾の陰で横へ滑る。
水を蹴る音が一つ。
鎌が盾の脇をすり抜ける。
隊の列の横。
そこに、戸張がいた。
暗い橙の殻。
鎌の先が戸張の前で止まる。
上がる。
振り上げられる。
戸張の足が水の中でもつれる。
半歩、下がろうとして、沈む。
もう半歩、沈む。
膝まで、水に取られている。
戸張の顔が上を向く。
口が開く。
声はまだ出ていない。
鎌が天井の光を一つ返す。
鎌が落ちる。
俺は水を蹴った。
水面を三歩。
戸張の前に、体を割り込ませる。
鎌の刃が俺の胸の高さで横に走る。
音はしなかった。
墨色の薄皮が一枚、斬られて飛ぶ。
俺は三歩横に立っている。
水の上に、静かに。
斬られたのは殻で、俺は三歩横にいた。
薄皮は斬られた形のまま一瞬空に残る。
肩の線も前腕のひれも踵の先まで。
それから、灰になって崩れた。
水の上に落ちる前に、消えた。
戸張が俺を見ている。
口が開いたまま、動かない。
鎌が空を薙いだまま止まる。
門主の目が灰の落ちた水面へ向く。
戸張の喉が一度だけ上下した。
「……斬られたの、殻だけっす」
声が水音の切れ間に落ちた。
誰も動かない。
蔵前の盾が水の上で光る。
門主の鎌がゆっくりと引き戻される。
薄皮が首の後ろから張り直されていく。
水の下で、肌の上を一枚の膜が滑っていく感覚だ。
冷たくも熱くもない。
ただ、埋まっていく。
まだ、首の後ろだけだ。
「二十秒だ」
俺は言った。
律は何も聞かなかった。
パーカーのポケットからストップウォッチを出して、親指で押す。
「再使用まで、二十秒。数えます」
顔は上げない。
目は文字盤の上にある。
水が膝の横で小さく割れた。
門主の胴がゆっくりと向きを変える。
その先に、律がいる。
律はまだ顔を上げない。
水を踏む音が一つ。
門主が一歩、律のほうへ進んだ。
「律」
声は短く出た。
「数えてます」
顔を上げない。
「十九、十八」
門主が二歩目を踏む。
蔵前が盾鎚を横へ払った。
「全員、散れ」
声が鉄骨の間に散る。
黒潮の隊が左右へ割れる。
戸張は動かない。
まだ水に膝まで取られたまま、俺のほうを見ている。
「十七、十六」
門主の鎌が上がる。
俺は足場を三つ見た。
左のタンクの側面。沈んだ配管の胴。天井クレーンの梁。
タンクを蹴る。
水を割らない。
配管の上を三歩。
梁へ手をかける。
腕の力で体を振る。
門主の頭上を取る。
鎌が振り下ろされる。
水が裂けて、柱の一本に当たる。
鈍い音が一つ。
律は動かない。
「十五、十四」
鎌が戻る。
門主の胴がまた律のほうへ向く。
俺は梁の上で、前腕のひれを見た。
まだだ。
薄刃は出る。
だが斬られれば次はない。
「十三、十二」
蔵前が横から入った。
盾鎚を門主の脇腹へ打ち込む。
甲殻が鳴る。
門主の胴が半歩、横へずれる。
鎌が蔵前のほうへ払われる。
盾が受ける。
蔵前の両脚が水を割って一歩、下がる。
「十一、十」
門主の鎌がもう片方、上がる。
その先はまた律だ。
律はストップウォッチを見ている。
「九、八」
俺は梁を蹴った。
落ちながら薄刃を抜く。
水に入る音はほとんどない。
鎌腕の付け根へ、刃を当てる。
浅い。
甲殻が硬い。
刃が滑る。
門主の胴が回る。
鎌が横から来る。
俺は水を蹴って、後ろへ三歩。
鎌の先が胸の前を薙ぐ。
「七、六」
律の声が水音の切れ間から聞こえる。
蔵前がまた入った。
盾で受け、鎚で打つ。
門主の注意が蔵前へ半歩動く。
「五、四」
俺はタンクの側面を蹴った。
上を取る。
門主の頭の真上。
鎌が蔵前のほうを向いている。
「三、二」
薄刃を逆手に持つ。
落ちる。
首の継ぎ目へ。
刃が入る。
今度は深い。
甲殻が内側から鳴る。
「一、ゼロ」
声と同時だった。
薄皮が首の後ろから一気に張り直される。
肩まで戻る。
前腕まで戻る。
踵の線まで、一本に繋がる。
「再使用、可能です」
律の声はいつもと同じ速さだった。
俺は水に立っている。
門主の首の継ぎ目から、黒い染みが広がり始めている。
鎌がゆっくりと下がる。
門主の胴が、傾ぐ。
音を立てて、水へ沈む。
波紋が三つ、外へ広がって消える。
それきり、動かない。
視界の端に白い文字。
【経験値を取得しました +1,688】
【レベルが上がりました Lv.10→Lv.11】
水が膝の横で静かに鳴っている。
蔵前が盾鎚を下ろした。
ヘルメットの下から息が漏れる。
「……全員、無事か」
タンクの陰から、ヘルメットが二つ三つ戻ってくる。
「荷運びが、門主を……」
「あの墨色、誰だ」
声は水音に沈められている。誰も答えない。
権藤が背負子を担いだまま、口を半開きにして俺を見ている。
「……は?」
それだけ言って止まった。
蔵前が盾鎚を下ろしたまま、隊員のほうへ顔を半分だけ向ける。
「無駄口を叩くな」
短かった。それきり、水音だけが戻る。
戸張が水の中で一度だけ腰を落とした。
それから、立ち上がる。
暗い橙の殻が水を滴らせて光る。
俺は薄刃を収めた。
律が三歩後ろで、ストップウォッチを止める音がした。
「二十秒、ちょうどでした」
俺は振り返らない。
「ああ」
肩の箱を水の上から拾い上げる。
肩に乗せる。
蔵前がこちらを見ていた。
ヘルメットの下の目が俺の背中を上から下へなぞる。
ヘルメットの顎紐を一度締め直して、片腕を上げた。
「全員、進むぞ」
戸張が水を分けて、俺の横に来た。
「灰塚さん」
声は小さい。水音に消えそうなほどだ。
「さっきの、あれ……」
「たまたまだ」
俺は前を見たまま答えた。
戸張は納得していない顔だった。
それでも少しだけ笑って頭を一度下げる。
「……っす」
それだけ言って、自分の位置へ戻っていく。
暗い橙の背中が水を割って前へ戻る。
律が三歩後ろで、何か言いたそうに息を吸った。
何も言わなかった。
水音が列の幅を狭めては戻す。
◇
二十日目の朝、左の高炉の足元に、もう一つ口が開いた。
真ん中の高炉の門は、昨日の門主で閉じた。
左の門は新しい。
縁がまだ細い。脈が速い。開くたびに白い光が高炉の脚を一筋撫でる。
黒潮の隊は門の前で二列に並んでいた。
俺は最後尾に立った。
律が三歩後ろ。
肩の箱は今日も一つ。権藤の背負子から預かった分だ。
蔵前が門の前に立って、名簿を閉じた。
蔵前は振り返った。
ヘルメットの下の目が列の端から端まで一度だけ動く。
「門の中じゃ、昨日と形が違う」
声は砂利の上で転がる。
「縦に深い。壁沿いに足場が螺旋で下りてる」
蔵前の目が列の真ん中あたりで止まった。
「荷運び」
俺を見ている。
「お前は中ほどだ」
理由は言わなかった。
言わないまま、片手で列の真ん中を指す。
俺は頷いた。
列の最後尾から中ほどへ歩く。
権藤の横を通る。権藤は何も言わない。背負子の紐を握り直しただけだ。
戸張の横を通る。戸張は目だけで俺を追った。
列の中ほど、蔵前の三つ後ろに入る。
前にも後ろにも黒潮の隊がいる。
最後尾に立つのは、もう俺じゃない。
律が三歩後ろについた。
蔵前が前へ向き直る。
「全員、間隔を詰めろ」
列が動き出す。
俺は中ほどで、肩の箱を持ち直した。
先頭の蔵前が門の口に届く。
縁の脈が一拍だけ速くなって、戻る。
一昨日、真ん中の門の口で聞いた三拍と、同じ速さだった。
蔵前が黒い口へ入る。
俺の番が来る。
一歩、踏み出す。
中は暗い。
そして、縦だった。
足元に鉄の格子。壁沿いに螺旋の足場が下へ下りている。
見上げれば天井がない。高炉の内側をそのままくり抜いたような空洞だ。
奥の暗がりの底が見えない。
肩の箱を持ち直す。
そのとき、後ろで靴音が二つ近づいた。
振り返らない。
気配で分かる。
黒潮の若手だ。暗い橙の殻が二つ。
戸張じゃない。もっと若い。
二人は何も言わずに、俺の後ろへ回り込んだ。
俺の三歩後ろ、律のさらに後ろに一人。
もう一人は律の横に並ぶ形で足場の外側に立った。
壁側だ。落ちる側じゃない。
自分たちで決めた位置だ。
俺は前を向いたまま、肩の箱を持ち直した。
「灰塚さん」
律が三歩後ろで、小さく言った。
「後ろ、二人増えてます」
「ああ」
律は足場の幅を目で測っている。
「足場、一段が六十センチです」
声はいつもと同じ速さだった。
俺は頷いた。
足場を三つ見る。
一段下の格子。壁の配管。その先の踊り場。
先頭の蔵前のヘルメットが、螺旋の最初のカーブを曲がって下へ消える。
俺も足を踏み出す。
鉄の格子が靴の下で一度だけ鳴った。
後ろの暗い橙が同じ間隔でついてくる。
振り返らない。
だが、分かる。
俺が速くなれば、後ろも速くなる。
俺が遅くなれば、後ろも遅くなる。
誰も何も言わない。
足場の螺旋が下へ下へと巻いていく。
空洞の底は鉄の粉で黒かった。
奥の暗がりから、門主が出る。
蔵前が盾鎚を上げた。
「全員、足止めだ」
隊が左右へ割れる。
俺は壁を蹴る。
螺旋の手すりを踏み、一段飛ばしで駆け上がる。
後ろの若手二人が足場を空ける。
影走りで壁を走る。
上を取る。
落ちる。薄刃を逆手に抜く。
首の継ぎ目に、刃が入る。
手応えが一つ。
門主が傾ぐ。
音を立てて、底へ沈む。
それきり、動かない。
視界の端に白い文字。
【経験値を取得しました +2,106】
【レベルが上がりました Lv.11→Lv.12】
螺旋の足場を一段ずつ上る。
鉄の格子が靴の下で低く鳴る。
後ろで暗い橙が二つ、間隔を詰めた。
今度は俺から振り返らない。
戸張がその列に入る。足音が一つ増える。
先頭で蔵前が一度だけ振り返る。
ヘルメットの下の目が列をなぞって、前へ戻る。
何も言わない。
俺も何も言わない。
足場を三つ見る。格子、配管、上の踊り場。
上りながら、背中の荷が一つ軽い。
◇
その日の夕方、澪浜から遠い白い部屋で、モニターが一つ光っていた。
早瀬が白衣の袖口を直し、画面の数字を読み上げる。
「主任、澪浜支部の殻圧計です。同じ個体で百六十五から七百九十に」
声は淡々としていた。感想は言わない。
榊は紺のカーディガンのまま、椅子を半分だけ回した。
モニターの端に、天霧の社章が小さく映っている。
モニターには二つの数字と、その間の日付が並んでいる。
日付と日付の間は数日しかない。
榊の指が机の上で一度だけ止まった。
「再現できますか」
穏やかな敬語だった。数字だけを見ている。
早瀬は答えなかった。
白衣のポケットに手を入れたまま、画面の前で動かない。
榊はそれ以上、何も言わなかった。
モニターの数字が白い部屋の中で静かに並んでいた。




