第15話 後ろから見てたから
二十一日目の朝、黒潮の三つ目の正門に入った。
今日は、大鳥さんも中に入った。
門の中は、崩れた立体駐車場だった。
斜路が七層まで続いている。
天井は抜け、鉄骨がむき出しの吹き抜けになっていて、上から白い光が筋になって落ちてくる。
壁沿いに車が並んでいる。どれも錆びて、窓が割れ、タイヤが潰れている。
斜路の幅は車一台分より少し広い。
黒潮の隊は二列で進む。
大鳥さんが先頭だ。錆色の殻が光の筋を横切るたびに、鈍く色を変える。
その後ろに蔵前。その三つ後ろに俺がいる。
律は三歩後ろ。
肩に箱を一つ。
鉄骨の影が斜路の上に斜めに落ちている。
一段上がるごとに、光の筋が増える。
奥の層から水音が聞こえる。配管が割れているのだろう。
先頭が三層目の踊り場へ差し掛かったとき、空気が変わった。
上の層から、甲殻の足音が二つ三つ。
蔵前が片手を上げる。
列が止まる。
大鳥さんは振り返らない。ゆっくりと首だけ動かして上を見た。
「坊主」
声は低い。
「上は任せた」
俺は上を見た。
四層目の斜路の影に、犬ほどの甲殻が三匹。
五層目の吹き抜けの縁に、二匹。
六層目の柱の裏に、一匹。
列が壁際へ寄る。
俺は肩の箱を律に預けた。
律は両手で受け取る。
「数えます」
俺は頷いて、斜路の縁を蹴った。
影走りで壁を走る。
靴の裏がコンクリートの粉を落とす。
四層目の斜路へ上がる。
一匹目が車の陰から出てくる。
薄刃を逆手に抜く。
首の継ぎ目へ一閃。
甲殻が崩れる。
「一です」
律の声が下から聞こえる。
二匹目が横から跳ぶ。
前腕のひれが光の筋を一瞬遮る。
薄刃が腹の下へ入る。
甲殻が斜路の縁に当たって落ちる。
「二です」
三匹目が車の上から跳びかかる。
俺は車の屋根を蹴って上を取る。
落ちる勢いのまま背中へ。
刃が甲羅の隙間へ沈む。
「三です」
五層目の吹き抜けへ出る。
鉄骨の影が濃い。
四匹目が柱の上から滑り降りてくる。
俺は柱を三歩駆け上がる。
薄刃を横に払う。
首が跳ねる。
「四です」
五匹目が斜路の下から回り込む。
俺は吹き抜けの縁を蹴って、影走りで天井近くまで駆け上がる。
落ちる。
刃が頭の真上から入る。
「五です」
六匹目は六層目の柱の裏にいた。
柱と柱の間、光の筋が三本落ちている。
甲殻がその間を縫って下りてくる。
俺は柱を蹴って横へ跳ぶ。
薄刃が横薙ぎに入る。
甲殻が柱に叩きつけられて、落ちる。
「六です」
俺は斜路へ降りる。
律が三歩後ろで、ストップウォッチを止める音をさせた。
「六匹、十六秒でした」
声は小さく、しかしはっきりと隊の中ほどまで届いた。
蔵前が盾鎚を持ち直す。
「全員、進むぞ」
列がまた動き出す。
律が三歩後ろで、メモ帳に何か書く音をさせた。
斜路を上がる。
上の層から、また水音が聞こえる。
上の層へ足をかける。
律の声は途切れない。
斜路を一段上がるたびに、どこかから甲殻が出る。
俺は手すりを踏み車の屋根を踏み、床の縁を踏む。
足場を三つ見て、二つ選ぶ。
刃は一振りで一匹。
「十三」「十四」「十五」
数が増えるほど、律の声は短くなる。
その上の層。
光の筋が三本、斜めに落ちている。
その光の中に、一回り大きい甲殻が二体。
犬の倍はある。
甲羅の線が太く、脚が短い。
俺は足を止める。
一体が先に来る。
前脚が振り下ろされる。
俺は斜路の手すりへ跳ぶ。
手すりの上を三歩。
甲殻の背へ落ちる。
首の継ぎ目が硬い。
刃が浅く入る。
甲殻が暴れる。
俺は振り落とされないようにひれを立てる。
二度目で深く入る。
一体目が斜路へ崩れる。
「二十です」
二体目が車を踏み潰して来る。
俺は吊り下がった車の下をくぐる。
甲殻が車を跳ね飛ばす。
その車の影から、上へ。
床の縁を蹴る。
真上から落ちる。
首の継ぎ目へ、体重を乗せる。
刃が抜けなくなる。
俺は柄を握ったまま、体を横へ振る。
甲殻が傾ぐ。
刃が抜ける。
「二十一です」
俺は斜路へ降りる。
息は乱れていない。
律の声が下の層から聞こえる。
「二十二、二十三」
また来る。
車の陰、柱の裏、吹き抜けの縁。
数えるのが追いつかない。
俺も数えない。
律だけが数える。
吹き抜けへ戻る。
吊り下がった車が三台、鎖で揺れている。
その鎖の間に甲殻が三匹。
俺は鎖を伝って渡る。
一匹目。
二匹目。
三匹目は鎖を切る。
車が落ちる。
俺は車の屋根に乗って、一緒に落ちる。
落ちる先に甲殻が二匹。
車が潰れる前に、跳ぶ。
「五十です」
「五十一です」
俺は斜路の床に着地する。
膝が少しだけ沈む。
甲殻の数が減ってきた。
吹き抜けの奥から、もう一波。
八匹。
俺は手すりを三歩。
床の縁を三歩。
車の屋根を三歩。
刃を逆手に持ち替える。
一匹。
二匹。
三匹。
四匹目は上から。
五匹目は横から。
六匹目は下から。
七匹目は後ろから。
俺は斜路の角で体を反転させる。
刃が円を描く。
「五十二」「五十三」「五十四」
「五十五」「五十六」「五十七」「五十八」
最後の一匹が斜路の下へ逃げる。
俺は手すりを飛び越える。
落ちながら追いつく。
首の継ぎ目へ。
「五十九です」
俺は斜路の六層目に立っている。
光の筋が四本、床に落ちている。
甲殻の気配がない。
吹き抜けの奥も、車の陰も、柱の裏も。
静かだ。
俺は薄刃を収める。
肩の箱を律から受け取る。
肩に乗せる。
「ああ」
それだけ言った。
蔵前の盾鎚が、水音の代わりに鉄を鳴らす。
俺は斜路を上がる。
光の筋が一段増える。
七層目の吹き抜けの奥は、まだ暗い。
その暗がりを、斜路が上から下りてくる。
足音がする。
一つ一つが重い。
鉄骨の継ぎ目が揺れている。
先頭の大鳥さんが足を止めた。
錆色の殻が光の筋を背に受けて、黒く見える。
蔵前が盾鎚を両腕に構えた。
「全員、構えろ」
声が斜路を落ちてくる。
列が詰まる。
俺は中ほどで、肩の箱を持ち直す。
律が三歩後ろで、息を吸う音がした。
暗がりから、脚が見えた。
先端が斜路の縁を掴む。
一本、また一本。
左右に三本ずつ。
胴が続く。
車一台を軽く跨ぐ横幅。
甲羅の線は太く、継ぎ目ごとに油のような光が滲んでいる。
多脚の重量級。
斜路が沈む。
一段下りるたびに、床が低く軋む。
蔵前のヘルメットが、門主の胸の高さへ向く。
俺は胸の下を見た。
480
四百八十。
蔵前の四百十よりは高い。
だが、重さが違う。
脚の数が違う。
門主が斜路の半ばで止まった。
胴が前へ傾ぐ。
右側の三本の脚が、一度だけ深く沈む。
斜路のコンクリートが粉を吐く。
次の瞬間、門主が突進した。
蔵前が盾を前に出す。
盾鎚の片方が光の筋を反射する。
重い音が一つ。
鉄と鉄が噛み合うような、低い衝突音が吹き抜けに響く。
蔵前の両脚が斜路を滑る。
一歩、二歩。
隊が押し下げられる。
大鳥さんが片腕で後続を制す。
戸張が壁際へ跳ぶ。
律は三歩後ろのまま、動かない。
俺はまだ何も言わない。
肩の箱を下ろす。
コンクリートの粉の上に、静かに置く。
門主の右側の三本の脚が、また沈む。
次が来る。
蔵前の盾が斜路にめり込む音がする。
列がさらに半歩下がる。
俺は足場を三つ見た。
斜路の手すり。
柱の影。
吊り下がった車の鎖。
どれも、まだ見ているだけだ。
律が三歩後ろで、ストップウォッチのボタンに指をかけた。
門主の胴が、また前へ傾ぐ。
右の三本が、沈んだ。
「右」
声が出た。
後ろから声を出したのは、六年で初めてだった。
蔵前のヘルメットが半分だけ俺のほうを向く。
盾鎚の片方が、まだ門主の脚に押されている。
一拍、遅れた。
その一拍で、門主の胴がもう半歩前へ傾いでいた。
「聞こえたろ」
大鳥さんの声が先頭から落ちてくる。
振り返らない。錆色の背中は斜路の上へ向いたままだ。
「坊主の指示だ」
蔵前の顎紐が一度だけ揺れた。
ヘルメットの下の目が、門主の右の三本の脚へ戻る。
「……右だ!」
自分の声で言い直した。
盾鎚を横へ払う。
「全員、右へ割れ!」
声が吹き抜けの鉄骨に当たって散る。
隊が右へ割れる。
ヘルメットの列が、右の壁際へ寄る。
俺は中ほどで、右へ半歩だけ動いた。
肩の箱はもう床の上だ。
門主の右の三本が、深く沈む。
沈みきる前に、胴が来た。
突進だ。
斜路の左半分へ、車一台分の幅をそのままぶつける。
門主の脚が空の斜路を踏み抜く。
コンクリートが割れて粉を吐く。
突進は止まらない。
止まらないまま、右へ向きを変えられない。
六本の脚のうち、左の三本が空を掻いている。
門主の胴が手すりへ向かって滑る。
手すりの鉄が、甲羅の横腹へ食い込む。
鈍い音が一つ。
鉄骨の継ぎ目が鳴る。
門主が止まった。
手すりが半分、外へ折れ曲がっている。
甲羅の横腹に、白い傷が一本走った。
門主の脚が、まだ斜路を掻いている。
掻くたびにコンクリートが削れる。
だが胴は動かない。
手すりに取られている。
蔵前が盾鎚を持ち直した。
ヘルメットの下から息が漏れる。
俺のほうは見ない。
「全員、間隔を開けろ」
声はもう迷っていなかった。
「門主はまだ生きてる。手すりから抜けるぞ」
黒潮の隊が左右へ散る。
戸張が車の陰から出て、斜路の角へ回る。
律は三歩後ろのまま、動かない。
ストップウォッチの親指が、ボタンの上にある。
まだ、倒していない。
門主の甲羅の傷が、油のような光を返している。
俺は斜路の手すりを蹴った。
壁を三歩。
靴の裏がコンクリートの粉を落とす。
吹き抜けの縁へ出る。
上へ。
上の層の床の縁を蹴る。
吊り下がった車の鎖を掴む。
鎖が軋む。
車が揺れる。
その揺れを蹴って、最上層の床の縁へ。
門主の真上だ。
下を見る。
甲羅の継ぎ目が、油の光を斜めに返している。
手すりに取られた胴が、まだ脚を掻いている。
六本の脚が床を削る音だけが、吹き抜けに響く。
俺は手を離す。
落ちる。
薄刃を逆手に抜く。
空気が肩のひれを鳴らす。
門主の首の継ぎ目へ。
刃が入る。
深く。
甲羅が内側から軋む。
六本の脚が、一斉に止まる。
俺は斜路の床に立っていた。
門主の胴が、ゆっくりと横へ倒れる。
手すりが折れて、車一台分の重さが床を打つ。
粉が一つ、白く舞って、消えた。
律が三歩後ろで言った。
「六十です」
視界の端に白い文字。
【日課:無被弾撃破 60(60/60)達成】
【連続21日:共鳴+1】
【経験値を取得しました +2,250】
【レベルが上がりました Lv.12→Lv.13】
殻圧は、九百になった。
斜路に粉が舞ってそれが収まる前に、黒潮の隊が門主の周りへ戻ってきた。
ヘルメットの列が左右から詰まる。
誰もまだ、まともに口を開かない。
倒れた門主の脚が一本痙攣するように動いて、止まった。
それきりだ。
先頭から、大鳥さんが下りてくる。
錆色の殻が、光の筋を一本ずつ踏み越えて斜路を下りる。
足音は重い。
俺の前で止まった。
倒れた門主を一度だけ見る。
甲羅の傷と、折れた手すりと白い粉まみれの床を、順番に。
それから、俺の顔を見た。
「坊主」
声は低い。
「声、出るじゃねえか」
俺は肩の箱を拾い上げながら答えた。
「たまたまだ」
大鳥さんは鼻で笑った。
それから、蔵前のほうへ顔を向ける。
「撤収は任せた」
蔵前は盾鎚を下ろしたまま頷いた。
「全員、動け。荷をまとめて引き上げるぞ」
声が吹き抜けに散る。
隊員たちがざわめき始める。
「今の、見たか……?」
「いや、俺は後ろで……」
「あの墨色、やっぱり一人で……」
声はどれも短い。
互いに顔を見合わせるだけで、続かない。
律が三歩後ろで、メモ帳を閉じる音をさせた。
「六十匹、全て記録しました」
声はいつもと同じ速さだった。
俺は箱を肩に乗せ直す。
「ああ」
蔵前の声がまた飛ぶ。
「列を崩すな。門の外まで気を抜くなよ」
ヘルメットの列が動き出す。
俺は中ほどのまま、斜路を下りる。
大鳥さんが最後尾で、もう一度だけ倒れた門主を見ていた。
◇
帰りの斜路は、行きより短く感じた。
鉄骨の影が一段ごとに後ろへ流れていく。
靴の裏がコンクリートの粉を踏む。
戸張が横に並んだ。
暗い橙の殻が、光の筋を一つ横切る。
少し迷ってから、口を開いた。
「灰塚さん」
声は小さくない。だが、勢いはない。
「なんで分かったんすか」
俺は足を止めない。
斜路の角度が少し緩くなっている。
「右、って。あの一拍で」
戸張の目が横から俺を見ている。
俺は少し考えた。
足場を三つ見る。手すり、柱の影、下の踊り場。
どれも、もう要らない。
「後ろから見てたから」
それだけ答えた。
戸張は黙った。
斜路の床が一段、靴の下で鳴る。
「……後ろ、っすか」
意味が分からない、という顔だった。
眉の線が寄っている。
それでも一度、頷いた。
「……っす」
戸張はそのまま、横を歩いた。
先頭で、ヘルメットが振り返った。
蔵前だ。
盾鎚を下げたまま、斜路の下から俺を見ている。
「灰塚」
声は短かった。
俺は足を止める。
「門の外まで、その位置だ」
理由は言わない。
言わないまま、ヘルメットが前へ戻る。
「ああ」
俺は答えた。
肩の箱を持ち直す。
箱の角が、肩のひれに当たる。
戸張には、「たまたまだ」と言わなかった。
斜路の先に、門の口の白い光が見えている。
まだ、出ない。
列が、その光へ向かって下りていく。
門の口の手前で、俺は一度だけ振り返った。
倒れた門主の甲羅から、光がゆっくりと抜けていく。
油のような継ぎ目の滲みが、端から順に色を失う。
奥の天井の継ぎ目に、赤い筋が一瞬だけ走った。
細い。
光というより、傷に近い。
俺だけが見た、と思った。
その瞬間だった。
隣にいた戸張の暗い橙の殻で、線の光が一拍だけ暗くなる。
肩の線から前腕まで細く走っていた光が、息を飲むように沈んだ。
すぐに戻る。
戸張が自分の腕を見る。
「あれ、今……」
言いかけて、口が止まる。
俺は自分の前腕を見た。
殻の線は、白いままだった。




