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第16話 五分の一




二十二日目の朝、黒潮の四つ目の正門に入った。


門の中は白い洞だった。


洞の壁が白い。


塩の柱が天井まで届いている。


床は踏むたびに、細かい結晶が砕けて光る。


隊は二列のまま進む。


大鳥さんが先頭だ。


錆色の殻が白い壁に黒く浮いて見える。


その後ろに蔵前。


三つ後ろに俺。


肩に箱を一つ。


律が三歩後ろで、小さな背負子を揺らしながら歩いている。


天井の結晶が奥から青白い光を落とす。


塩の柱の影が床に薄く伸びている。


崩れた岩棚の上から、甲殻の足音がした。


三匹だ。


蔵前が片手を上げる。


列が止まる。


俺は肩の箱を律に預けた。


律が両手で受け取る。


「数えます」


俺は頷いて、柱を蹴った。


壁を三歩。


白い粉が靴の裏から落ちる。


岩棚の縁へ上がる。


一匹目が結晶の陰から出てくる。


薄刃を逆手に抜く。


首の継ぎ目へ一閃。


甲殻が崩れて、塩の床に沈む。


「一です」


二匹目が柱の上から跳ぶ。


俺は柱を蹴って、上を取る。


落ちる勢いのまま背中へ。


刃が甲羅の隙間へ入る。


「二です」


三匹目が岩棚の裏へ回る。


俺は天井の結晶を蹴った。


影走りで逆さに走り、真上から落ちる。


刃が頭のてっぺんから入る。


「三です」


岩棚の上に降りる。


膝が少しだけ沈んで、白い粉が舞う。


他に足音はない。


天井の結晶がまた青白く光っている。


律が三歩後ろで、ストップウォッチを止める音をさせた。


「三匹、七秒でした」


俺は薄刃を収めて、箱を受け取る。


肩に乗せる。


「ああ」


それだけ言った。


蔵前が盾鎚を持ち直す。


「全員、進むぞ」


列がまた動き出す。


白い洞の奥へ、塩の柱が続いている。


律の足音が三歩後ろで砕けた結晶を踏む。


奥へ進むほど、塩の柱が太くなる。


広間に出た。


広間の床は平らだった。


塩の結晶が床一面に敷き詰められていて、靴の裏で細かく砕ける。


天井が高い。


結晶が奥から青白い光を落としている。


柱は広間の縁にだけ残っている。


真ん中は空だ。


何もない、白い箱のような場所だった。


その真ん中に、一体いた。


犬の倍はある。


甲羅の線が太い。


脚は短い。


岩棚の上から見た三匹とは、大きさが違う。


俺は足を止めた。


蔵前が片手を上げる。


列が止まる。


「全員、止まれ」


声が白い壁に吸われる。


甲殻は動かない。


床に脚をつけたまま、こちらを見ている。


いや、見ているのかどうか分からない。


目らしいものがどこにもない。


その甲羅の線が内側から光り始めた。


赤い。


細い線が一本、甲羅の縁から背中へ走る。


次が二本。


三本。


線が増えるたびに、赤が濃くなる。


甲羅の内側に、血のようなものが灯っていく。


白い洞は白いままだった。


天井の結晶も塩の柱も、床も。


赤いのはあの一体だけ。


「赤化だ」


大鳥さんの声が低い。


先頭から下がって、広間の入口に立っている。


「坊主」


俺は前を見たまま、頷いた。


「見とけ」


俺は赤い甲殻を見た。


赤が七本目の線を越えた。


甲羅の線というより、血管に見える。


内側から押し上げるように、赤が太くなっていく。


甲殻が一度、大きく震えた。


床の結晶がその脚の下で砕けた。


蔵前が盾鎚を両腕に構える。


「全員、下がれ。俺が受ける」


戸張が半歩、下がった。


律は三歩後ろで、動かない。


ストップウォッチの親指が、ボタンの上にある。


まだ、数えていない。


俺は肩の箱を下ろした。


結晶の上に静かに置く。


甲殻の赤が八本目で止まった。


止まったまま、内側から光を返している。


白い広間に、赤が一つだけ浮いている。


動かない。


音もしない。


俺は足場を三つ見た。


塩の柱。


天井の結晶。


床の縁。


どれも、まだ見ているだけだ。


赤い甲殻の胸の下に、数字が浮いていた。


640


六百四十。


大鳥さんの六百二十より、上だ。


蔵前は四百十。戸張は百七十八。門に入る前に、一度だけ見た数字だ。


赤い甲殻が一歩出た。


その一歩で、空気が変わった。


変わったのは空気だけではない。


白い広間に散っていた黒潮の殻の線が、一斉に鈍った。


蔵前の盾鎚の縁が光を返さなくなる。


戸張の暗い橙の肩の線が、煤を被ったように沈む。


隊のヘルメットの列が、端から順に色を失っていく。


音はない。


光が抜けるだけだ。


蔵前が真っ先に気づいた。


盾鎚を構えたまま、自分の腕を見る。


前腕の線が灰色に濁っている。


盾鎚の刃の光も、半分ほど死んでいた。


「……重い」


呟いて、すぐに顔を上げた。


迷いはなかった。


「下がれ、全員!」


声が白い壁に当たって散る。


「赤の間合いだ。二十歩、下がれ」


ヘルメットの列がざっと後ろへ引く。


戸張が二歩、三歩と下がって膝に手をついた。


「体、重いっす……」


肩で息をしている。


暗い橙の殻が煤を被ったようにくすんでいる。


「なんだこれ、線が、光んねえ……」


蔵前が戸張の肩を掴んで引く。


「喋るな。下がれ」


俺はその場に立っていた。


動かなかった。


足は軽い。


肩のひれも、前腕のひれもいつもと変わらない。


俺は自分の前腕を見た。


線は白いままだった。


継ぎ目の一本一本が白く光っている。


煤も、濁りも、ない。


体も軽い。


息も、乱れていない。


俺は顔を上げて、隊のほうを見た。


胸の下の数字が変わっていた。


大鳥さん。


124


蔵前。


82


戸張。


36


六百二十が百二十四。四百十が八十二。百七十八が三十六。


五分の一だ。


誰の数字も、同じ割合で削られている。


俺は九百のままだった。


赤い甲殻がまた一歩出た。


そのたびに、隊の殻の線がもう一段沈む。


「灰塚!」


蔵前の声だ。


ヘルメットの下から、まっすぐ俺を見ている。


「お前も下がれ。その位置は駄目だ」


俺は赤い甲殻を見ていた。


胸の下の数字はもう読まない。


読まなくても分かる。


重さがこっちへ来ている。


だが俺の殻には、届いていない。


「灰塚」


もう一度、蔵前が呼ぶ。


俺は足を動かした。


半歩、右へ。


隊の列の、前へ出る形になる。


「おい、坊主」


今度は大鳥さんの声だった。


広間の入口から、低く落ちてくる。


「下がれとは言わん。だが、理由を聞くぞ」


俺は赤い甲殻を見たまま答えた。


「線が、白いままだ」


一拍、沈黙があった。


大鳥さんは何も言わなかった。


蔵前が盾鎚を握り直す。


鈍った線のまま、それでも構えを崩さない。


「……分かった」


短く言って、列のほうへ顔を戻した。


「全員、赤の間合いの外で待て。俺と灰塚で受ける」


戸張が顔を上げる。


「班長、自分も……」


「お前は下がれ。線が死んでる」


蔵前の声は迷っていなかった。


「死んだ線で前に出るな。それだけだ」


戸張は唇を噛んで、それでも頷いた。


赤い甲殻が三歩目を出した。


白い結晶がその脚の下で砕ける。


俺は薄刃を、まだ抜かない。


足場を三つ見た。


塩の柱。


天井の結晶。


床の縁。


今度は選ぶ番だった。


赤い甲殻の頭がこっちを向かなかった。


胴ごと、ゆっくりと左へ流れる。


視線も何もない。ただ、傾くように向きが変わる。


その先に、戸張がいた。


肩で息をしたまま、膝に手をついている。


暗い橙の殻が煤を被ったようにくすんでいる。


線が一番沈んでいた。


三十六。


一番低い。


赤い甲殻が四歩目を踏み込んだ。


床の結晶が割れて、白い粉が舞う。


戸張のほうへ、まっすぐ。


「戸張!」


蔵前の声が飛ぶ。


盾鎚を握り直して、半歩出る。


だが赤の間合いの内側だ。


蔵前の足が白い結晶に取られるように遅れる。


赤い甲殻の前脚が上がる。


俺は動いた。


床を蹴る。


塩の柱を蹴って、斜めに跳ぶ。


戸張の前へ。


背中で立つ。


薄刃は抜かない。


左腕を横へ流す。


肩のひれが開く。


胸の下で、白い線が一度深く光った。


墨色の薄皮が戸張の前へ一枚、広がる。


俺の形をした、薄い殻だった。


赤い甲殻の前脚がそれを斬った。


白い粉が割れる。


薄皮が真ん中から裂けて散った。


俺は三歩横にいた。


足の裏に、砕けた結晶の感触がある。


戸張はまだ膝をついている。


肩で息をしている。


首の後ろに、小さく汗が光っていた。


「灰塚、さん……」


声が震えている。


俺は前を見たまま言った。


「動くな」


律が後ろで、ストップウォッチのボタンを押した。


「再使用まで、二十秒。数えます」


声は広間の白い壁に吸われて短く消えた。


赤い甲殻は空振った前脚をゆっくりと下ろす。


赤い線が甲羅の内側でまた一つ太くなった。


二十秒。


斬られれば、次はない。


赤い甲殻の前脚がまた上がった。


今度は俺のほうだ。


俺は後ろへ跳ぶ。


塩の柱の根元へ着地する。


赤い甲殻が踏み込む。


柱が揺れる。


「十五」


律の声が短く落ちる。


俺は柱を蹴った。


崩れた岩棚へ跳ぶ。


足の裏で結晶が砕ける。


岩棚の縁が軋む。


赤い甲殻が岩棚の下へ来る。


前脚が岩棚を掴む。


俺はもう一段上を見た。


天井の結晶だ。


「十」


俺は岩棚を蹴った。


天井の結晶へ届く。


逆さに走る。


結晶が靴の裏で砕けて白い粉になる。


赤い甲殻の真上へ回る。


下を見る。


赤い甲羅の継ぎ目が内側から光を返している。


八本の線が一本の太い脈になって背中へ走っている。


その脈の真ん中に、継ぎ目が一本ある。


俺は結晶を蹴った。


落ちる。


薄刃を逆手に抜く。


空気が肩のひれを鳴らす。


赤い甲羅の継ぎ目へ、真上から。


刃が入る。


深く。


赤い脈が刃の両側で一度だけ膨らんだ。


次の瞬間、脈が途切れる。


赤い光が継ぎ目から端へ逃げていく。


甲羅の線が内側から順に色を失う。


俺は甲殻の背に立っていた。


脚が一本、また一本と崩れる。


六本の脚が白い床に沈む。


甲羅が傾ぐ。


結晶が砕けて、白い粉が舞う。


粉が収まる前に、広間の空気が戻った。


蔵前の盾鎚の縁が光を返し始める。


戸張の暗い橙の肩の線が、煤を払うように明るくなる。


ヘルメットの列の端から、順に線が灯っていく。


音はない。


光が戻るだけだ。


蔵前が盾鎚を下ろした。


前腕の線が灰色から鉄色へ戻っている。


「……戻った」


短く言って、俺のほうを見た。


戸張が膝から手を離して、立ち上がる。


「線が、戻ったっす」


自分の腕を、何度も見ている。


俺は甲殻の背から床へ降りた。


薄刃を収める。


結晶の粉が足の裏で鳴る。


赤い甲殻の甲羅はもう白いだけだった。


視界の端に白い文字。


【経験値を取得しました +1,096】


それだけだった。


赤いことについては一行も出ない。


広間の入口から、大鳥さんが下りてきた。


錆色の殻が白い結晶を踏む。粉が靴の裏で鳴った。


俺の前で止まる。


白くなった甲殻の残骸を一度だけ見る。


赤の抜けた甲羅はただの抜け殻みたいに床へ沈んでいた。


それから大鳥さんは俺を見た。


「……なんで坊主だけ動ける」


声は低い。


広間の壁がその声を白く吸った。


俺は正直に答えた。


「知らない」


それだけだった。


大鳥さんはしばらく俺の前腕を見ていた。


白い線のままの殻を、値踏みするように。


「そうか」


短く言って、顔を上げた。


「赤斑(あかまだら)だ。今日はここまでにする」


振り返らず、列のほうへ声を落とす。


「攻略は明日だ」


「協会には俺が言う」


蔵前が盾鎚を下ろしたまま、頷く。


「了解です」


声はまだ少し重い。


線が戻ったとはいえ、肩で息をしている隊員が何人もいる。


戸張が自分の手のひらを握ったり開いたりしている。


「灰塚さん」


俺のほうを見ていた。


「自分、何もできなかったっす」


声は小さく、悔しさで震えている。


俺は何も言わなかった。


言えることがなかった。


蔵前も、戸張も、俺を見ている。


律だけが三歩後ろで静かにメモ帳を閉じた。


広間の天井で、青白い結晶がまだ光っていた。


  ◇


門の外に出ると、昼の光が白かった。


黒潮の隊は門の脇の待機所で荷を下ろしている。


律が隣に来た。


三歩後ろからではなく、並ぶようにして。


小さな背負子を下ろし、黒縁の眼鏡の奥で俺を見ていた。


「灰塚さん」


声は門の中と同じ速さだった。


「さっき、宙を読んでましたよね」


俺は荷を下ろす手を止めた。


肩の箱を地面へ置いて、背を伸ばす。


「ああ」


それだけ言った。


律は防水メモ帳を開いた。


砂色の殻の指がページを一枚二枚と戻す。


「赤い甲殻が出たあと、隊の方たちの殻が一度、全部、光を失っていました」


律は顔を上げない。


「灰塚さんだけ、違いました」


俺は黙っていた。


言えることは少ない。


知っていることも、少ない。


律はそれ以上は聞かなかった。


「数字だけ、いただけますか」


俺は門のほうを見た。


白い洞の入口が昼の光の中にぽっかりと黒く開いている。


「大鳥さん、六百二十が百二十四」


俺の声は自分でも平坦だと思った。


「蔵前、四百十が八十二」


「戸張、百七十八が三十六」


律のペンが、一度だけ止まった。


それから、動く。


紙の上で、小さく音がした。


律は新しい行に、数字を書いた。


620→124、410→82、178→36


三つ、並んだ。


律はそれを一度だけ見た。


それから、静かに言った。


「……五分の一、ですね」


俺は頷いた。


「ああ」


誰も答えられない。


律も、俺も、たぶん大鳥さんも。


なぜ俺だけ殻の線が白いままだったのか。


なぜ数字が同じ割合で沈んだのか。


赤い甲殻はもう、白い抜け殻だ。


門の奥で、青白い結晶がまだ光っている。


律がメモ帳を閉じた。


「戻ります」


それだけ言って、三歩後ろへ下がった。


俺は視界の端を見た。


白い文字はさっきの一行のままだった。


【経験値を取得しました +1,096】


何も、増えていない。


赤のことも、五分の一のことも、俺の九百のことも。


殻ログは何も言わなかった。

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